ep.1「告白する前から、救われていた。」
放課後の教室は、少しだけ音が少ない。
机を引く音、カバンのファスナー、誰かの笑い声。その全部が遠く感じる時間帯だった。
「一ノ瀬くん、ちょっといい?」
名前を呼ばれて、肩が跳ねる。
声の主は、白鳥むつみだった。
「え、あ、うん」
彼女はいつも通りの笑顔で、俺の机の横に立つ。
「今日の英語の授業、ノートちゃんと取れてた? 先生、早口だったから」
「……正直、半分くらい」
そう言うと、むつみは少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、一緒に見よっか」
断る理由なんて、なかった。
でも、心の奥では少しだけ迷っていた。
——また、期待してしまうから。
机を寄せて、ノートを広げる。
むつみの字は綺麗で、整っていて、性格そのままだと思った。
「ここね、文法より流れで覚えたほうが楽だよ」
「……さすが学年一位」
冗談のつもりで言ったのに、彼女は首を横に振った。
「そんなことないよ。一ノ瀬くん、ちゃんと伸びてるもん」
「それ、誰にでも言ってるだろ」
思ったより強い言い方になってしまった。
しまった、と思ったときには遅くて、空気が一瞬だけ止まる。
でも、むつみは怒らなかった。
「……うん。言ってる」
あっさりそう認めてから、少し間を置いて続ける。
「でもね、一ノ瀬くんに言うときは、本当だと思ってる」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「どういう意味だよ」
「一ノ瀬くんは、自分を低く見すぎ。もっと評価されていい」
その言葉は、慰めでも、励ましでもない。
ただ、まっすぐだった。
俺は目を逸らす。
「……白鳥さんは、誰にでも優しいから」
「それ、よく言われる」
むつみは少しだけ寂しそうに笑った。
「でもね。優しいって言葉で片付けられるの、嫌いじゃないけど……それで誰かが自分を下げるのは、もっと嫌」
静かな声だった。
なのに、はっきりと心に届いた。
「一ノ瀬くんが自分を嫌いになる理由、私には分からない」
その一言で、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ溶けた気がした。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
「どういたしまして」
むつみは、いつもの笑顔に戻る。
きっと、この人は俺の恋にはならない。
それでも——
告白する前から、
俺はもう、救われていた。
これからどうなるんだろう。




