第98話 美知の強さの秘密(1)
夕食後、僕は二階でシャワーを浴びる。なるべく一階にある風呂には入らないようにしていた。過去、彩音の入浴前に利用して大変な目に遭った。
「兄さんの入浴に関する認識は間違っています。身体を洗って清潔を保つだけが目的ではありません。湯に肩まで浸かって穏やかな気持ちで幸せを噛み締めます。これこそが入浴の醍醐味と言えるでしょう。そのささやかな一時を兄さんは体臭を撒き散らして私から奪いました。これは兄妹の立場を利用したパワハラです。私は慈悲深いので大事にするつもりはありませんが、この場で真摯な謝罪を求めます」
この淡々とした怒りは、ごめんなさい、の一言では解決しなかった。言葉に誠意が見られないという理由で、更なる怒りを引き起こした。
あれから何年が過ぎたのだろう。はっきりとは思い出せない。
シャワールームを出て濡れた身体をバスタオルで拭いた。用意した洗い立てのパジャマを着ると仄かな甘い香りに包まれる。
自室に戻ると念の為に鍵を掛けた。彩音とは違う、一人の幸せを噛み締めつつベッドの端に座る。
一息入れたところで机上のノートパソコンに目がいく。今日の講義の内容で引っ掛かった箇所を思い出した。
忘れない間に机上のノートパソコンを開いた。理解を妨げた学術用語について検索を掛ける。表示された文章は、やや難解で別の論文に目を通す。まだ十分ではないと思い、閲覧が可能な文献を読み漁った。
延々と繰り返している内に目の疲れを感じた。画面の右下に表示された時刻は午後十一時を少し回っていた。
キリが良いと判断してノートパソコンを閉じた。部屋の電気を消して速やかにベッドへ寝転がる。
天井を眺めることなく瞼を閉じた。しばらく待っても眠気は訪れず、代わって予言めいた言葉が頭に浮かぶ。光の言葉は自身の思いで形を変えた。
自分が危険な目に遭えば、関係する彼女達も巻き込まれる。
ルチルと杏寿は戦いに特化しているので心配の余地がない。
要はレスリングで鍛えた突進力と走力で柔軟な展開が期待できる。
撫子は肉体的には男性なので隠された力があるかもしれない。そう思うと不安が薄れた。
屈強な男達に囲まれた綾芽は相手を返り討ちにするだろう。それにとどまらず、拘束したあとの報復が恐ろしい。山へ埋めたり、海へ沈めたりという行為は是が非でも控えて貰いたい。
結愛は芯が強い。逆境に負けない精神力と行動力がある。
美知には不安に思う要素が何もない。見た目のファンシーな姿と合わない豪快な過去が頭に浮かぶ。
強烈なボディーフックで幸子の足を浮かせた。杏寿には切れのあるショートフックを顎先に決めた。どちらも一撃で沈めた。
格闘技を習っていたとは聞いていない。ルチルが話したこともなかった。
強さの源を考えると頭から離れなくなり、余計に眠気が遠のく。
仕方がないと自分に言い聞かせて枕元のスマホを手にした。電話を掛けると彩音に壁を叩かれそうなのでメッセージを送ることにした。
『寝ていると思うので、これから書く内容の回答は明日でいいよ』
『誰とも寝てないよ。今のわたしは拓光君、一筋だから』
美知らしいメッセージが即座に届いた。
反応しそうになる気持ちを抑えて質問に集中する。
『美知は「最強ビッチ」と言われているけど、格闘技経験者なの?』
『違うけど、何かあった?』
『僕の周辺で物騒なことが増えてきた。巻き込まれる者が出るかもしれない。そんな風に考えていると、美知の強さが気になって』
『特別なことは何もしてないよ。あとは感覚的な話になるから』
鍛えなくても強くなれる。そこに可能性を見出した僕は急いでメッセージを入れた。
『強さの秘訣を教えて欲しい。もしかしたら自分の身を守るだけではなくて、皆を助ける力にもなれるかもしれない』
『いいよ。わたしの家にきて。できれば杏寿から二人分のボクシンググローブとヘッドギアを借りて欲しい。無理ならいいけど』
『交渉はしてみる。ありがとう。それで何時なら都合がいい?』
『明後日の午後四時半を考えているんだけど』
明日、杏寿に話を通してボクシングの道具を借りる。明後日の講義は四限が最後。二十分もあれば余裕で美知の家に着ける。
『それでお願いするよ』
『わかった。わたしも身体を綺麗にして待ってるね』
『それじゃあ、おやすみなさい』
最後の美知のメッセージには性的な意味が含まれているのだろうか。微量の香水は欠かせないと強く思った。
約束の日、四限目が終わると急いで東門へ向かう。そこにトレーナーを着た杏寿が待っていた。伸縮性のありそうな七分丈のパンツを穿いている。足元には白くて大きな巾着袋があった。事前に頼んでおいたボクシング道具が入っているのだろう。
今一度、僕は確認の為に訊いてみた。
「本当にくるの?」
「私も強さの秘密を知りたいから」
「私怨ではないよね?」
動き易そうな服装を見て、そんな言葉が口を突いて出た。
杏寿はとんでもないと、手と顔を同時に横へ振った。
「そんなの、全然、思ってない。純粋に強さの秘密が知りたくて。知ればボクシングに取り入れられるかもしれないでしょ?」
杏寿はやや俯いて上目遣いになった。その状態で軽く頭を傾げる。
「そうだね。わかったよ。一緒に行こう」
僕と杏寿は揃って美知の家に向かった。
呼び鈴を押すと待機していたのか。美知が秒単位で飛び出してきた。
止まった瞬間、Tシャツの膨らみがぶるんと震える。
「えー、なんか意外な人物がいるんですけどぉ」
「あ、あの、今日はよろしくお願いします」
殊勝な態度で杏寿は頭を下げた。
「そういうことだから、ご指導とご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
「拓光君はもうー。早く上がりなよぉ。用意はできてるからー」
言うと頬を膨らませた。冬ごもりの準備に追われるリスのような姿に僕はクスリと笑った。
美知もまた、あどけない笑顔を見せた。




