13
旅行先でも、体内時計は狂わないらしい。
いつの間に眠ってしまっていたのかはわからなかったが、目が覚めたのはいつもと同じく6時だった。
視界には壁が広がっていて、眠っている間も頑なに智紀から目を背けていた自分を声に出さずに笑う。
今日も智紀は、木綿子が目覚めるよりもずっと早く目を覚ましたのだろうか。
しんとした気配に恐る恐る振り返った隣のベッドは、予想通りと言って良いだろう、既に空っぽだった。
そのことに安堵したのか、もしくは落胆したのか、自分の気持ちもはっきりわからないまま、木綿子はひとつ息をつく。
ベッドから下りて、好奇心からか未練からか、智紀の使っていたベッドに近づいてみる。
シーツと枕に多少皺が寄っていたが、整えられたベッドカバーは寝乱れた痕を完全に覆っていた。
そっと触れてみたものの、もうすっかり温もりは消え去っていて、ここで智紀が本当に寝ていたのかどうかも疑わしいほどだった。
心臓がどうにかなりそうだ、と思うくらいの緊張を感じながらドアを開けたが、智紀の姿は無い。
そろそろと必要以上に足音を消しながら移動したが、リビングにもバルコニーにもどこにもいなかった。
とうとう玄関にまで行ってしまったが、揃えて置いてあるのは木綿子の室内履きだけで、智紀は外へ出ていることが確定する。
仕事も無いはずなのに部屋からいなくなってしまうとは、こんなところまでいつもと同じだなんて、とどこか腹立たしい気持ちが沸く。
先ほどまで消していたはずの足音を、今度はうるさいくらいに鳴らして歩く自分が、ひどく幼稚で馬鹿馬鹿しい。
ベッドを振りかえった時に感じたのは、安堵よりも落胆の割合が多かったのだと思い知らされる。
昨日の自分の態度を思い返せば、智紀も居心地の悪さを感じていることは当然だとわかるのに、なんて我儘なのだろう、とため息が出た。
智紀がいなかったことで、良かったことはひとつだけあった。
昨日は入れなかった、部屋についている露天風呂に入れる。
恐らく智紀は、朝食の時間に合わせて帰ってくるのだろうし、あと一時間半は時間がある。
そっと扉を開けると、海側の景色を一望できる、広々とした空間があった。
「わぁ…すごい」
そばにはデッキチェアも置いてあり、そのまま座ってお湯の音や潮風の音を聞きながら景色を楽しむこともできるようだった。
けれども、お風呂好きな木綿子としては、やはり温泉に浸かって楽しみたい。
こんなところに泊まった経験など無い木綿子は、いったん鬱々とした気持ちは忘れて、思わず子どものようにはしゃぎたい気分になる。
帯を解いて浴衣を脱ぐと、持ってきていたバスローブと一緒にデッキチェアの上に掛けて、お湯に浸かった。
源泉の温度が高いのか、潮風が吹いていても、お湯は適度に温かく寒さは感じない。
全身に広がっていく心地好さと、目の前に広がる雄大な景色が、心を静め頭をクリアにしていくようだった。
なんとなく穏やかな気分になれた気がして、木綿子はお湯の中からうんと腕を伸ばす。
デッキチェアのほうへ手を伸ばして携帯を覗くと、既に7時を回っていた。
メイクをしたり着替えたり、いろいろ支度をする時間を考えると、もうあまり時間が無い。
もっと楽しんでいたかったが仕方が無い、と立ち上がり、片足をお湯から出した時だった。
ガラッという音がして、引き戸が開けられた。
この部屋で、この扉を開ける可能性があるのは、ひとりしかいない。
その智紀とまともに視線が合ってしまい、木綿子は目を大きく見開いたまま、自分の今の格好も忘れて体を固まらせる。
智紀も一瞬ぎょっとしたように立ち竦んでいたが、木綿子よりも先に我に返ったらしく、弾かれたように扉を閉めようとした。
一拍遅れて今の状況を理解した木綿子は、だが慌てたせいで体重移動がうまく行かずに足を滑らせてしまった。
「ひ、っ…!」
息を吸い込んだだけのような小さな悲鳴だったが、智紀の耳にも聞こえたらしい。
「危な…っ!」
焦ったような智紀の声を聞きながら、お湯に叩きつけられる、という恐怖に思わず目を瞑った木綿子は、バシャッというお湯の波立つ音に体を震わせた。
けれど次の瞬間、素肌に触れる掌と押しつけられた浴衣の生地、そして間近で伝わってくる体温を意識して目を見開く。
「……大丈夫か」
ほっとしたようなため息交じりで、聞かれたその言葉は聞こえたのだが、木綿子は咄嗟に何も答えられない。
のろのろと視線を下ろすと、お湯に浸かってびたびたに濡れている智紀の浴衣が目に入る。
助けてくれたのだとわかったが、今の自分の格好を思い出すと、どうして良いのかわからない。
「おい…?」
いつまでも何も言わなかったせいか、心配げに覗き込んでくる気配がして、木綿子は慌てた。
今体を離されては、また智紀の視線に晒されることになるのだ、それだけは何としても避けたいという一心で、体を固くしたまま智紀に縋りつく。
やや間を置いて、智紀は木綿子の言いたいことがわかったらしく、腕を伸ばしてデッキチェアからバスローブを取ってくれた。
「濡れるから、外に。…出られるか?」
「は、はい」
辛うじて出した声で返事をし、智紀と一緒にお湯から出ると、智紀は持っていたバスローブを肩に掛けてくれる。
急いで智紀から手を離してバスローブの前を合わせると、ようやく生きた心地がした。
それと同時に、羞恥心でかっと頬が熱くなった。
また、見られたのだ、しかも今度は明るい朝の日の光の下で、智紀は素面、そして全身だ。
それでも、狼狽えているのは木綿子だけで、智紀は何の反応もしない。
もうどんな顔をして良いのかもわからず、目線を上げられないまま、ひとまず助けてくれたお礼を言うために口を開く。
「あの、ありがとうございました」
「いや、もともと俺が悪かった。大浴場に行っているとばかり思っていて、…驚かせたな。すまなかった」
「いいえ…」
智紀の最後の一言に、意図せずに木綿子の声は硬く強張った。
今、謝って欲しくない、と強く思う。
それは、昨日のことを思い出してしまうからか。
それとも、何をどういう意味で謝られているのか、わからずに不安になるせいか。
あるいは、昨日からの木綿子自身の態度について負い目があるからか。
思い浮かぶ理由はたくさんあるけれども、けれどどれも微妙に当てはまらない気がする。
意識が内側に向いていたせいで、木綿子はそのまま動かずに突っ立っていたが、困っているような智紀の雰囲気を感じてはっと我に返った。
濡れて智紀の脚に張り付いたままの浴衣が目に入り、早く脱ぎたいだろうな、と思ったところで自分が邪魔なのだと思い至る。
そして、謝られたくない理由に行き着く。
疎外感だ。
智紀と、同じ次元で生活できていないという、孤独感。
どんな場に面しても穏やかで、木綿子の対応如何に因らず平然としている態度への、不満。
何をしても正面から向き合ってもらえないような、苛立ち。
完全に智紀に依存していながら、何もできない子どものように幼稚な自分に対する、失望。
ずっと変わらない、仮面のような夫婦関係に関する、焦燥感。
それらが全て合わさって、強烈な疎外感を生じさせているのだ。
扉のほうへ目を向けると、そのすぐ近くに、智紀が持ってきていたらしい替えの浴衣と帯が、くちゃくちゃに落ちているのがわかる。
滑りそうになった木綿子を助けるために、よっぽど慌ててくれたらしい。
智紀は、木綿子を嫌っているわけではない、と思う。
妻としては取るに足りない存在と見なされているとしても、少なくとも人としては。
それは、喜べることなのか、救いなのか、複雑な思いで扉に向かって歩を進める。
出て行く前に、浴衣を拾い上げ、智紀のほうへ差し出すと、遠慮がちな手がそれを受け取る。
その距離感が、ふたりの間にあるいつまでも近づかない距離を表しているようで、木綿子はついに哀しみを抑えることができなくなった。
智紀の浴衣が完全に手から離れていこうとするその瞬間、思わず指先に力が入る。
裾を捉え損ねて、手は空を掴んだ。
智紀の関心を得ることができない、という最後通告を受けたような気がして、張りつめていた何かがぱちんと音を立てて弾ける。
抑えようとする間もなく、涙が零れ出した。
ひどい失態だ、と悟ったのは、頭上からため息が聞こえてきたからだった。
呆けたように体から抜けていた力を必死に取り戻して、涙を拭ったけれど、弾けたものは簡単には治まらない。
「ご、ごめんなさい…」
拭っても止まらない涙に、自分でも嫌気がさす。
あれほど、智紀の前では決して泣かないようにと気を付けてきていたのに、とうとうやってしまったのだ。
早くどこかへ、智紀のいないところへ逃げてしまいたいと思うのに、脚が言うことを聞こうとしない。
躍起になって目元を擦ろうとする手を、智紀が掴んで遮る。
「痕になるから、…やめなさい」
その接触に驚いて顔を上げると、木綿子を見つめるその表情は、いつもの無表情ではなく少しだけ眉を寄せた気遣わしげなものだ。
どこか哀れみめいたものすら漂っていて、せり上がってくる良くない予感に木綿子は身震いした。
「…もう、やめよう」
予感は、外れなかった。
どうやって出てきたのかわからない、扉の外で茫然と立つ木綿子の頭の中で、今言われたばかりの言葉が何度も反響していた。
旅行二日目です。
お約束なハプニングを書いてごめんなさい(笑)。
木綿子の涙にため息の智紀。
もうやめよう、って…どういうことさ!? ということで、次回へ続きます^^;