第99話 美知の強さの秘密(2)
家に入るとすぐに壁に突き当たる。美知は左右に目をやり、後ろへ振り返る。
「すぐに始めるのかなー」
「できれば」
熱意を漲らせた杏寿が答えた。
少し遅れて、それで、と僕は小声で言った。
「それならー、こっちですよぉ」
美知は左へ歩く。壁には等間隔で風景画が飾られていた。絵の具が盛り上がって見える。油絵なのだろうか。それらは過去のイメージと違った。暗い色をほとんど使わず、明るい色調で描かれていた。
「おばあちゃんの絵なんだけどー、どうですぅ?」
先頭をいく美知が顔だけを向ける。わくわくする気持ちが表情に出ていた。
「明るい人柄を思わせるような良い絵だと思う」
「おばあちゃんの生まれ変わりみたいですねー」
「年齢的に無理だと思うよ」
「いいんですぅー」
しかめっ面で言い返す。そんな子供っぽい美知の通り名に最強は相応しくないように思う。隣にいた杏寿は心なしか不安そうな顔をした。
突き当りのドアにいくと思った矢先、かなり手前で美知は立ち止まった。そこには別の扉があった。
「ここですよー」
引き戸らしく、横へ滑らせるようにして開けた。
先に入った美知に続くと、思いもしない光景が目に飛び込む。部屋一面に畳のような物が敷き詰められていた。天窓の光を受けてプラスチックのような光沢を放つ。
杏寿は足で感触を確かめる。
「柔道場みたいだ」
「はいー、正解でーす」
「ちょっと待って。格闘技の経験はないんだよね?」
「ないですよー。だってここは以前、物置に使っていたんですよぉ」
ストレッチなのか。美知は腕を伸ばすような動作を始めた。手首を回し、その場で軽く飛び跳ねる。
「じゃあ、どうして」
「大学に近いという理由でぇ、ルチルが強引に改装したんですよー。まあ、費用は向こう持ちだしぃ、新しい収納場所も確保できたからー、いいんですけどねぇ」
「それなら少しは柔道ができる?」
「受け身くらいかなぁ」
身体が温まったところでスラックスに指を掛ける。押し下げる前に止めようとしたが間に合わなかった。
「拓光君、顔が赤いですよー」
「……なんでもない」
実に紛らわしい。美知は下に桃色のホットパンツを穿いていた。
「これが受け身ですよー」
自ら前へ回転して横向きで倒れる。右手は畳を叩き、左脚は踏ん張る形で膝を立てた。勢いで起き上がり、今度は逆の方向の受け身を見せた。
最後は後方に倒れ、両手で畳を叩く。
「こんな感じですかねー」
言いながら両膝を胸元に引き付けて丸くなる。瞬時に斜め上に両足を突き出し、その反動で起き上がった。
一連の動作に杏寿は目を見張る。
「どれくらいの期間で学んだのですか」
「一日ですねー。そのあとぉ、ルチルに何回も投げられましたぁ。受け身のおかげで怪我はなかったですがー」
杏寿は言葉を失った。肩に引っ掛けていた大きな巾着袋をドサリと落とした。
代わりに僕が疑問を口にした。
「コツとか、あれば教えて欲しいんだけど」
「見て覚えただけですよー」
「それだけ?」
「それだけですねー」
何かを思い出したのか。杏寿は早口で言った。
「私に見せたショートフックは?」
「テレビで観たことがあったのでー、試してみましたぁ」
「ウソでしょ……」
努力を否定されたような気分になったのか。杏寿は力なく笑った。
「あとは感覚的な話になるのと思うのでー、まずはスパーリング的なことをしてみましょうー」
「拓光さん、私にやらせてください」
覚悟を決めた顔に逆らうことはできそうにない。
「いいよ。頑張って」
僕は部屋の隅で胡坐を掻いた。
杏寿が持ってきたヘッドギアとグローブを双方が着ける。
「八オンスのグローブですが、大丈夫ですよね」
「それでいいよー」
杏寿は両手を胸元に挙げて構えた。軽くステップを踏む。美知との距離を保ち、周囲を回り始めた。
「慎重だねー」
美知は最小の動きで対応。絶えず、杏寿を正面に捉えた。
先に杏寿が距離を詰める。右のジャブを連続で打ち、大きく踏み込んでボディーを狙う。
「レバーブローですかー」
美知は半歩、下がって躱し、一歩で自分の間合いに持ち込む。
右のショートアッパーで杏寿の頭が跳ね上がる。その手は止まらず、ボディーアッパーのコンビネーションに繋げた。
前屈みになった杏寿は後方へ逃げた。
「なんで、そんなことができるのですか!? こちらは目のフェイントを入れて、しかもジャブで視界を遮った。そのあとの一発を躱して、コンビネーションなんて。どうしてそんなことが……」
「わたしの特徴を挙げますとぉ、物覚えの早さとスピード関連ですかねー」
「コンビネーションは滑らかですが、スピードは脅威に思いませんでした。決して負け惜しみではないですよ」
杏寿は歪む顔で背筋を伸ばした。
「そうではなくてー、わたしが意識を集中するとですねぇ。周りがスローに見えるのですよー」
「まさか、ゾーンを自由に使える!?」
杏寿は驚き、一気に老け込んだように背中を丸めた。その状態で僕のところに戻ってきた。
「私はここまでにします。拓光さんも、やってみますか?」
「それはいいんだけど、ゾーンって?」
「集中力を高めることで、周囲がゆっくり動いて見える状態をゾーンと言います。今の私では対抗できません。もっと集中力を鍛えないと」
速やかにヘッドギアとグローブを外し、僕に手渡す。
杏寿は長い息を吐いて隣へ座った。折り曲げていた足をだらしなく伸ばして、天窓の淡い光をぼんやりと眺める。
美知はヘッドギアを脱いで軽く頭を振った。
「視界が悪くなるのでぇ、無しでやりましょうー」
「僕、初心者なんだけど」
「わたしも素人ですよー」
美知は杏寿に目を向けた。
「小耳に挟んだのですがー、アマチュアの試合でもヘッドギアを使わなくなったんですよねー」
「安全性の面で廃止になりました」
「外した方が危ないんじゃないの?」
僕の当然の疑問に杏寿は一呼吸入れた。
「ヘッドギアは脳震盪を起こし易いそうです。練習では今でも使っていますが」
「全然、知らなかったよ」
「それに拓光君の場合はぁ、襲われることを想定しているんだよねー。それなら実践に近い練習の方が向いていると思いますよー」
美知の言葉には一理ある。実際に襲われればグローブもない。
僕はヘッドギアを置いて美知と対峙した。恐怖心がない訳ではない。これは男としてのプライドの問題でもあった。
杏寿と同じように構える。華麗なフットワークは使えないので摺り足で近づいた。
美知は全く動きを見せない。ノーガードの状態で微笑み、僕の攻撃を待っているようだった。
杏寿の目のフェイントという言葉を思い出す。咄嗟に視線を腹部に向けて、右ストレートを顔面に打ち込む。
美知は小首を傾げるようにして躱した。
「ナイス、フェイントー」
「避けられたら意味がないけどね」
緩む顔を引き締めた。僕は無策で突っ込み、攻撃に徹した。
その結果、不細工なシャドーボクシングをする羽目になった。何一つ、当たらない。実像のない蜃気楼を相手にしているような気分に陥る。
八オンスの軽いグローブが鉛へと変わる。水平に打つことが難しくなってきた。
それに反して美知は軽いパンチを顔や腹にペチペチと的確に当ててくる。全く息が上がっていない状態にも関わらず、頻繁に抱き着いた。大きな膨らみが腕や胸に押し付けられ、頭までクラクラしてきた。
「抱き着くのは、無しで」
「ただのクリンチだよ。ほら、もっとわたしを感じて」
間延びした声は引っ込み、素の状態を見せる。胸は押し付けるだけではなく、擦り付ける行動に変化した。
香水の効果が頭に過る。瞬間、僕は杏寿に向かって叫んだ。
「レフェリーを頼む!」
「わかった」
待機していたかのように飛び出し、ブレイク、と大きな声で離れさせた。
その後も泥試合のような展開が続く。僕のパンチは完全に力を失った。その証拠に美知は額で受けて押し込み、強引にクリンチへ持ち込んだ。抱き着くだけではなく、首筋を執拗に舐めた。興奮の度合いを示す熱い鼻息に理性が飛びそうになる。
僕は抗うようにして言った。
「レフェリー、これ、クリンチ」
杏寿は呆けたような顔で傍らに突っ立っていた。ふらりと前に倒れるようにして僕と美知を両手で抱き締めた。
「私も、したい」
近くにいたことが災いした。杏寿もまた、おかしくなっていた。
僕は二人に挟まれる形で頬を舐められた。押し倒されそうな場面では力の限り踏ん張る。幸いなことに冷静さを欠いた二人の隙は大きかった。難なく嵌めていたグローブを投げ捨てることに成功した。
自由になった両手は透かさず二人の背後に回し、ほぼ同時に尻を鷲掴みにして揉んだ。感度が上がっているのか。それだけでよがり、腰が沈んだ。
屈服するように美知と杏寿は膝を突いた。急いで背後に回って今度は胸を揉みしだく。握力の限界に挑戦した。
艶めかしい声が止んだ。美知と杏寿はぐったりした状態で倒れていた。見える横顔は笑っているようだった。
引き換えに僕の両腕の感覚がなくなった。疲労のピークで拳を握ることもできない。耳には二人分の乱れた声がこびり付き、頭がぼんやりする。
フラフラの状態で歩いた。引き戸に肩を押し付けてスライドさせた。
出る間際、後ろを振り返る。
「……舐めるなよ」
出来の悪い捨て台詞に苦笑いが浮かんだ。




