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徒花の恋  作者: ミナ
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携帯からカノンのメロディが流れ、木綿子は読んでいた本から目を上げると、そばに置いてある携帯を急いで手に取った。

それまで足元で伏せていたモモも体を起こしており、木綿子は自分の反応がモモのように反射的であることに笑う。

時刻は午後3時半。

この時刻のメールはこれまでと変わらず、智紀の帰宅時間を知らせる定期連絡便のようなものだ。

けれど、以前と確実に違うのは、出張でない限り智紀が必ず帰ってくるようになったことだ。

仕事量にもよるが、概ねまともな時間に帰るようになったため、以前携帯を開けるときに感じていたようなひどい緊張はもう無い。

『今日は8時過ぎには帰れると思うから』

文面に飾り気は相変わらずほとんど無いけれど、全然気にならない。

そんなことよりも、8時という文字に嬉しくなる。

大抵7時から日付が変わる頃までの間で忙しさにより帰宅時間が変わるのだが、10時を超えるときは食事を待たせてくれない。

一度待っていたことがあるのだが、気持ちは嬉しいが体に悪いから待たずに食べなさい、と怒られてしまった。

智紀と和解するまではほとんどいつでもひとりきりでの食事だったのに、智紀と共に食事を摂るようになってからはもう、その味気なさに耐えられなくなっている。

幸せに順応するのに、時間なんてほとんどかからないものなのだ。

『今晩は、何が食べたいですか』

『今日はいい日本酒を貰ったから、それに合えば。ちなみに割と辛め。和食系希望。大丈夫そうか?』

まだ微妙に遠慮の抜けない言葉に、木綿子は小さく苦笑した。

智紀の中では、これまでの間の木綿子に対する言動への罪悪感が拭いきれていないらしく、えらく低姿勢なのだ。

亭主関白な実家で育ってきている木綿子としては、そんな智紀の態度はどこか不自然でくすぐったい気がする。

『大丈夫です。楽しみにしててくださいね』

それだけ送ろうとしたが、少し迷った後、文末にきらきらと光るハートの絵文字を入力してみた。

最近智紀とのメールのやり取りにおける文章量が増えたこともあり、ようやく絵文字を使うことを覚えたのだ。

ちなみに絵文字を使えと教えてくれたのは瑞枝で、ハートでも何でもどんどん送ってやれと発破を掛けられているのだが、果たして正解なのか。

プレビュー画面を見つめてなんだか気恥ずかしい気持ちになったが、思い切って送信ボタンを押す。

しかし送信完了の画面が出ると途端に、なぜか失敗したような不安な気持ちになる。

ハートの絵文字を送ったのは、実は初めてだから、やり過ぎていないかどうかと気になってしまったのだ。

『じゃあ、それを楽しみに、夜まで乗り切るよ』

木綿子の心配をよそに、智紀からは嬉しそうなそんな返信が来て、木綿子はほっと息をつく。

木綿子の膝の上に喉を付けて携帯を窺うモモに、文字が読めるわけでもないのに画面を見せてみたりもする。

「モモ、智紀さんが、楽しみにしてくれるって」

一緒に喜んでくれているのかどうだか、モモはふんふんと鼻を鳴らしながら携帯に鼻先を押し付けた。

智紀は仕事中にメールをするようなタイプでも無く、また実際そんな時間の余裕も無いので、日中木綿子が智紀とメールをするのはこの僅かな時間だけだ。

そのこと自体は以前となんら変わりは無いのだが、少しだけ増えた文章量と、明らかに見える想いが木綿子を安堵させる。

『お仕事、がんばってくださいね』

木綿子はモモの頭を撫でてやってから、智紀にそう締めくくりのメールを送ると、夕食のメニューをあれこれと考えだした。


智紀の帰りを察知するのは、相変わらずモモのほうが早い。

犬の耳には到底勝てない、ということは重々承知しているのだが、なんとなく悔しかったりする。

モモの後について玄関まで行くと、ちょうど智紀がドアを開けて入ってくるところだった。

「おかえりなさい」

「ただいま」

木綿子が手を差し出すと、智紀が持っていた鞄と脱いだスーツの上着をこちらに寄こす。

そうして受け取った鞄と上着のその重みに、木綿子は心の底から嬉しさがにじみ出るのを感じるのだ。

「お風呂もできてますけど、先に入りますか」

「木綿子もまだ食べてないだろう。先に食事」

「あ、はい。じゃあ、テーブルで待ってて下さいね」

“木綿子”と名前で呼ばれることに、ようやく慣れてきてはいるのだが、やはりまだどきりとする。

名前を呼びたかった、抱きしめてキスをしたかった、と言ってくれた智紀の声が、まだ耳元でこだましているような気分になるのだ。

赤くなった顔をごまかすように歩きだすと、その視界の端に、智紀の足元に纏わりついて頭を撫でてもらっているモモが映った。

今日もまたモモに先を越されてしまったな、と思う。

想いが通じ合っても、モモを羨ましく思ってしまうことがまだあるなんて、と自分に思わず笑ってしまった。

求める幸福感に、際限など無いのだろう。


少し前までは自分の部屋だったドアを素通りして、廊下を奥へと歩く。

そのことに、まだどことなくふわふわとした気分になりながら、書斎に入り鞄を置く。

それからクロゼットに入って上着を軽くブラッシングしていると、智紀が外したネクタイを手に入ってきた。

「あ、ネクタイ、忘れてました」

「いいよ、自分でやる」

「だめです」

それは私の仕事だ、とばかりに少しだけむっとした口調で木綿子が言うと、智紀は苦笑しながらネクタイを差し出す。

「いつも思うんだが、なんだか亭主関白みたいだ」

智紀の言葉に、今度は逆に木綿子が苦笑する。

こんな程度で亭主関白とは。

ほぼ一年中和服で過ごす實の世話を毎日している涼子の背中を見て育ったのだ、洋服なんて楽なものである。

「いいんです。私が、したいと思ってしてるんですから」

これは、本音だ。

今までだって本当はしたかったのにできていなかったことである、今からでもできて嬉しいのだ。

ネクタイをハンガーにかけ、智紀のほうへ振り返ろうとしたところで、智紀の腕が伸びてきた。

「ありがとう」

言葉と同時にぎゅっと抱きしめられ、背中に智紀が密着している形になる。

幸せに順応するのがいくら早いと言っても、智紀とのこういった密な接触にはまだ慣れない。

というより、この温度と熱と幸福感に、慣れる日など来るのだろうか、とさえ思ってしまう。

沸騰しそうな頭の片隅で、準備していた夕食が冷めてしまうな、なんて考えつつも、でも離れたくない気持ちが大きくて、体に回る腕に手を触れさせる。

帰って来てから初めての触れ合いに、先ほどモモを羨ましいと思ったことを思い出して、木綿子は少しだけ笑った。

「何、どうした?」

智紀に目聡く指摘され、どう答えてよいものか迷う。

ペットを相手に嫉妬なんて、馬鹿馬鹿しいと思われる気がする。

「ちょっと、思い出し笑いです」

「何を?」

あまり突っ込まないで欲しい、と思いつつも仕方なく白状してみることにした。

「いつも、智紀さんは帰ってきた時に先にモモに触るから。さっきも。だから、モモが羨ましいな、って思ったのを思い出して。それで」

言いながらあまりの子どもっぽさに自分でも辟易し、だんだんとしどろもどろになってしまった。

それでも言い切ったはいいが、返ってきたのは智紀の沈黙で、木綿子は恥ずかしさで顔を俯けた。

「あ、の…食事! 冷めちゃいますねっ」

焦って智紀の腕から逃れようとした木綿子だったが、智紀の腕は外れなかった。

それどころか、先ほどよりも心なしか力が強くなった気がする。

「え、あれ、智紀さん…?」

「木綿子がかわいいこと言うから、食事どころじゃなくなるよ、ほんとに」

「えぇ?」

「明日からは、木綿子に先に触るし。後で、嫌ってほど触るよ」

智紀の言葉が意味するところは明らかで、木綿子は今度こそ全身の血が沸騰したように赤くなった。


モモを構いながらダイニングへ向かう智紀と並んで歩きながら、木綿子は自然と笑みを浮かべた。

誤解やすれ違いが続いた日々は、確かに苦しいものではあったけれど、今は自信を持って幸福だと言える。

そして、きっとこれからも幸福な日々が続いていくのだと思える。

将来の夢は“お嫁さん”だと言っていた幼いころのその夢は、今はきちんと叶えられたのだと思える。

咲けども咲けども実を結ばずに散ってゆく徒花の恋は、今、ようやく終わったのだ。


こんな感じで、木綿子は幸せに過ごしております。

いろいろと智紀に対して思うことはたくさんあったと思いますが、それでも今幸せなら何も言うことは無い感じです。

しあわせな時間を重ねていくうちに、きっともっと“夫婦”がしっくりくるのではないかな、と思います。


実を結ばない“徒花”の恋が終わった今、次はどうなるのでしょうか。

次回は智紀編、ついに最終回となります^^


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