01
携帯からカノンのメロディが流れ、木綿子(ゆうこ)は読んでいた本から目を上げた。
木綿子の足元でおとなしく伏せていたモモが、どこか嬉しそうな眼をして体を起こす。
時間は午後3時半。
智紀(さとき)からの定期連絡のメールである。
内容は、メールを見る前からもうわかっている。
多分今日も、遅くなる、もしくは帰れない、というものだろう。
モモのように素直に嬉しい気分にはなれない、と溜息をつきながらも、木綿子は携帯を手に取る。
メールを開く前の一瞬、木綿子は今でも緊張のために目をぎゅっと瞑る。
開封の決定ボタンを押すのと、目を開けるのは同時だ。
『9時頃帰宅予定』
何の感情も読み取れない、本当に単なる連絡だけが目的だということだけがわかる、そんな文字の羅列。
だが9時という文字を見た木綿子は、一気に鼓動が跳ね上がるのを感じた。
珍しく早い。
まともな時間に智紀が帰ってくることは、月に一度あるかないか程度の頻度しかない。
『お食事は?』
『頼む』
たった、これだけのやりとり。
それきり、木綿子から送る用件も無く、もちろん智紀からも連絡が来ることは無い。
それでも木綿子は、しばらくの間指先が白くなるほど強く携帯を掴んでいた。
掌は汗ばんでいるような気がしたし、いまだに鼓動は全速力で走った後のように落ち着かない。
制御できない自分の体のそのような反応に、木綿子は歯噛みする。
この速まる鼓動も、智紀の帰る9時には無駄なものになる、とわかっていた。
木綿子と智紀は、見合い結婚だ。
ただしそれは表向きの表現であり、実際は金銭の絡む政略結婚とも言えるものだった。
なぜなら、その見合いはもともと木綿子の家の資金援助の条件として提示されたものだったからだ。
木綿子の両親は、決して大きくはないが古くから続く料亭を営んでいる。
堅実な経営と誠実な接待により生き残っていたが、木綿子の父・實(みのる)が親類の保証人となったことで事態は一変した。
親類は逃げ、億単位の負債が淡谷家に圧し掛かることになり、家も店も土地も全て差し押さえられる危機に追い込まれた。
そんなとき、常連客だった智紀の父・光昭(みつあき)が冗談半分に見合いと資金援助を交換条件に提案したのだという。
光昭は大手不動産会社の会長と社長を兼任しているやり手だが気さくで、木綿子が小さな頃からよく声をかけてくれていた。
淡粋が好きなのだと、特別目的が無くともよく来店しては、實と歓談していた、そんな人だ。
智紀は仕事ばかりで結婚しようとしない、木綿子のような子が嫁に来てくれたらいいのに、などと話したらしい。
最初は冗談半分だったにも拘らず、当事者の預かり知らぬところですっかり纏まりがついてしまった話は、時を開けずして実行された。
木綿子は見合いの理由が資金援助だということを聞いてはいたが、あまり気にしていなかった。
両親のことも、光昭のことも信頼していたからだ。
それに、相手が智紀だということも理由の一つだった。
智紀とは、木綿子が幼稚園に上がった年の終わり頃に、一度会ったことがあった。
光昭が、智紀の大学合格祝いにと言って店に連れてきたのだ。
あまり良く覚えてはいないが、小さかった木綿子に笑顔を向けてくれたことだけは、覚えていた。
だから、どんな人になっているのか知りたくて、ただ会ってみたくて、そのときはそれしか考えていなかった。
実際会った時、木綿子はあっけなく胸をときめかせられた。
言うなれば、ひとめぼれに近い。
智紀は、長身でがっしりとした体躯を持ち、切れ長の目と少し薄めの唇が印象的な、大人の男だった。
このひとと結婚するかもしれない、と思うだけで自然と鼓動は弾んだ。
食事の支度を大方終わらせた後時計を見ると、智紀の申告した予定時刻よりも20分ほど過ぎている。
尤も、その程度の誤差は予想の範囲内で、今までで一番の誤差は2時間と40分の遅れだった。
オーブンの前で焼き上がりを待っていると、前の廊下をモモが走っていく。
智紀が帰ってきたのだとわかり、緊張がこみあげてくると同時に玄関のロックが外れる音がした。
これから、長い長い夜が始まるのだ。
木綿子は覚悟を決めると、玄関まで智紀を迎えに行く。
「おかえりなさい」
「ただいま」
木綿子は智紀がスーツの上着を脱ぎ、モモをかまいながらネクタイを緩めるのを、ぼんやりと見ていた。
棚の上に置かれた鞄にも気づいており、手がうずうずとする。
やがて智紀は上着と鞄を手に、木綿子の前を通り過ぎて自分の部屋へ向かって歩いていく。
廊下を歩く智紀と智紀に付いていくモモの微かな足音に続き、やがて智紀の部屋のドアの開閉音が聞こえてくる。
木綿子は自分の掌を見つめて唇を噛んだ。
挨拶だけして突っ立っている自分が、うまくいかない結婚という現実を如実に表している気がして嫌だった。
そのとき、オーブンのアラームが聞こえ、はっと顔を上げると木綿子は足早にキッチンへ向かった。
今日のメインメニューは、鶏肉のハーブ焼きだ。
小さめに切った鶏肉の上に、チーズを載せ、ドライハーブとオリーブオイルを振りかけてオーブンで焼く。
そんな簡単なメニューだったが、洋食にあまり馴染みのない木綿子にしてみればなかなか頑張ったほうである。
テーブルの上に載った料理を見た智紀は、木綿子を労わるような目線をくれた。
「…あまり無理をしなくてもいい」
料理のことを言っているのだということはすぐにわかった。
実家は料亭で、和食のことならたいてい教えられているが、もともと洋食はあまり食べもせず、作ることは儘ならない。
ただ、智紀の母・瑞枝(みずえ)が智紀は洋食が好きだと言っていたので、智紀が食事を取る時は努めているだけだ。
「あ、えぇ…はい」
今までに同じことを何度か言われている。
というより、何度かまともな時間に戻った智紀に食事を出す度に、同じことを言われているのだ。
やはり嬉しくはないのだろうか、と木綿子は曖昧な笑みと返事を返した。
「うまいが」
俯き加減になっていた木綿子に、智紀は小さく付け足したように言う。
嬉しい言葉にぱっと顔を上げた木綿子だったが、智紀はそのときには既に左手に持った仕事の資料に視線を移していた。
「…お仕事、また持ち帰られたんですね」
「ん? ああ、なかなか思うように捗らなくてな。
それに今日は西條に無理矢理…いや、まあいいんだが。君は、…お風呂は? もう済ませたのか?」
「いえ、まだですけど」
「俺はまだまだかかる。君は先に入ってゆっくり休みなさい。片付けも自分でするから気にしなくていい」
声は優しい。
言い方も優しい。
だが言っていることは、ひとつも優しくない。
つまりは、ひとりにしてほしい、ということだからだ。
しかも、途中で止めはしたものの、帰ってきたのは西條に無理矢理帰らされたからだ、と言った。
智紀の足元でお座りをしているモモを見ながら、木綿子は喉元に何かが詰まったような気分になり、静かに席を立った。
「わかりました。じゃあ、お先に…」
「ああ、おやすみ」
「…おやすみなさい」
小さく礼をしながら言うと、木綿子はダイニングからキッチンへと入る。
今日智紀のために作った料理は、インターネットで探したレシピだった。
プリントアウトしたその紙の束を掴むと、木綿子はキッチンを後にした。
キッチンから出てすぐのドアを開けると、プライベートエリアに繋がる。
パウダールームやユーティリティを通り過ぎた次のドアが、木綿子の使用している部屋だ。
一番奥には智紀の部屋のドアがあるが、木綿子がそのドアを使うのは、掃除をするときだけである。
ドアを見つめるのも虚しく、木綿子は振りきるように自分の部屋に入った。
本棚からファイルを取り出し、手に持っていた紙の束を無造作に入れる。
結婚してもう1年近くなるというのに、ファイルはなかなか厚みを増さない。
つまり、それだけ智紀が帰って来ないということだ。
そしてたまに帰ってきても、今日のように仕事を持ち帰り、会話らしい会話も無い。
そのうえ妻の木綿子よりも、ペットのモモのほうが優先順位がどうも上らしい。
しかも、別々の部屋で生活しているときた。
夫婦とは名ばかりで、完全な同居人として扱われているという事実が、木綿子に重く圧し掛かっている。
小さいころ、将来の夢を尋ねられればお決まりのように、“お嫁さん”だと答えていた。
周りの友達に合わせてだんだんと夢を変えていく中でも、密かに内心では変わらない夢を持っていた。
だから急に両親から見合いをしないかと言われた時も、驚きこそすれ嫌な気持ちにはならなかった。
大学をもうすぐ卒業しようという年になっても、結婚に対するあこがれの気持ちは消えていなかったのだ。
多分、世の中の大半の人は、こんな木綿子を愚かだと言うだろう。
実際木綿子自身も今では、浅はかで馬鹿げた夢見る少女だった、と評価せざるを得なくなっていた。
結局、自分は本当に“借金の形”だったということだ、と今はわかる。
泣くものか、と必死で自分に言い聞かせながら、木綿子は視界が滲むのを感じた。
このふたりは既に“夫婦”の間柄ですが、恋愛にすらなっていません。
何もかもをすっ飛ばして結婚だけした、単なる同居人です…。
しかも片や副社長で片や借金の形…。
歳の差+身分差(?)+すれ違い夫婦という、なんか複雑なふたりです。
タイトルについてですが。
徒花とは、①咲いても実を結ばない花 ②狂い咲き の意味があります。
このふたつの面が、このふたりの恋に表れると思い、“徒花の恋”になりました。
どうぞしばらくお付き合いくださいませ。