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徒花の恋  作者: ミナ
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予期していなかった衝撃に、智紀はうっかりよろめいた。

胸の中に閉じ込めていたはずの木綿子が、智紀を押して腕を逃れたのだ。

木綿子に対する誤解が解けたばかりの今、ようやく木綿子をこの手に抱きしめられたと思ったのだが、この展開はどうなのだろうか。

結婚できて嬉しかったのだと言ってくれはしたが、今ではそうではない、とか。

この一年間の自分自身の木綿子へのあまりにも無関心な態度を顧みれば、あり得ないことではないだけに、薄ら寒い気持ちになる。

聞きたいことがあると言った木綿子に、ひとまず了解の返事を返したが、木綿子はなかなか口を開かない。

ただ、ぎゅっと智紀の服を掴んだままの木綿子の指先が、木綿子の好意を伝えてくれているような気がして、それだけが救いだった。


「あのひと。…誰、ですか」

木綿子が、震えるような声でようやく出したのは、そんな質問だった。

が、はっきり言って意味がわからない。

「…あのひと、って?」

智紀がとぼけたとでも思ったのか、木綿子は一瞬非難するような目線をくれた。

けれどすぐに逸らし、ぼそぼそと細切れな言葉で話す。

「前に、パーティのときに、腕を組んでたひと、です」

パーティの時はいつも木綿子と一緒にいただろう、と思ったすぐ後に、一度だけ佐那に捕まった時のことを思い出して、智紀はぎょっとした。

あれを、木綿子に見られていたのか、迂闊だった。

しかも木綿子は、完璧に佐那と智紀の仲を誤解している。

だが、それであの日の木綿子の硬化した態度の理由がわかった気がした。

それに智紀が家に入るのかどうかしきりに窺っていたのは、佐那に逢いに行くのかどうかを気にしていたのだろう。

智紀自身も木綿子が例の次期家元と話していたシーンを穿って見ていたために、ひどく機嫌が悪かった覚えがある。

木綿子は、それでさらに誤解を深めただろう、かわいそうなことをした。

智紀の動揺と逡巡をどういう意味で取ったのか、木綿子はまた泣き出しそうな表情に逆戻りしてしまった。

智紀はため息をつきつつ、木綿子の指先をそっと包んでやる。

「あれは、従妹の佐那だ。いつもはイギリスにいるし、結婚式も仕事で来ていなかったから、君は顔を知らないだろうけど。

 あの日は、あいつが追いかけられてる男から逃げるのに、適当な男がちょうどいたっていうんで駆り出されただけだよ。実際、追いつかれて放ってきたし」

「佐那、さん…」

結婚式の時に、名前だけは教えていたはずだから、聞き覚えがあるだろう。

木綿子は一瞬納得したような顔をしたが、そのすぐ後にまた思案顔になった。

「じゃあ、“ゆう”さん…は?」

ほとんどひとり言に近いような微かな音で聞こえてきた新たな名前に、誰のことだろうかと智紀は首を傾げる。

もともと女性関係はそれほど派手では無く、むしろ疎ましくさえ思っていた智紀だ。

木綿子と出会って結婚してからは倫理的な縛りも加わり、増して女性とは距離を置いていたはずなのだが、と思った瞬間だった。

「間違えた、のは、誰とですか…?」

最悪だ。

言ってしまった瞬間の木綿子の表情がまざまざと甦り、昨日の自分を殴りたい、と智紀は本気で思った。

木綿子の指先を包んでいた掌に、ぎゅっと力が入る。

「誰かと間違えたんじゃ、無かった。呼んだのも、君の名前だった」

「でも、じゃあどうして」

「…夢だと思ってたんだ。君が傍にいてくれるわけないと思っていたから。ずっと、君は俺を嫌っていると思っていたし。

 名前を呼んでも、キスしても、抱きしめても、君が逃げなかったから、いい夢だ、なんて思ってたよ。

 だから朝、夢じゃなかったとわかって、動揺した。だけどあれは、ひどい失言だった。傷つけて、すまない。すまなかった」

繰返し謝ると、木綿子はゆるゆると首を振った。

「もう、謝らなくていいです。…でも、紛らわしいですっ」

最後に怒ったような物言いをした木綿子は、泣きたいような、怒っているような、嬉しいような、という非常に複雑な表情だ。

ただ、智紀がこれまでずっと見知っていた、どことなく悲壮感漂う硬い表情は消えている。

許されたのだ、と思った。

「あの、ゆ、夢だと思うくらい、智紀さんは、ずっと、…そうしたいって思ってたんですか」

遠慮がちにされた木綿子の質問に、智紀は苦笑した。

智紀がどれほど自分自身を抑え込んできたのか、木綿子は知らないのだ。

「思ってたよ。名前を呼んで、キスして、抱きしめたい、と思ってた、ずっと」

木綿子が言わずに濁したことがらを、あえて言葉に出して言う。

木綿子はぱっと瞠目し、言葉を理解した次の瞬間、かっと顔全体を熱くさせた。

そして、視線が落ち着きなくうろうろと彷徨う。

どう反応するのかを見て、木綿子の気持ちを量ってみたかった智紀としては、それでもう十分だった。

けれど、木綿子は意を決したようにきゅっと唇を引き締めると、そろそろと智紀の胸に体を寄せてきた。

智紀が驚いて思わず木綿子の手を離すと、その手を背中に回される。

「…して、ください」

密着しているせいでくぐもった声ではあったが、木綿子は確かにそう言った。

智紀の期待を遥かに上回る反応を見せた木綿子に、智紀は笑いだしたいようなおかしな気持ちになる。

参った。

本当に、完璧に、参ってしまったようだ。

“仰せの通りに”とばかりに、名前を呼び、木綿子を思う様抱きしめた智紀に、以前の無関心な素振りを演じていた面影は欠片も無い。


本当は、誓いの言葉くらいは交わしたかった。

木綿子がぽつりとそう言ったので、智紀はまた罪悪感に苛まされた。

結婚式に遅れたのは、仕事のせいだというばかりでは無かった。

確かに仕事をしていて遅れたのだが、その仕事は必ずしも智紀がやらなければいけないものでもなかったからだ。

どうにも気持ちに踏ん切りが付けずにいたせいだ、というなんとも子どもじみた理由。

「すまなかった」

木綿子の辛さに、今更気づいた自分自身の鈍感さと不甲斐なさに、腹が立つ。

謝ることしかできないという事実に、打ちのめされる。

背中に回ったままの木綿子の腕に、少し強い力が込められた。

「辛かったのは、お互い様です。智紀さんに、誤解させてしまったのは、私ですし。だから本当に、もう謝らないでください」

「俺が、勝手に誤解したんだよ」

「だからそれは私が、…って、延々こうなっちゃうんですから、もうっ」

智紀の顔を見上げようと木綿子が身じろいだが、智紀が腕の力を緩めなかったせいでできず、木綿子は軽く智紀の背中をぺちりと叩く。

罪悪感を感じないようにと気遣ってくれている木綿子が、愛しくて、逆にまた申し訳ない気がする。

「じゃあ…今、誓おう」

「今?」

結婚したのは一年前だが、本当の意味で夫婦になれたのは、今日この時間からだろう。

やり直しが利くわけは無いのだが、それでも今、やり直したい。

「でも、誰もいないですよ」

「神様がいるんじゃないか」

「ここ、人前式用ホールですけど…」

「本当の神様なら、どこで誓っても聞こえてるよ、きっと」

勝手な言い分だ。

冒涜的かもしれない、と頭の片隅で思うものの、そうですね、と笑う木綿子の前にはそんな理性的な思考は閉ざされる。

死がふたりを分かつまで。

地上でふたりが共に生きる限り、愛し、慈しみ、敬う。

その誓いをお互いに言葉にして、キスで封印した。


まるで、小学生か中学生の少年のようだ、と思う。

木綿子とただ手を繋いで歩いているだけで、満たされた気持ちになるのは、それだけ渇いていた証拠だ。

鍵を返しに行くと、支配人の林(はやし)の目が繋いであるふたりの手に行き、それから木綿子に向かってにこりと笑う。

「ご結婚、一周年でございますね。おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

恥ずかしそうに笑う木綿子の表情に、林は益々笑顔を深めた。

それを横目で見ながら、木綿子のもとへ行く前に林に言われた言葉を思い出し、智紀は少しだけ苦い思いを噛みしめる。

“奇しくも同じ時間の頃でございますね。今回は、間に合うことをお祈りしております”と、言われたのだ。

ホテルを営む人間の観察眼は侮れない。

林は恐らく、結婚式の日から、智紀の気持ちも木綿子の気持ちも、見透かしていたのだろう、と思う。

「間に合って、ようございました」

木綿子には聞こえないだろう程度の、微かな音声。

けれど、智紀に対しても、温かな笑顔が向けられていた。


間に合ったのだろうか。

そうだと、思いたい。

智紀を見上げる木綿子の表情を確かめ、智紀は柔らかに笑った。

きっと、今日こそは、間に合ったのだ。


はいっ! これにて、誤解は全部解けました。

ようやく、ここまで漕ぎ着けました…!

智紀も木綿子も、お互いに向けていた疑惑の矛や、深入りして傷つかないための防護壁を取っ払いました。

やり直し結婚式(笑)もして、やっと夫婦らしくなれたのでした~。


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