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徒花の恋  作者: ミナ
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とにかく、必死だった。

うまく動かない足を縺れさせながらも必死に動かして、どうにか智紀の部屋から逃れ出る。

木綿子の部屋のドアは、昨晩から開け放たれたままになっていたから、すぐに入ることができた。

部屋に入ると後ろ手にドアを閉め、そのまま力が抜けたようにぺたりと床に座りこんでしまった。

あまりにも衝撃的過ぎたのか、まともな思考がストップしてしまったようだ。

今、智紀は何と言ったのだったろうか。

胸が痛い、と手を自然と心臓のあたりに当てようとすると、パジャマのボタンが外されていたせいで、指先が素肌に触れた。

そうだった、脱がされかけたんだった、と思い出して視線を下げると、赤いような紫色のような内出血の跡が所々に散らばっている。

これがキスマークというものか、などと思いながらぼんやりとそれを見て、昨晩の智紀を思い出した。

名前を呼ばれたと思ったから、びくびくしながらも、好きにさせていた。

智紀は、顔を埋めて、唇を寄せて、掠れた声で名前を呼んで、そうして安心したようにそのまま眠ってしまったのだ。

そのくせ木綿子を抱き込む腕は絡まったままで、外そうとしてずらしても、また抱き直されて外れなかった。

けれど今、智紀は何と言った?

「すまない、間違えた……」

言われた言葉を、そのまま口に出してみると、また新たなショックが広がる。

誰と間違えたのだろう。

誰の名前を呼んで、誰にキスをして、誰を抱いていると思ったのだろう。

考え込む必要も無く、当然のように、一度だけパーティで見たあのひとの姿が脳裏に鮮明に蘇る。

「ゆう、って…紛らわし……」

なんだか急におかしくなって、笑ってしまった、その声は無様に震えていた。

それでも不思議と、怒りは湧かない。

感じているのはただ、言葉にできないくらいの衝撃と、消えてしまいたいくらいの恥ずかしさだけだ。

泣きたいと思ったけれど、涙は出なかった。


こんな気分で旅行なんて、と思ったけれど約束は約束だ、今更キャンセルもできない。

まして瑞枝が立ててくれた計画なのだ、キャンセルの理由をごまかすなんて器用なことができるはずもない。

瑞枝が気を利かせてくれたのだろう、移動は夫婦ごとに別れて車ですることになっていた。

運転席と後部座席の間には衝立があり、声が漏れることも無いようになっている。

智紀との間には恐ろしいほどの沈黙が横たわっており、全く瑞枝の意図には反しているが、それが瑞枝たちや運転手にわからないようになることがありがたい。

何もすることが無くて、流れる景色を目で追っていたら、だんだん気分が悪くなってきた。

目を瞑って、長く息を吐き出す。

ごそり、と隣で身動ぎする音が聞こえ、何だろうと目を開けると智紀の顔が意外と近くにあり、驚いて思わず背中をシートに押しつける。

「気分、悪いのか」

「…大丈夫です」

「でも、顔色が良くない」

智紀の表情は、心配そうで、気遣わしげで、見ていて苛々した。

気分が悪いのに、大丈夫だと強がっている自分にも、苛々する。

それ以上何も言わなかった木綿子に、智紀が窺うように手を伸ばしてくるのを、咄嗟に木綿子は振り払っていた。

静かな空間には、パシリという手のぶつかる音が、良く響く。

振り払われた智紀も、振り払った木綿子も、その音に驚いたように身を固まらせた。

「あ、ごめんなさ……だ、大丈夫です、から」

「…そう」

智紀は、それ以上もう何も言わずに、手を引き顔を背け、けれど衝立を下げて運転手に車を停めて休憩するようにとだけ告げた。

その横顔は、どこか傷ついているようにも見え、傷ついているのは自分のはずなのに、と木綿子は居心地の悪い思いがした。


観光スポットでは瑞枝たちと明るく楽しく振舞い、車に乗れば智紀と重苦しい時間を過ごし、その繰り返しで宿に着く頃には疲れ切っていた。

それでも、素敵な宿を見れば心が軽くなるというものだ。

通されたのは、家族連れの多い本館とは違う落ち着いた離れのような別館の、雰囲気もしとやかな部屋だった。

智紀とふたりで入る部屋は少し緊張したが、リビングやミニバーまである広々とした部屋に、少しだけ気分が和らいでほっと息をつく。

けれど智紀とふたりきりで過ごすのは気づまりで、瑞枝と一緒に温泉に入る約束を取り付けて早々に部屋を出ることに成功した。

各部屋に露天風呂が付いているのだが、それとは別に大きな露天風呂もあり、そのことは木綿子を大いにほっとさせた。

お風呂は好きだし、部屋の露天も魅力的ではあるが、今の雰囲気で智紀のいる時に入ることなどできそうもなかったからだ。

備え付けの浴衣を持って大露天風呂へ向かったが、瑞枝はまだ来ていなかった。

多少長風呂になっても平気な木綿子は、先に温泉を堪能することにする。

お湯は熱すぎないちょうど良い温度で、目を瞑ってほーっと息を吐き出し、自然と強張っていたらしい体を緩ませる。

楽しい気持ちと辛い気持ちが同居する旅は、思っていたよりも体力を消耗するらしく、ぼんやりしていると眠気が襲ってくる。

何度目かのあくびをかみ殺したところで、瑞枝がお湯に入ってきた。

「お待たせぇ」

「あ、全然ですよ。お湯も、景色も、気持ちいいです」

「でしょう! ここの旅館、お気に入りなのよ。木綿子ちゃんと一緒に来れて良かったわ」

本当に嬉しそうに言ってくれる瑞枝が、嬉しくて、でもその分余計に申し訳なくて、木綿子は複雑な気持ちを隠して笑う。

けれども、ちゃんと笑えているのか自信が無くなり、木綿子は景色のほうへ目を逸らした。


ふたりしてしばらく無言で景色とお湯を楽しんだ後、沈黙を破ったのは瑞枝だった。

「それにしても、もう1年なのね…」

「…そうですね」

「私が言うのもなんだけど、あの子、ほんと恋愛向きじゃなくて、こんなかわいいお嫁さんが来てくれるなんて思ってなかったから、嬉しいのよ」

「そんな…」

木綿子を底なしにかわいがってくれる、こんな義理の親ができて、木綿子も嬉しいことは嬉しいのだ。

ただ、肝心の智紀との仲がよろしくないため、どうしても嬉しさも半減してしまう。

「でも、仕事人間だし、不器用だし、木綿子ちゃんも苦労してるでしょ…」

言いながら苦笑交じりにため息をついた瑞枝は、木綿子を窺うように見た途端、じっと一点集中で視線を集める。

その視線に気づいた木綿子は、しかし何を見られているのかわからないでいた。

「…普通は、見ないふりがセオリーなのかしらね」

「え」

笑いながら出された意味深な言葉に、木綿子はようやく何を見られているのか悟る。

朝の衝撃と一日の疲れとで、すっかり頭から飛んでいたが、胸元には智紀の付けたキスマークが散らばっていたのだ。

瑞枝に見られた、という恥ずかしさで木綿子は顔を真っ赤にし、慌てて手で胸元を押さえながらお湯の中に肩まで浸かった。

「バカ息子も、たまにはやるわね」

頭まで沈もうか、というほどお湯に隠れようとする木綿子を見て、軽口をたたくのはそれでやめてくれた。

木綿子の様子をかわいそうと思ったのかどうか、のぼせるわよ、と軽く注意すると、瑞枝は先に上がっていく。

誰もいなくなった露天風呂で、木綿子は改めて自分の胸元を見つめた。

「ていうか、間違えちゃったそうなんですよ……」

誰も聞いていない、密やかに反響する、本当のこと。

わざと軽く口に出して言ってみたが、全然笑えない。

涙は出ないが、泣きそうになっているのか、頭がつきりと痛んだ。


4人で和やかに夕食と食後のお酒を楽しんだ後、部屋に戻ると、智紀とふたりきりの時間がやってくる。

疲れとそこに入ったアルコールのせいで、ふたりともこれ以上起きているつもりは無かった。

恐る恐る足を踏み入れたベッドルームには、ベッドが二つ並んでいた。

ベッドが一つとか、布団が並んで敷いてあるとか、そういう想像をしていた木綿子は、ひとまずこっそりと安堵のため息を漏らす。

さっと部屋の奥のベッドの傍に立つと、まだ入り口の辺りで立ったままでいる智紀へ向きなおる。

何も言わずに寝てしまおうかと思ったが、それもあまりに大人げないと思ったからだ。

「…おやすみなさい」

その声に上げられた智紀の顔は、どこかほっとしたように緩んだものだった。

「おやすみ」

返された声も、穏やかなもので、それはとげとげしていた木綿子の心にすんなり入ってくる。

智紀の気持ちがわからず、しばらくの間見つめてしまうと、智紀は絡まったその視線を、やがて避けるように逸らす。

もうそれ以上は、何かを言うことはできなくて、木綿子はごそごそとベッドへ入り込んだ。

仰向けになっても視界に隣のベッドが入るのがどこかたまらない気持ちにさせられ、木綿子は智紀に背を向けた状態で体の位置を定める。

多分自意識過剰なんかではなく、背中に智紀の視線が刺さっている。

かなり疲れていたにもかかわらず、なかなか眠りは訪れなかった。


最低の記念日、幕開けです。

楽しみにしていた旅行も、これじゃ台無しです!

何も言えない智紀、何も言わせない木綿子、ふたりの前途やいかに…。


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