10
淡々と過ごす日常は、智紀の心に一応の平安をもたらした。
あのパーティの日のできごとは、最早気にしないことにできる。
今までだって、木綿子に関心を持たないよう努力すればできないことも無かったのだから、今回も同じことだ。
刻々と近づく旅行の日付だけが、今の懸念材料である。
木綿子に行くと約束した以上反故にするつもりは無かったが、外堀から既に固められていたのには苦笑ものだ。
智紀が西條に日程調整を頼めば、既に瑞枝から通達済みでオフになっていると言われた。
まったく、根回しの良いことだ。
結婚一周年とは、なんとも味気ないものだと思っていることなど知られたら、どうなるかわかったものでない。
一番の敵は、木綿子でもあの男でも無く、母親だと溜息をついた。
しかし、いくら懸念があろうとも、日は廻ってくるものだ。
とうとう旅行前日、という今日にしても、普段となんら変わらない日常を過ごしていた。
明日早く出発することを考え、今日は早めに帰るつもりで木綿子にメールもした。
けれど、そうもいかなくなったのは、光昭からの内線と實からの電話のせいだった。
光昭からは、實から電話で返済計画の目途が立ちそうだと連絡があったと言われ、實からも同じ内容の電話が来たのだ。
それも、實からの電話には、直接会って話したいという要望も付いていた。
實と話し終えて受話機を置いた掌には、嫌な汗をかいていた。
光昭によれば、返さなくて良いと予め言っていたのに毎月少しずつ返済し、その金額は月を追うごとに多くなっていたらしい。
わかってはいたがやはり實は真面目で律義な男だ、と光昭は笑っていたが、智紀は笑えなかった。
實の声もどこか晴れ晴れとしていて明るいものだったが、智紀は明るい気持ちにはとてもなれなかった。
木綿子を手放す覚悟を決めなければならない時が迫っているということなのだな、と思うと頭痛までし始める。
よりにもよって今日なのか、と思ったが、義父の申し出を断るわけにもいくまい。
溜息なのか自分への嘲笑なのかわからない、短い息が零れた。
淡粋に足を運ぶのはこれで四度目だ。
一度目は大学合格のとき、二度目は見合いのとき、三度目は結納のとき、そして今日。
通された奥の小さめの個室で、智紀は落ち着かない気持ちで何度も部屋を見回す。
約束の22時を少し過ぎたところで、實が慌てたようにドアを開け、智紀は反射的に正座をして落ち着きの無さを封じ込めた。
「すまないね、呼んでおいて待たせてしまって」
「いいえ、お疲れ様でした」
實を前にすると、智紀はいつもひどく緊張する。
恋人や妻の父親を前にした男というものは、多分大体が緊張するのだろうが、木綿子との関係を考えると世の普通の男より度合いがひどいに違いない。
話が本題に入ると、智紀の胃はきゅうっと縮まるように痛んだ。
「持て余していた土地もけっこうな額で売れたし、瑞枝さんのおかげで客足もかなり良くてね。このままいけば、あと1年半か2年ほどで全部返せそうなんだ」
「そう、ですか…」
こう答える以外に、一体何と言えばいいのか。
光昭が言った通り、なんと真面目で律義なことか、しかし全く喜べない。
言葉少なな智紀を見て何を思ったのか、實はやがて小さく苦笑した。
「智紀くん、君にはすまないことをしたと思ってるよ」
「は…?」
予想外な實の言葉に、智紀は思わず中途半端な返事を返してしまう。
これから言われることがどうも良くないもののように思えて、その予感で背筋が寒くなった。
「君は本当は、…最初は、結婚するつもりなんて無かっただろう? それなのに、私が不甲斐ないばかりに結局承諾してくれることになって。
あのときはすまなかった。助けてもらって、感謝してもしきれんよ。けれど、木綿子の結婚相手が君で、本当に良かったと思っている。ありがとう」
何も、返せる言葉が見つからなかった。
何を言ってどう席を辞したのか、記憶にない。
實の言葉は、結婚を決めた時の木綿子の言葉と重なり、気分が悪くなった。
同時に、結婚相手が智紀で良かったなどと言う實に対する罪悪感や筋違いな怒りのようなものが噴出して、さらに重い気分になった。
良い夫婦などではないのだ。
そもそも、夫婦にだってなれていないのだ。
おまけに“妻”には別れてもすぐに一緒になれそうな男の候補もいるときた。
結局、パーティでの男のことが頭から離れていないことが思い知らされ、不快な気分に拍車がかかる。
一気に空けたグラスを目の前のカウンタにタンッと叩きつけた。
「もう一杯」
バーテンダに呆れた顔をされたのは、もう何度目だろうか、数えるのも面倒になってきた。
馴染みのあるバーではあるが、今日は気分が悪いせいで口数も少ないし、不機嫌が目に見えてわかるせいか店の連中も声をかけてはこない。
それをいいことに何杯も何杯も煽るのは、全く自分らしくないとわかってはいるのだが、止まらない。
しかも先ほどから続けて頼んでいるカクテルがカミカゼとは、何とも切ない。
このバーで出されるカミカゼはもともと、ウォッカが多めのレシピで作られるものだ。
アルコール度数も低いわけではないし、何杯も飲んでいれば必然的に酔いも回ってくるというものである。
無意識のうちに、普段の智紀であれば考えられないようなことを頼んでいた。
「なぁ…スピリタス、置いてるよな。それベースで作って」
「ちょっと、醍醐さん」
「いいから」
バーテンダは、さすがに、といった様子で止めようとしてきたが、智紀が短く言うと溜息をついて了承する。
飲んだことは今まで無かったが、スピリタスの威力は噂で聞いているから、出されたグラスを一気に空けるような馬鹿な真似は今回はしない。
舐めるように飲んだ一杯は、やはり強烈で、カミカゼの名前にふさわしく、まさしく自爆行為だった。
冷たい水が流れ込んできて、智紀は少しだけ気分が上昇した。
水を吸う枯れた砂漠のように、とにかく水を欲してごくりと喉が上下する。
やっと満足したところで、そういえば店に西條が呼びに来たんだっけか、と思い出した。
けれど、そばにいた人影を見やれば、どう見ても木綿子に見える。
こんなに近くで見つめたことなんて無いな、と思いながら目が離せない。
しばらく見ていても動かないから、夢を見ているのだと思った。
と、そこで身動ぎした木綿子を、どこにも行かせたくなくて、どうせ夢ならもっと傍にいてほしくて、智紀は木綿子の腕を掴んだ。
「智紀さん?」
困ったような顔で、目の前の木綿子が智紀の名前を呼ぶ。
けれど、木綿子は逃げない。
たったそれだけのことで、智紀は嬉しさでいっぱいになる。
なんて、良い夢。
このまま、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
たとえ夢でも、いや、夢だからこそ、触れてしまえる。
その誘惑と願望に抗えなくなった智紀は、夢とも現ともわからないその世界で、初めて木綿子に触れた。
「ゆう…」
酒で焼けたのか掠れた声で、現実では呼んだことのない名前を呼んで口づける。
木綿子はそれでも抵抗せずに、目を閉じて従順に応えている。
夢の中だと、パジャマなんだな、などと考えておかしくなりながらも、智紀は木綿子のパジャマのボタンに手をかけた。
肌に直接触れる空気に木綿子の体がびくりと跳ねたが、そのことに智紀は気づかずに、その柔らかな肌に顔を埋めた。
朝、智紀を目覚めさせたのは、ひどい頭痛だった。
割れそうに痛む頭を押さえるために手を動かそうとした智紀は、自分が閉じ込めるようにして抱いているものに気づき、愕然とした。
木綿子だ。
それも、パジャマのボタンは外れたままで、その胸元には、散らばった赤い印。
誰がそうしたのか、誰が着けたのか、など明白である。
昨日のは、夢ではなかったのか。
手放さなければならないと思った矢先に、こんなことをしでかしたのか。
狼狽え、正常な判断ができない精神状態に陥っていた智紀は、さらに失態を重ねることになる。
目を覚ました木綿子が、もぞりと動いた。
その瞬間、智紀は咄嗟に木綿子のパジャマの胸元を合わせた。
「すまない、間違え…っ」
およそ男として言うべきではない言葉を口走った智紀は、慌てて口元を手で押さえたが、間に合わなかったことを悟る。
木綿子は、目を見開き、紙のように真っ白な顔色をしていた。
智紀が何かを口に出す前に、木綿子はぎこちない動きでベッドを降りると、床に落ちていたガウンをさっと取り、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
追いかけることは、できなかった。
泥酔と突然のキスの言い訳、もとい理由でした。
ヘタレ智紀め…^^;
夢だと思っていた智紀は、つい“間違えた”と言ってしまいました。
木綿子にとっては、悪夢のような言葉です…。