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第97話 不吉が横たわる

 第一講義棟を出ると青い空の端がオレンジ色に滲んでいた。吹く風が僕の前髪を揺らす。首筋を撫でても汗ばんでいない。軽い足取りでキャンパスを歩く。

 正門近くの駐輪場に入ると一目で気付いた。置かれた自転車が少ない。利用時間が決められていることもあって、急いでクロスバイクの施錠を解いた。

 押しながら歩いていると音もなく女性が寄ってきた。同じペースで隣を歩く。向かう先も一緒の為、妙な気分になった。

 横目でちらりと見た感じでは大学生のようだった。丸い眼鏡を掛けている。無表情で少し鼻が高く、真一文字に口を結ぶ。

 やや視線を下げた。ベージュのサマーセーターを着ていた。白いパンツと黒いパンプスが目に入る。

「質問に答えろ」

 その一言と記憶にある顔が重なった。

「SPの片瀬さん?」

「筆頭を忘れるな」

 ほとんど唇を動かさない。前を見据えたままで会話を続けた。

「あの時、貴様は狭い部屋を望んだ。そのあとの演技に騙され、私はトイレという狭小空間に誘い込まれた」

「それは、そのぉ」

 時間が迫る中、良い案が浮かばず、動揺して挙動がおかしくなった。それを勝手に催したと判断した光に僕が便乗した。

 連れて行かれたトイレは予想よりも広くて内心では焦った。結構な量の香水を使って難局を乗り越えたものの、かなりの幸運に恵まれた結果と今では謙虚に受け止めている。

「この行動から導き出される答えは一つしか思い浮かばない。貴様の最大の武器は香りだ。答えろ」

「どうして、そう思うのですか」

 答えをはぐらかすつもりはない。純粋な興味でいてみた。

「最初に出会った部屋で貴様には香りがなかった。妙な不快感を覚えたが、もちろん態度には出さない。トイレでは微かな匂いを嗅ぎ取った。その直後に私は強制的に発情させられた。原因は特殊な香りであると判断した」

「そこまで、わかっていたのですね。答えはイエスです」

「その香りは貴様でなくても使えるものなのか?」

「無理だと思います。色々なことが複合しているので」

 正直に話した。相変わらず、演技には自信が持てない。それに他のSPやルチルの父親を絶句させるような恥ずかしい姿を写真に撮った。多少の罪悪感を抱いていたことも関係して口が軽かった。

 二人で正門を通り抜けた。光は初めて僕の方を見た。

「貴様の特殊性については問わない」

「そうですか。それでは僕はこれで」

 クロスバイクを押そうとした。

「だが、忘れるな。貴様の香りに着目して解明しようとする者がいつか現れるだろう。手段を選ばないやからであれば、その身を危険にさらすことになる。今後は身辺に、十分、気を付けることだ」

「怖いこと、言わないでくださいよ。もし、そうなったら筆頭SPの片瀬さんが守ってくれますか?」

「この私を雇えるだけの財力が貴様にあるとは思えない」

 きっぱりと言い放つ。

 どれくらいの料金なのだろう。心に思うと急に興味が湧いてきた。

「ちなみにどれくらいの金額を払えばいいのですか?」

「時給で言えば一万だ。フルタイムの日給は八万になる。労働基準を守った一年契約ならば三千万弱の金額になる」

 冷ややかな眼で問われた。貴様に払えるのかと。当然のことながら苦笑が漏れる。

「無理ですね。参考にはなりました。ありがとうございます」

「……ただし、個人的な助けは別だ」

「それはどういう――」

 踵を返した光は足早に歩き、路肩に停めてあった黒塗りの車の助手席に乗り込んだ。速やかに発車して、すぐに見えなくなった。

 僕は逆の方向に歩き出す。右に曲がるとサドルにまたがり、クロスバイクを走らせた。

 朝よりも人通りが少なく、軽快に飛ばす。買い物袋を両手に提げた主婦の側では減速した。老人や犬の散歩もあって、別の道を選んだ。

 横手に土手が見えてきた。坂道の手前でギアを変えた。腰を浮かせることなく道に出た。

 前方に人はいない。配慮の要らない道で僕は自分の限界を試すように速度を上げた。重くしたペダルが次第に軽くなり、完全に勢いに乗った。

 その時、排気音を聞いた。瞬間、顔が強張る。

 クロスバイクを左端に寄せる。後ろを振り返る間もなく、スクーターが易々と追い抜いていった。

 僕は速度を落とした。最後にブレーキを掛けて止まる。クロスバイクを土手の斜面に横倒しにして置いた。

 その隣で僕は仰向けに寝っ転がる。両手両足を開いて無防備な大の字となった。

 深呼吸をして広い空と向き合う。

「……ビビり過ぎだって」

 言いながら光の言葉を思い返す。


『手段を選ばない輩であれば、その身を危険に晒すことになる』


 身震いが起きた。原因となった予感を完全には否定できない。

「考えすぎだよ」

 意識して笑みを作った。それでも芽生えた不安は摘み取れない。やがて、しっかりと根を張り、禍々しい存在として心の中に居座るのだろう。

 僕に迫る危険に彼女達を巻き込ませはしない。そう心に誓い、非力ながらも右の拳を握る。決意が鈍る前に空へ向けてストレートを打ち込む。

 遅い上に拳がぶれた。杏寿や幸子のような切れも威力もない。

 不甲斐ない自分に、ただ苦笑いを浮かべた。

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