12
息が詰まる。
移動中の沈黙といい、観光スポットでの無理なはしゃぎ様といい、木綿子の全てが智紀を責めているように感じた。
車の中で、手を叩かれたのは決定的だった。
これまで木綿子が、こうまであからさまに智紀を拒絶したことは無い。
それと同時に、今朝木綿子が見せたあの顔色の失せた表情がまざまざと思い返される羽目になり、智紀は言葉を失った。
あの表情の意味を考えてはみているものの、答えは出ないままだ。
“間違えた”という言葉は、たとえどんな相手であってもあの状況では言ってはならない言葉だった。
これでも一応男の端くれではあるのだから、それは重重わかっている。
だが、そもそも木綿子の反応がその言葉によって引き出されたのかどうかも現時点で確証が持てない。
ここでもパーティの例の男の顔がちらつき、木綿子の真意は益々図れなくなる。
智紀とあんなことになったこと自体に衝撃を受けていたのだとしたら、智紀としてはもう何も言うことはできない。
いずれにしろ、確かに智紀が悪いのだから、そんな資格は無いとわかっているが、それでもやはり少しは傷つくものだ。
そそくさと大露天風呂へ向かうために部屋を出て行く木綿子の背中を見送ると、智紀はようやく息をついた。
ひとりになると、智紀はとりあえずリビングで飲み物でも飲むことにした。
だが、ふた口ほど飲んだ後、すぐに置いてしまう。
疲れているせいか腕が重く、グラスを口元に持っていくことすら、既に億劫だ。
智紀は、今更ながら旅行に来てしまったことをひどく後悔した。
旅先の宿でも家でも、場所は変われど結局過ごし方に大差無く、むしろ、両親がすぐ近くにいるだけ、今のほうが余計にたちが悪い。
まだ行程の半分も消化していないのに、智紀も木綿子もお互いに疲弊しているのが目に見えている。
両親の、特に瑞枝の前では、さらに特別気を遣わねばならないため、この後もどんどん疲労だけが蓄積していきそうだ。
それでももし、もしも、昨晩から今朝にかけての出来事が無かったとしたら、もう少し違う旅行になっていたのだろうか。
ふとそんなことを思ってみたが、それこそ今更後の祭りだ、と渇いた笑いが漏れる。
もう考えることさえ嫌になってきた智紀は、思考を振り払うように頭を軽く振ると、立ち上がった。
木綿子は長風呂だ。
大露天風呂に行ったならしばらくは帰って来ないだろう、と予想した智紀は、ひとりで部屋の露天を楽しむことにする。
これから始まる長い夜に備えて、とにかく少しでも英気を養うことが必要だった。
少し休んだことで気分もだいぶ回復したと思っていたが、実際はそうでもなかったらしい。
木綿子との間にある神経がやられそうな緊張感と、それを両親に見せないための演技に、あっという間に力を吸い取られた。
疲労と苛つきで、グラスを空けるペースが速まってしまい、思っていたよりも酔いの回りが早い。
智紀は風に当ろうと、まだ料理をつついている三人を残してひとりデッキバルコニーへ向かう。
もう真冬ほどではないにしろ、まだ春の空気には程遠いその冷たさが、案外気持ち良い。
どれくらいそうしていたのか、体が冷え切ってしまいそうになった頃に、湯気の立ち昇るグラスを二つ持った光昭が来た。
ただのお湯割りだ、と渡されたそれに、正直なところ酒はもう勘弁願いたいと思ったが、口に含んでみると冷えた体に心地好い温かさだった。
グラスに口をつけたまま見やった窓ガラスの向こう側では、瑞枝と木綿子が楽しそうに話しているのが見える。
木綿子は、楽しそうだ。
智紀のいないところでは、本当に、楽しそうだ。
大げさにため息でもつきたいところを、光昭の前だからと堪えたのだが、智紀の発する微妙な何かを勘付かれたらしい。
「…どうだった、この1年は」
何かを探るような、妙な質問をされてしまった。
どうだった、と聞かれても、特別な何かは無かった、としか言いようが無いのだが、そんな答えは期待されていないはずだ。
けれど、サービス精神を発揮するには気力が萎えていて、結局曖昧で無難な答えになってしまった。
「べつに、普通ですよ」
「普通、か…。そうか、まあ…それならいい」
何かを含んだような口調が、いつもの光昭らしくなく聞こえて、智紀はちらと光昭を窺う。
光昭は、どこか遠い目をしていた。
「何か、言いたいことでも?」
智紀の若干遠慮がちなその問いに、光昭は苦笑を湛えた。
「瑞枝に言うと怒られるんだがな、私は正直、時々後悔するんだ」
「…何をですか」
この話の流れで行くと、今一番聞きたくないことを言われそうで、智紀は咄嗟に体を固くした。
意味も無くグラスを口に運びそうになり、動揺を悟られないようにそれを抑えつけることに躍起になる。
けれどそんな闘いも、意味を成さない。
「木綿子ちゃんのことだ。冗談だったとはいえ、融資の条件だなどと言ってしまったことを後悔している。
そもそもあの頃のお前、結婚する気なんて無さそうだったしな…。今だから言えることなんだが、冗談とは言えない冗談だった。
お前も頷いたからこそここまで来たには違いないんだが、同じ引き合わせるにしてもあれは無かった、と思うとな…」
グラスを持つ手に力が入る。
確かに今だから言えることなのだろうが、本当に今更だ、聞きたくなかった。
それに、光昭が言った通り、頷いたのは智紀だ。
もういい年をした大人なのだ、親の言いなりになったわけではなく、金が絡もうとそうでなかろうと、結局のところ木綿子を欲しがったのは智紀だ。
「俺は、…嫌なことはしませんよ」
「わかっているさ。ただ、少し気になっていただけだ。
結婚後も仕事量は変わっていないようだし、今日も、珍しい酒の飲み方をしていたからな」
瑞枝といい光昭といい、嫌なところで勘が鋭くて困る。
いつも全く問題なくうまくいっている夫婦を装うことが、とりあえず今はできないと悟った智紀は、けれど注意深く苦笑を漏らした。
「今日はまぁ、ちょっと…喧嘩したんですよ」
正確な表現ではないが、間違いではない。
芝居がからない程度に肩をすくめて軽く言うと、光昭は仕方なさそうに笑った。
「よりによって今日喧嘩するとはなぁ…。まぁ、お前もヤケ酒なんぞしないで、年上の懐の大きさを見せるように」
言われていることは尤もなことで、智紀は苦笑を深めた。
それでも、こちらからは何も言わせてくれない雰囲気が、今の木綿子にはあるのだ、と内心で愚痴る。
そんな智紀の気も知らず、光昭は少々癖のある笑みを浮かべて智紀を見やった。
「それに、記念日の夜に旅先の夜とくれば、なぁ?」
言いたいことはわかったが、それに乗れる気分ではない。
呆れたような視線をくれてやったが、光昭は悪びれる様子も無く続ける。
「温泉から帰った後、瑞枝がえらい上機嫌だったぞ。お前もやる時はやるんだな、なんて」
温泉には、木綿子が誘ったはずだった。
木綿子が何かを言ったとは思えないが、と考えたところではたと気づく。
朝に目にした、自分が散らしたキスマーク。
それを見た瑞枝が何を想像し何を喜んだのかなど、想像に難くない。
智紀はげんなりとした気持ちでため息をついた。
「……夫婦そろって、やめてください」
そんな智紀を見て、光昭はおかしそうに笑った後、智紀の肩を軽くたたいて部屋へ戻っていく。
言いたいことだけ言って逃げやがったな、とどこか憮然とした気持ちのまま、仕方なく智紀も部屋へ向かった。
ベッドルームに入る瞬間、馬鹿みたいに緊張していたが、それは木綿子も同様のようだった。
ベッドが二つ並んでいるのを見てあからさまに緊張を緩ませた木綿子が、おかしくて、愛しくて、憎い。
けれど、智紀に対してはずっと押し黙ったままだった木綿子が、ベッドに入る寸前に寄越したおやすみの挨拶が、沁みた。
ささくれ立った心が、穏やかになるくらいには、温かく聞こえたのだ。
同じようにおやすみを返した後、木綿子はしばらく視線をこちらに向けたままだった。
絡む視線が居たたまれない。
木綿子が何を思い、何を考え、何を望んでいるのか、どう引き出せば良いのかよくわからない。
光昭の言った“年上の懐の大きさ”など、自分には無いと自嘲しつつ、智紀はとうとう耐えきれずに視線を逸らした。
木綿子はぎゅっと体を固くして、壁側を向いて横になっていたが、疲れていたのだろう、しばらくすると眠ったようだった。
その後ろ姿を、智紀は何とも言えない気持ちのままじっと見つめていた。
そして、先ほど光昭としていた話をぼんやりと反芻する。
もしも木綿子との出会いがあのようなもので無かったら、どうだっただろうか。
けれど、恋愛する気も無かった自分が、普通に出会ったところでどうこうする気にはならなかった気もした。
結局のところ、あの出会い方しか無かったような気もするし、そうであったのだから仕方のないことだ。
しかし、木綿子にとってはどうだったのだろうか。
そう思ったところで、また今朝の真っ白な木綿子の顔が思い浮かび、智紀は考えるのを無理矢理中断した。
これ以上考えるのは不健康な気がする。
眠ってしまおうと決めれば、後は早かった。
疲れと酔いに引きずられるように、智紀は夢を見ることもなく泥のように意識を沈みこませた。
最低な記念日パート2(笑)。
智紀もぐるぐると考え込んでおります。
次回は旅行2日目、どうなることやらです。