ロゼッタ亭と葡萄のスープ
名はロゼッタ亭。
薄紫色の葡萄の看板が、霧の中にぼんやりと灯って見える。
宿というには静かすぎて、酒場というには落ち着きすぎているその場所に、客がふらりと入ってくるのは決まって月が昇ってからだった。
「いらっしゃい。…旅の方かな?」
木製の扉がギィと鳴ると、カウンターの奥から声がかかった。
声の主はカイン。30に届くか届かぬかという年齢の、黒髪で落ち着いた物腰の男だ。
「…一晩、泊まれるか?」
入ってきたのは、長い外套に身を包んだ若い女だった。
肩に血が滲んでいて、手には旅用の細剣が握られている。
「もちろん。ただ、その傷…すぐに手当てをした方がいい」
カインはすっと厨房の奥へと下がり、薬箱と布を持って戻ってきた。
女は一瞬、警戒した目で睨んだが、やがて力が抜けたように肩を落とした。
「…剣は置く。だから、何もするなよ」
「包帯を巻くだけだ。料理人だから、刃物の扱いは心得てるけどね」
女の名はリュシエといった。
「護衛の仕事で、貴族の隊商に雇われてた。途中で襲撃されて…全員、バラバラになった。生き残ってるのかどうかも分からない」
「…それは、つらかったね」
「別に。人間なんて、そんなもんだろ」
そう言うリュシエの目は、妙に空虚で、遠くを見ていた。
カインはそれ以上深く聞かず、ただ厨房へと戻った。
火をくべ、鉄鍋を置く。手元には淡い紫色の皮をした果実が転がっていた。
「今日は冷えるね。あたたかいスープにしよう。…葡萄のスープなんだけど、興味ある?」
「…葡萄?」
「このあたり特産の〈夜葡萄〉さ。月明かりで熟すんだ。香りが柔らかいから、煮込むと甘みが立つ」
リュシエは信じられないものを見るような顔でカインを見た。
「スープに果物…信じられない」
「なら、少しだけ試してみて。甘く煮るんじゃなくて、塩とスパイスで引き立てるんだ」
小鍋にバターを落とし、みじん切りの赤玉ねぎとセロリを炒める。
夜葡萄を加え、白ワインとブロスでぐつぐつと煮込みながら、最後にひとつまみのナツメグと塩を加える。
「…香り、悪くない」
リュシエがぽつりと呟いた。
仕上げに温めたミルクを少し注ぎ、器に注いで出すと、スープは薄い藤色に染まっていた。
リュシエは黙ってスプーンを口に運んだ。
ひと口、ふた口。
「…あれだ、意外と…」
「悪くない?」
「うん。葡萄の甘さって、こういう風に溶けるんだな」
彼女の目が、すこし柔らかくなっていた。
その晩、二人はろくに話さず、代わりにスープの鍋だけがことこと音を立てていた。
静かな夜だったが、カインはそれが心地よかった。
「泊まるなら、上の部屋を使って。朝までに霧が晴れるといいけど」
「…うん。ありがとう、カイン」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
夜中、寝床に入ったはずのリュシエが、こっそり厨房に戻ってきた。
小さなランプを頼りに、何かを探している。
「…まだ起きてたんだ」
「っ!?」
振り向くと、カインが厨房の隅でティーカップを手に立っていた。
「な、なに、見てたのか…?」
「夜の客は珍しくないからね。…何を探してた?」
「いや…その、ちょっと腹が…」
「ふふ。腹ペコなら、素直に言えばいいのに」
カインはにこやかに言うと、冷えた葡萄のスープとパンの切れ端を温め直し、彼女の前に置いた。
「…なあ、カイン」
「ん?」
「どうして、こんな宿をやってるんだ?」
カインは少し考え込むように、葡萄酒のグラスをくるくると回した。
「…昔、大事な人がいた。料理を褒めてくれてさ。『あなたのごはんがあるなら、どんな場所でも生きていける』って言ってた」
「…ふうん。いいセリフだな」
「でも、その人は…」
そこで言葉が止まる。リュシエはそれ以上、問い返さなかった。
代わりにスープをすすり、目を伏せたままぽつりと呟いた。
「…ここにいると、あったかいな」
「なら、よかった」
夜は深く、霧は濃く、けれど月だけがふたりを照らしていた。
翌朝、ティレルの町は相変わらず霧に包まれていた。
けれどロゼッタ亭の中には、小さな暖かさがあった。
リュシエは簡単な朝食をとり、手のひらに湯気の立つマグカップをのせながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。
「…予定、あったのかい?」
カインが軽く問いかけると、彼女は首を横に振った。
「護衛の契約は途中で切れたし、報酬もなし。今さら王都に戻る気もない」
「じゃあ、しばらくここにいても?」
「…いいのか?」
「もちろん。人手があると助かるし、食費は手伝いでチャラにする」
リュシエは口元を緩めた。
「ふん、悪くない条件だな。…ありがと」
彼女は言葉こそ素っ気なかったが、手に持つマグを少し強く握っていた。
昼前、扉のベルが鳴った。
「おや、早い客だ」
現れたのは、明るい栗毛の少年だった。十七、八といったところで、旅装束に草花の飾りをあしらっている。
「こんにちは! あの、ここでお昼、食べられますか?」
「もちろん。好きな席へどうぞ」
「やったあ、助かりました。今朝から山道を歩きづめで…お腹ぺこぺこなんです」
少年の名はナユタ。植物学を学びながら旅しているらしく、町外れの〈霧の丘〉にあるという、伝説の薬草を探している最中だという。
「せっかくなら、採ってきた〈甘根草〉を使ってもらえませんか? 香りがいいので、料理にも合うはずです」
「へえ…じゃあ、今日の昼はそれで煮込みを作ろうか」
カインは甘根草を手に取ると、ひとつひとつ、ていねいに洗い始めた。
「リュシエ、野菜を切ってくれる? 今日はにんじんとキノコ、それからお豆」
「…わかった。切り方は?」
「半月切りで。火の通りを均一にしたいからね」
厨房には、心地よい包丁の音が響き始める。
「手、慣れてるね」
「昔、弟たちの面倒見てたからな。飯炊きは得意なんだ」
「そうなんだ」
思わぬ一言に、カインがちらりと横顔をのぞく。
「家族、今も一緒に?」
「…いや。今は、私ひとりだ」
切る音が一瞬止まり、すぐまた再開された。
甘根草は火にかけると、ふわりとバニラとシナモンを合わせたような香りが立ちのぼる。
煮込んだスープにほんのりとした甘みが出て、野菜の旨みと合わさって、やさしい味に変わっていく。
「わあ…この香り、ほんとに食欲そそりますね!」
「カインさんって、旅人の心を鷲掴みにする魔法使いみたいです」
ナユタが無邪気に笑うと、リュシエはどこか曖昧な笑みを浮かべた。
「そうかもな。…この人のごはん、ちょっとずるいくらい旨いんだよ」
「ふふ、ありがとう。今日のこれは、“旅人の煮込み”とでも呼ぼうか」
ナユタが食事を終えて出ていったあと。
静かになった店内で、リュシエはぽつりと呟いた。
「…この町、居心地が良すぎるな」
「悪いこと?」
「いや。悪くは、ないけど…」
リュシエはカインの顔を見ずに、テーブルを拭いていた。
「…たぶん、私は居着いちゃいけないんだ」
「どうして?」
「いつか、また誰かが死ぬ。私のそばで、誰かが死ぬ。もう、あんなのはごめんなんだ」
カインは答えなかった。ただ、静かに小鍋の火を落とした。
その夜、カインはひとりで葡萄酒を飲んでいた。
リュシエは部屋から降りてきて、彼の隣に静かに腰を下ろす。
「…少しだけ、話すよ」
「ん?」
「昔、王都の厨房で働いてた。貴族の家でね。あるとき、政争に巻き込まれて、屋敷ごと焼けた。俺だけが助かった」
「…誰か、大事な人が?」
「恋人だった。まだ若くて、料理なんか全然できない人で、でも俺の作ったものは何でも笑って食べてくれた」
「…」
「もう、誰かを想うのが怖くなった。けど…君と話すうちに、それも少しずつ溶けてきたんだ」
リュシエはカインの隣で黙っていた。
窓の外には、変わらず霧と月が揺れている。
「…私も、忘れられない人がいた。だけど、もしかしたら、また誰かと…そういう風になっても、いいのかもしれないって、思い始めてる」
「そう思えるなら、もう大丈夫だ」
カインはそう言って、彼女の手を、そっと握った。
その日、ティレルの霧は一段と濃く、月の光さえ霞むようだった。
カインは厨房で、小さな鍋をかき混ぜていた。米とだし汁、薄く刻んだ夜茸、そして乳白色の花をすりおろした〈月花草〉の香りが、湯気とともに店内に広がっている。
「…いい匂い。なに作ってるの?」
カウンターに腰掛けたリュシエが、目を細めて鍋をのぞき込む。
「リゾットさ。夜にしか咲かない月花草を使ってみた。香りが優しくて、味にまろみが出るんだ」
「月花草…聞いたことある。幻覚作用があるって噂も」
「ほんの少しなら大丈夫。むしろリラックス効果がある。昔は王都の医師が、これで不眠症を治してたって話もあるくらいさ」
「…そういうの、詳しいんだな」
「料理人だからね。食材のことは、できるだけ知らないと」
カインが微笑むと、リュシエも少しだけ笑った。
その夜、リゾットを食べ終えたころ。
「…今日は静かだな」とリュシエが呟いたその瞬間、扉の向こうで“カラン”とベルが鳴った。
音の割に、客は一向に姿を現さない。
カインが扉を開けようと立ち上がったとき――リュシエがすっと彼の前に出た。
「私が行く。…気配が変だ」
外套を羽織り、そっと扉を開ける。霧の夜の向こうに、ぼんやりと人影が立っていた。
「…ようやく見つけた」
声をかけてきたのは、背の高い男だった。金属の鎧の肩から覗く刺繍は、王都の騎士団のもの。
「リュシエ・カーラ。王都に戻ってもらう。…おまえには、王侯護衛任務の失態という、大きな“罪”がある」
「…っ、私が悪いっていうのか」
「少なくとも、逃げたまま許される立場ではない。死んだ貴族の家族は、おまえを『裏切り者』と呼んでいる」
リュシエは何も言わなかった。代わりに、拳を強く握った。
「…私は、自分の命を守った。それだけだ。逃げたんじゃない。生きたかっただけだ」
「それを言い訳とは呼ばないのか?」
言い争う二人の間に、ふいにカインが割って入った。
「ここは私の宿だ。揉め事は外でやってくれ」
「…だがこれは王都の命令だ。隠匿すれば、あんたも罪に問われるぞ」
「料理人として言わせてもらうが――鍋が沸騰する前に、火を落とすのがプロってもんだ」
「…なんの意味が?」
「意味なんかないさ。ただ、彼女が鍋なら、私は蓋になりたい。それだけだ」
騎士の男は一瞬たじろぎ、それからリュシエの顔を見た。
「…三日だけやる。三日後、王都の使いが迎えに来る。覚悟を決めろ」
言い残して、男は霧の中へと消えていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。リュシエは深くため息を吐いた。
「…悪かった。巻き込むつもりじゃなかった」
「いいんだ。…君は、もう逃げるつもりじゃないんだろ?」
「…うん。逃げたくない。ここで…ちゃんと生きていたいって、思い始めてたから」
「だったら、それでいい。三日あれば…最後に、君の好きな料理を作れる」
リュシエは首をかしげた。
「私、そんなの…言ったこと、あったっけ?」
「言ってない。でも、今の君を見ていれば分かる。心を溶かすのは、いつだって食卓の向こう側なんだ」
月明かりの下、二人の影がゆっくりと近づいていく。
だがその夜、誰も知らぬところで、霧の奥にもうひとつの影が揺れていた。
三日目の朝は、不思議なくらい晴れていた。
霧の町ティレルではめったにない、澄んだ空が広がっている。
ロゼッタ亭の厨房には、かすかに甘く、そして香ばしい香りが漂っていた。
「…何、作ってるの?」
階下へ降りてきたリュシエは、少しだけ腫れぼったい目をしていた。眠れなかったのだろう。
カインは微笑んで、銅鍋の中身を木べらでそっとかき回した。
「“月のほほえみ”って名前をつけた。ティレル風のミルクシチュー。月花草のエキスに、燻製した〈銀羽鶏〉の骨でだしをとって、根菜と一緒に煮込んである」
「…私、好きだよ。こういう優しい味」
「だと思った。最初にここへ来た日、パンとスープを静かに、でもすごく丁寧に食べてた。…あの時から、そう感じてたんだ」
リュシエは黙って椅子に座り、鍋から立ち上る湯気を見つめる。
「…もうすぐ、迎えが来る」
「うん」
「カイン。ありがとう。あんたがいなかったら、私はずっと、心を閉じたままだったと思う」
「君の心が開いたのは、君自身の強さだよ。…でも、その扉の前に、温かい料理があったのなら。少しは役に立てたかもしれないね」
ふと、窓の外から蹄の音が聞こえた。王都の馬車が、ゆっくりと近づいてくる。
カインは、湯気の立つスープ皿をリュシエの前に置いた。
「…これが、君の最後の朝食になるかもしれない。でも、もし君が帰ってきたら。次は、二人でこのレシピを完成させよう」
「…約束、してくれる?」
「うん。いつだって、ここで待ってるよ」
リュシエは静かに頷き、スプーンを手に取った。
一口すすると、甘さと塩気の絶妙なバランスが、心の奥まで染み渡った。
「ああ…こういう味、久しぶりだ」
「どんな味?」
「“帰ってきたくなる味”…かな」
笑ったその顔は、どこか決意に満ちていた。
馬車の扉が閉まり、道の向こうへと遠ざかっていく。
カインは静かにそれを見送った。
もう、霧は晴れていた。
季節が一巡し、再び霧の季節が町を包み始めた頃――
ロゼッタ亭の扉が音を立てて開いた。
「…ただいま」
そこに立っていたのは、少しだけ髪を短くしたリュシエだった。
「…おかえり」
カインは笑った。少しだけ、声が震えていた。
「私、王都のこと…全部片付けてきた。ちゃんと話して、誤解を解いて。それから…一つだけ、お願いしてきた」
「お願い?」
「“料理人の見習いとして、田舎の宿で働かせてください”って」
カインは目を丸くし、それから声をあげて笑った。
「じゃあ、今日から見習いか。厨房、ちゃんと掃除してある?」
「掃除は完璧。あと、煮込みスープも火にかけてきた。味見してくれる?」
「もちろん」
二人は並んで厨房に立つ。
霧の町に、ふたたび温かな香りが満ちていく。
リュシエは、この店の女主人としての一歩を踏み出した。
おしまい