正義依存症
俺は正義依存症に罹っているんだそうだ。同棲していた女がわがままを言ったので半殺しにした。俺が正しかったのは間違いない。しかしちょっとやりすぎたかもしれないことで、女の両親から訴えられ、精神鑑定を受けてどうやらそういう病気らしいということが判明した。
確かに自分でもたまにやり過ぎることは少しあるように思う。しかし俺は正しいのだ。相手が不義を働いたら懲らしめるのが当然ではないか。
それでも病院には行かざるを得ない。通院の義務があるらしいのだ。怠ると何やら俺にとって不利なことになるようなのだ。
「正義依存症は大変厄介な病気です」
何べんも聞いた話を医者がまたしやがる。
「自分がいつでも正しくないと自分の存在意義を認められないのです。そして自分の正しさを世に認めさせるためならどんな暴力的な行為でも平然とやらかしてしまう。何より本人に罪悪感がまったくないことが問題となります。一緒に、気長に治していきましょう」
「しかし先生」
俺は思うことを口にした。
「私は正しいのですよ? この間も、車で走っていて、前に交通の流れを無視して渋滞の元凶になっているやつがいたので、煽りました。そうしたら前のそいつが警察に通報して、私が悪者にされました。おかしいでしょう? 交通全体の円滑を乱しているそいつのほうが悪いのに、それを懲らしめてやろうとしたら、私のほうが悪者にされてしまった。私のほうが正しいのに、世の中のほうがおかしいんだと思いませんか?」
「煽っちゃいけませんよ」
医者は俺を馬鹿にするような目をしやがった。
「立場を反対にして考えてみてください。もし、あなたが後ろの車から煽られたらどうしますか?」
「もちろんやり返しますよ」
当然のことを俺は答えた。
「俺に悪いところはないんですから、煽ってくるそいつのほうがどう考えても悪です。私は正しい。だからそいつの前で急ブレーキを踏み、そいつの後ろの車に追突させて、後悔させてやります」
医者はハァ……とため息を吐いた。この俺を馬鹿にしているのだろうか。死ね。
「とりあえず……薬はちゃんと飲んでいますか?」
「飲んでます」
俺は正直に答えた。
「飲んでいるけど、効きません。つまりはやはり、私は病気などではないのではないでしょうか?」
「効かないわけはないです」
医者はカルテを確認すると、真顔で言った。
「では量を増やしましょう。これまでの倍量を飲んでみてください」
あの医者はヤブだ。
病気でもない俺のことをさんざん病人呼ばわりした上、薬を出す以上のことはなんにもしない。問診して薬を出すだけなら誰にでも出来る。
医者を変えようか? ちゃんと正確に患者の病状を見抜いて、つまりは俺が病気などではないと診断してくれて、俺をこの馬鹿げた病院通いから解放してくれる名医に乗り換えようか。
いや、病気だということにしておかなければ有罪にされてしまう。顔が変形するまでボコボコに殴ったあの女に慰謝料とか払わなければならなくなる。
とりあえず医者にはかかっておかなければ。
そしてそれにはヤブのほうが好都合だ。迂闊に正確な診断をされて、俺が健常者ということがバレてしまってはマズい。
「チッ……。苛つくな」
なんだか世間が俺のことを正しくないと声を揃えて責めているような気分になり、ついペダルを漕ぐ足が速くなってしまう。
世の中バカばっかりだ。
なぜこの俺が自動車の運転免許を取り消されねばならんのだ。
まぁ、理不尽とはいえ、それがルールなら俺は従う。今はあさひ自転車で買ったプレジジョンスポーツが俺の愛車だ。軽くてなかなか速いクロスバイクという種類の自転車だが、スピード違反はしない。サイクルコンピューターできちんと20km/h以下を守って走る。それが正義だからだ。
信号待ちをしているバスの横をすり抜け、前へ出た。なんだかバスの運転士がプッと短くクラクションを鳴らしやがった。なんだというんだ。殺すぞ。
信号が青になり、またバスが俺を追い越していったが、次の赤信号でまたその横をすり抜け前へ出た。
快調に俺が車道に自転車を走らせていると──
さっきのクラクションを鳴らしやがったバスが、俺の横スレスレを走っていくではないか!
危うく接触しそうになるほどの近さだ!
「おい!」
俺は思わずハスの横っ腹をバンバンと派手に音を立てて叩いた。
「あぶねーだろ! 何考えてやがんだ!」
するとバスが俺の進路を塞いで停まった。
自動扉が開き、初老の糞ジジイが顔を覗かせ、大声で俺を罵倒してきやがる。
「おめー! 歩道走れ! いちいち追い越させんなや! 気ィ使え、ボケ!」
なんて糞ジジィだ。コイツは悪の権化か? 魔王の下っ端の雑魚みたいなもんか?
しかし迂闊だったな、ジジィ。俺はこういう時のために自転車にドラレコをつけている。
「晒してやるからな!」
俺は右側からバスを追い越しながら、言ってやった。
「動画サイトにこれ、晒してやる!」
後日、約束通り、俺は動画サイトにその動画を晒してやった。
タイトルは『糞バスの幅寄せ! 自転車いじめを許すな!』だ。
誰がどう見たってバスが悪で俺が正義だろう。
同意と同情のコメントばかりが寄せられることを期待したのだが──
『投稿主が動画の前になんかしたんだろ? 途中から始まってるのがなんかおかしい』
『自転車もバスも互いに気遣い合ってたらこんなことは起きないはず』
『どっちもどっち。譲り合いの精神をもてよと』
『バスを叩いた時点でおまえの負け』
アンチコメをつけるしか能のないバカはどこにでもいるものだ。
まさかこれほどどう見ても俺のほうが正しい動画にそんなものがつくとは思ってもみなかった。
アンチのアホどもに真面目に返信する気は起きず、俺はアンチコメにはすべて『死ね』と一言だけ返しておいた。
しかし……
俺はバスの運転士を訴え、後日裁判に赴くのだが──
絶対に、100%裁判に勝てると思っていたのだが──
アンチコメに少し気になるものがあった。
『バスを叩いた時点でおまえの負け』
そうなのか?
確かにどんな不義の輩に出会っても、手を上げてはいけないというのは聞いたことがある。
しかしあの場合、バスを叩いて知らせなければ、もし運転士の野郎が俺に気づいていなければ、潰されていたかもしれないのだ。
あれは自分の安全を守るための、いわば正当防衛だった。そのはずだ。
なぜなら俺は、俺のすることは、絶対的に正しいからだ。
裁判で俺が負けるなど、ありえない……。
そうなんだろうか? 負けることはありえないんだろうか?
もし裁判で負けたりしたら、俺は拠り所を失ってしまう。
正義であることこそが、俺の拠り所なのだ。
俺は正しい。
俺は正しい。俺は正しい。俺が正しい。
俺は正義なのだ!
──でも、もし、裁判で負けたら……?
怖い!
あまりの不安に押し潰されそうになり、裁判の日までの間を、俺は酒に溺れてやり過ごした。
不安だった。
不安で、自分が消えてしまいそうになっていた。
……で、裁判の結果だが──
俺は勝訴した。当たり前だ。
やはり裁判所は弱い者の味方だった。バスを叩いたのは立派な正当防衛と認められ、あのバスの運転士は解雇された。ざまぁ!
これで俺が社会的に正しいことが証明されたわけだ。ざまぁ!
同棲していた女を顔の形が変わるまで殴ったのも、俺が正しかったわけだ。ざまぁ!
ざまぁ! 俺こそが正義なのだ!