15
目を覚ました時、智紀はいなかった。
べつに、ずっと傍にいてくれることなんて期待してはいなかったけれど、それでも少し寂しい気持ちになる。
木綿子の中では、入籍した昨日と挙式した今日と両方が結婚記念日だという認識であるから、今日だって本当は一緒にいたい。
智紀は、もうやめようと言ったけれど、詳細はまだ話し合っていない。
これで本当に終わりになってしまうのだろうか。
これまでの結婚生活は、苦しくてとても幸せなものとは言えないものだったけれど、終わりを考えたことは無かった。
だがそれでも、近づく努力をしたのか、ともし問われれば、満足な答えを返すことはできないのかもしれない、とも思う。
智紀の無関心に怖気づいて、あえて踏み込もうとしたことはほぼ無かったからだ。
ミニデスクの上に飾ってある智紀とのウェディングフォトを手にとって見つめる。
ふと、根拠も無く、この写真の時に戻れたら、と願ってしまった。
きっと戻れたとしても同じことの繰り返しになるには違いないのに、そう思ったら、どうしても同じ場所に行きたくなった。
式を行ったのは、醍醐の傘下の会社が経営しているホテルだ。
式と言っても、大々的に行った披露宴パーティとは異なり、本当に近しい身内だけを呼んだものだったので、借りたのは人前式用の小さなホールだった。
マンションからさほど遠くなく電車で行けばすぐに着くので、車を呼び慣れていない木綿子はいつものように公共の乗り物に乗る。
“醍醐”を翳すのは慣れていないが、ホテルに着いた時には使わないではいられなかったので仕方なく名前を出す。
突然来て予約も無く通してほしいなどと言うことが、非常識なことだという認識はあり申し訳なく思ったが、穏やかな応対に安堵した。
「今日は平日でお客様も少ないですし、お使いいただいたホールも一日空いておりますので、どうぞごゆっくりなさってください」
案内してくれた支配人は、微笑んでそう言うと鍵を木綿子に預け、静かに出て行った。
残された木綿子は、ゆっくりとホールの前方へと歩き出す。
予約が入っておらず使う予定が無いからだろうが、装飾がほとんど無く、ガランとした感じがする。
それでも、何となく一年前を思い出せるような気がした。
何の気なしに時計を見ると、12時半を回っていた。
木綿子は、その時間に力無い笑みを浮かべる。
思い出したくないことばかりが浮かぶのが、こういう時の常なのだろうか。
式は本来、10時に始まる予定だったが、智紀が仕事のために大幅に遅刻してきたのだ。
今までで一番の誤差、2時間と40分の遅れは、この時の記録だ。
披露宴が割と午後の早めからの予定だったため、時間がかなり迫っており、親族紹介などだけで時間はまたたく間に過ぎた。
誓いの言葉すら端折ったのだ。
誰にも誓わない、脆い結婚生活の始まりだった。
あのとき瑞枝は激怒していたが、木綿子は諦めることを覚えた。
けれど今は、どうしても諦めたくなかった。
終わりになんて、されたくない。
終わりになんて、したくない。したくないのだ。
もう帰ろう、と思った時、ドアが勢いよく開く音が聞こえた。
「木綿子!」
ドアの音とほとんど同時に呼ばれた自分の名前に、木綿子は信じられない思いで振り向いた。
今までに智紀から直接名前で呼びかけられたことは無かった。
そして何より、智紀が木綿子がここにいるとわかったことが、木綿子を驚かせた。
「智紀さん、どうして…」
近づいてくる智紀の手の中に、先ほど書いたメモが握りしめられているのが見える。
あの一文だけで、智紀はここがわかったのだろうか。
ぼんやりと考えている間に、智紀は木綿子のすぐ目の前にたどり着く。
すっと差し出されたのは、木綿子の携帯電話だった。
持ち歩く習慣がまだできていない木綿子は、忘れていたことすら気づいていなかったが、とりあえず受け取ろうと手を伸ばす。
その手は、携帯にたどり着く前に智紀に掴まれた。
そのまま引っ張り込まれるように、木綿子は智紀の腕の中に囲い込まれる。
何が何だかわからないまま抱きしめられる格好になった木綿子は、戸惑いに身動ぎするが、智紀は腕の力を益々強めてきた。
ぎゅうぎゅうと押しつけ合うような形になり、息苦しさに木綿子は少しだけ咽る。
「あ、の…」
「カノン」
「え?」
「披露宴の時、カノンを流したがったのはどうしてだ?」
聞かれている質問の意味が、よくわからない。
けれど、智紀に聞かれていることこそが、意味のあることなのではないか、と木綿子は思った。
「きれいで、厳かで、それがずっと繰り返されていく、…そんな風になりたかったんです」
随分と抽象的な答え方になってしまったが、木綿子にとっては精いっぱいだった。
今すぐにでも終わってしまうかもしれない相手に、素直に答えるのも辛い気がして、声も微かに震えていた。
「俺の着信に、カノンを設定したのは…どうしてだ?」
想定外だったその質問に、木綿子の体はびくりと跳ねる。
密かに、想いを込めていたそれに気づかれた、という衝撃は地味に大きい。
けれども、今答えなければ後で後悔することになるだろう、という思いが木綿子の口を開かせる。
「智紀さんと、…そう、なりたかったから」
言った途端、智紀の腕の力が緩み、長いため息が聞こえた。
「君が、俺と、結婚したかった。……そう聞こえるんだが」
返ってきた智紀の言葉が、木綿子の気持ちとあまりにも噛み合わないものだったので、木綿子はわけがわからなくなった。
今の答えからすると智紀は、木綿子が智紀と結婚したくなかったと思っていた、ということだが、そもそもそれからしてわからない。
木綿子は少しだけ緩んだ智紀の腕の中から智紀を見上げたが、冗談を言っているような表情ではなかった。
それでも、確かめずにはいられない。
「あの、それって…真面目に言ってるんですか」
「…君が言ったんだよ」
「え? 何を、ですか」
「父を助けてくれてありがとうございます。…結婚しよう、って言った時、そうやって言った。
だから俺は、君が本当は俺とは結婚したくないのに、家の金のために我慢して結婚したんだと思っていた」
確かに、そう言った記憶はあった。
少なくとも融資の話が最初にあったことを考えれば、それが礼儀だと思っていたから、だからそう言ったのだ。
それを智紀がこんな風に誤解していたなんて、思ってもみなかった。
だから智紀は、ずっと木綿子と関わり合おうとしてこなかったのだろうか。
「でも、私、言いましたよ。その後、結婚できて嬉しい、って。智紀さんと結婚できて、嬉しいって、言…っ」
最初から伝わっていなかった気持ちが哀しくて、木綿子はそれ以上言葉を出せなかった。
詰まった言葉の代わりに出てきた涙で、視界がぼやける。
緩んでいた智紀の腕に、もう一度力が込められて、木綿子はまた智紀の腕の中に閉じ込められた。
「そうか、うん、そうだったよな…」
耳元で聞こえる智紀の声は、どこか苦しそうなものだった。
智紀が誤解したことで木綿子も苦しむことになったが、恐らく智紀もこれまで苦しんできたのだと伝わってくる。
もし、もしも、結婚できて嬉しいという気持ちを最初に伝えられていたら、こんなことにはなっていなかったのかもしれない。
木綿子を抱きしめる智紀の腕の力強さが、智紀の想いの強さを反映しているように思え、木綿子は体を預けたまま目を瞑った。
瞼の裏に、いつかのパーティで目にした光景が浮かんだのは、その一瞬後だった。
そしてその次に思い出したのは、昨日の朝智紀が口走った、“間違えた”という言葉。
期待した後に、また傷つくのは嫌だ。
何より、諦めたくないと願ったのだから、はっきりさせなければ前に進めない。
強く温かい腕にそのまま囲われていたい、という気持ちを無理に押し込め、木綿子は渾身の力を振り絞って智紀の体を押した。
木綿子がそんな行動に出るとは全く予想していなかったのだろう、智紀は驚いた顔で、腕を緩めた。
「私も、聞きたいこと、あるんです」
「…どうぞ」
聞く権利は得たけれど、どう言葉にしてよいのか、迷う。
忘れたくて、思い出したくなくて、でも結局忘れることなどできず、不意に思い浮かんでくる光景と言葉。
考えるのも厭うそれを、口に出して質問することは、一種恐怖でもある。
今は、まだ智紀に触れたままの手から伝わってくる智紀の体温だけが、木綿子の唯一の味方だった。
というわけで!
木綿子に対する智紀の誤解は、無事に解けました。
あとは、木綿子が智紀に対して抱いている誤解だけが残ってます。
それでもようやくここまで来ましたね…。
解決まで、あともう一歩です~。