○けものとりっぷ1
ラーラ・トリフォリウムの北大陸と南大陸は、北のスペースと西のフォルトゥーナ、南のカリタスと東のファイドで分かれているのだが、各大陸の各二国は、互いに行き来するために、基本的には海路を通らねばならない。
スペース・フォルトゥナ、カリタス・ファイド間の陸路は、人間には非常に通行が難しかった。――否、不可能と言われていた。
両国の間には危険な生物が幾多も存在する、広大な砂漠が広がっているのだ。
更に、砂漠の中央には、禁域とも呼べる森が広がっていた。所々に豊かな水源を蓄えた緑豊かな森だが、鬱蒼と生い茂る木々が常人の侵入を拒む、文字通りの樹海であった。
一度足を踏み入れれば、二度とは帰れない。人が通れるような道は一つとして存在しない上に、多種多様の生物が生息するその場所は、人間にとって常に死と隣り合わせとなる場所であった。
そこは聖なるもの達が住まう場所でもあったため、何人たりとも出入りすることを禁じられていた。
四つの葉はそれぞれが一つの国となっていて、北のスペース、西のフォルトゥーナ、南のカリタス、東のファイドがある。
北大陸と南大陸は海で隔てられている為に、それぞれ特色が違っていた。
これは、その北大陸の西、フォルトゥーナでの物語。
――世界を断ち切られた感覚というのは、ひどく不可解なものだった。
例えそれが薄氷の上に築かれた偽りの幻想だったとしても、日本と言う国では「平和」という言葉が蔓延していた。
時折ニュースで目にするだけで、眉を顰めるようなそんな出来事が、自らの身に降りかかるだなんて――爪の先ほども思っていなかったのだ。
たった、一瞬だ。
命が終わるのは。
何故その白刃は、ぶすりと私の心臓を突き刺したのか。どうも素人のようにしか思えない相手だったので、一突きで死を迎えたのは、恐らく非常に確率の低い、明らかなる偶然だったのだろう。
画面が真っ暗になるような、意識の喪失。ぶつんと音を立てたような人生の強制終了に、何かを思うまでもなく死んだ――はずだった。
気が付けば、もこもこふさふさとした、淡い白色の毛並みが見えた。
何かの動物の前足だ。ぷにっとした桃色の肉球と、真珠のように輝く小さな爪も見える。
間違いなく猫科の生き物だ。生来の動物好き故に、触ってみたい! と、思わず手を伸ばしたつもりが……何故か、手が遠のいた。
あれ? と首を傾げ、再び手を伸ばすが、やはり届かない。
頭の中で疑問符が踊りながら、同じことを数回繰り返して漸く――驚愕の事実に気が付いた。
前々から、鈍臭いと友人知人に罵られてきたが、ここまで自分が鈍いとは思っていなかった。
手を伸ばせば目の前の愛らしい前足が逃げていくのは当然だ。
……その前足の付け根は、己の方にあるのだから。
つまり、それは自分自身の持ち物だった。
後に母親は、私が一人遊びをしていたと嬉々として父親に語ったそうなのだが――。
手を動かして目の前にやってみれば、なんとも簡単に、逃げていた動物の前足は傍に来た。
反対の手で触れてみても、ふわふわする気はするのだが、以前のように、小さな子猫を見つけて触ってはしゃいでいたような気分にはならない。
まあ、自分自身の手や毛に触れて歓喜していたことなどないので、自分のものと他のものに触れるのは感覚が違うということだろう。
人間だった頃の「自分」が今のこの姿を見ていたら、恐らく嬉々として構いたがっただろうが。
これはおそらく、所謂転生、生まれ変わりというものなのだろうと考えられる。
人間としての死を迎え、猫に生まれ変わったのか、なんて思っていたのだが……。
よーく考えれば、今生の父母は金と銀の毛並みの美しい美猫だと思い込んでいたが、猫としては結構な大きさだったし――普通に大型犬程はあった――顔立ちもどこか違うし、おまけに、あまり覗くことがなかったので気付かなかったが、背中には、鳥のような形の、小さな翼があった。
それらに気付かず、完全に猫だと思い込んで、親に甘えるがまま、のんびりまったりと過ごしていた。
生憎、前世では淡白な両親の元に生まれたので、愛情を込めて優しく触れられたことがあまりなく、母から頬を摺り寄せられたり、父の尻尾に柔らかく包まれたりといった愛情表現に初めはひどく気恥ずかしく思ったが、愛情一杯お腹一杯な幸せ家族で元気に飛び跳ねていたところ。
――偶々、森の中の湖の側で遊んでいて、ふと魚でもいないかと覗き込んだ水面に、己の容貌を初めて認識した。
思わず、その見た目に、茫然として魂が抜けたような状態になってしまった。
自分……超可愛い……!
人間だったらとんだナルシストな思考を抱くほど、現在の容姿は愛らしかった。
雪のような色をした、ふわふわの毛並み。大きなアーモンド形の目は、左右で色違いの琥珀と橙色の虹彩の中で、縦長な黒い瞳孔が目立つ。小さな足に生えた真珠色の爪。ぷにっとした桃色の肉球に、ふさっとした尻尾。体毛の割に尻尾の毛だけは犬のようにふっさりとしているので、一部だけ毛の長い猫かとばかり思っていたけれど……首を後ろに回して――猫はかなり首が回る生き物である――背中を見てみれば、小さな小さな真白き翼がちょこんと存在した挙句、不可思議にも、背中には、太陽と月のような不思議な紋様が、そこだけ銀色の毛が生えて描かれていた。
はっきりいって、外見だけ見れば、物凄く愛らしい子猫に見えるが、顔立ちがやっぱりどこか猫とは違う。虎に近いものもあるが、あれほど凛々しさを持ち合わせているわけでもなく。
生後数カ月になった所で、父母に色々なことを教わったが、自分は一般に『聖獣』と呼ばれる種族であるらしい。
日本にいた頃は、平々凡々の大学生だった。性別は一緒なれど、種族が明らかに違っている――まさか、猫ですらなく、地球では存在しないような生き物とは。
聖獣の成長は遅い。五年から十年程で漸く一人前になる。
私は、生まれた時は生後二カ月程の子猫の大きさ位で、一年が経っても、あまり大きさが変わらなかった。
ただ、聖獣は一年経ったら巣立つのが普通。
恐らく猫科の生き物に近いように思えるのに、生殖能力はやや低め、一生の内出産回数は平均でも一度か二度のようで、母は初産。一度の出産で基本的に一、二匹しか生まれない種なので、私は一人っ子だった。中々愛情は注いでもらったが、一歳になったら親元から巣立たなければならない。
生まれた土地、美しい様々な色彩を湛えた緑豊かな森から離れねばならなかったことはとても寂しかったし、父母も別れを惜しんでくれたが、独り立ちせねばと、私は巣立った。
森の中を歩き、自然の彩に見惚れながら足を運んでいた時、ふと思った。
猫はあまり色彩を認識できないと聞いたことがある。にも関わらず、人間だった時のように、世界が鮮やかに見えることも、考えてみれば自分が猫ではないという証拠の一つだったのではと。――まあしかし、なかなか気付きづらいことだよなと、自分で自分を慰めた。断じて鈍いせいではないと思いたい。断じて!
聖獣は名の如く、『聖なる獣』である。広く存在は知られているらしいが、人間の前に顔を出すことはあまりない。
ここは地球とは違う世界だ。それは自分が猫ではないと知った時に気付いたことだが、この世界には、ファンタジーやお伽噺で登場するような生き物が多数存在する。その中に自分自身も含まれるのだが――世界には、たくさんの精霊と呼ばれる種族がいた。目には見えないが、自然と共に在るという世界を形作る要因のひとつである彼らは、時に他種族にその力を貸してくれる。
他種族が精霊の力を借りて為すもののことを魔法と呼ぶが、人間に対して精霊が力を貸すことは滅多になく、その反対に、神の眷属と謳われる聖獣は、大層彼らに好かれていて、生まれた時からその加護を与えられていた。
喉が乾けば水をくれるし、空腹になれば果物が飛んでくる、といった具合に、至れり尽くせりで甘やかされてきた。前世の記憶がなければひどく我がままで高飛車になっていたかもしれない。あるいは、とんでもなく箱入りのお嬢様になっていただろう。……いや、世間知らずではあるのだけれど。
精霊ってなんでこんなに優しいんだろう、と母に零した所、元から精霊は友好的だが、私に対する過保護さは異常だと言われたことがある。好かれているのは嬉しいが、何故そこまで、というのは未だに疑問である。
希少な種族である聖獣は、狼のように、生涯ただ一匹の相手としか番わない。
それと同じように、時折人の中に好ましい相手を見つけた場合、稀にだが、生涯でただ一人とだけ、主従の契約を結ぶことがあるという。
それを知った時から、私は、外の世界に出てみよう!と決めていた。
普通、聖獣はあまり自分の生息域から離れず、外界に出るとしても、近場で終えてしまうそうなのだが、前世とは違う世界を見てみたい、と元日本人の好奇心が疼いたので、気楽に世界をのほほんと見て回りながら、良い人や良い番に巡り逢えることができれば行幸だなー、なんて思っていたのだ。
……後に知る話だが、不思議なことに、神々の息吹が色濃く残る為、聖獣が住まう森は外界とは時間の流れが異なり、非常にゆっくりと一日が終わるらしい。それが意味することに、やがて驚愕することになるのだけれど、それはまた別の話。
外の世界は全く知らない場所だが、前世の記憶もあるし、精霊達だって助けてくれるし――なんて、呑気にあっさりと旅立った私だったが、人生そう簡単なわけがなかったのだった。
久しぶりに一話追加。まあ短編の方とあまり内容は変わらないのですが。
のんびりやっていこうと思います。