表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/105

第96話 ヒグマとビッチの争い

 天気予報によると今日の最高気温は三十度を超えると言う。クロスバイクに乗っている状態では、ほとんど暑さを感じない。走る速度が生み出す風でTシャツのすそが激しくはためく。

 住宅街の道に入った。歩道がない上に通行人が多い。ハンドルを握った状態でギアを変えた。速度を落とし、無理なく人々を追い抜いて突き当りを左に曲がる。

 車道の端を走って大学の正門近くで降りた。キャンパス内では自転車の走行が禁止されているので押しながら歩く。本来の暑さが戻ってきて少し早足となった。

 一番近くにある駐輪場の空いたスペースにクロスバイクを入れる。簡素な屋根が日陰を作り、体内の熱を吸い出してくれるようだった。

 背中のリュックからチェーンロックを取り出し、フレームと前輪に絡めて手早く施錠を済ませた。

 二限目の講義に間に合うように第三講義棟へ向かう。

 その時、涼し気な音が鳴った。カーゴパンツのポケットからスマホを取り出して起動する。ずらりと並んだアプリの一つに寄り添うように『1』が見て取れる。ルチルからのメッセージであった。


『昼に学内のカフェで待つ』


 一文にしても素っ気ない。しかも深読みをさせる内容になっていた。

 父親の件は円満に解決したと思っている。帰りは車で大学まで運んで貰った。丁寧に送り出されたことでもわかる。

 そのように考えているのが自分だけ。実は相手の逆鱗に触れていた。その怒りの矛先がルチルに向いて、更なる難問に頭を悩ます結果となった、などということはあるのだろうか。

 生まれた小さな不安は想像によって大きさを増す。それは足取りにも表れた。


 二限目が終わってランチの時間を迎えた。学生達は一斉に動き出す。

 僕は浮かない顔でカフェに向かう。もしもの時に備えて身体には微量の香水を仕込んでいた。

 最初にテラス席に目を向ける。隅々まで見たがルチルの姿はなかった。

 出そうになる溜息を堪えて店内にそっと入る。かなり混み合っていたので洋服に注目した。黒いドレスタイプを探すが一向に見つからない。

 講義のあとに講師へ質問でもしているのだろうか。何かしら遅れる理由があると思い、先に軽めのランチを済ませることにした。

 ワッフルサンドとレモンティーをトレイに載せて、テラス席に近いテーブル席に落ち着く。窓ガラスから見える空は青く、綿あめのような儚い雲が浮かんでいた。

 テーブルに置いたワッフルに手を伸ばそうとすると、横から背中で押された。ルチルは僕の膝に横座りして微笑む。黒いドレスタイムではなく、薄青いチュニックを着ていた。

「あの、これは?」

 何も答えず、僕の頭を抱え込む。胸の柔らかい膨らみに埋もれた。

「拓光、ありがとう。私を救ってくれて」

「もしかして父親の話?」

「そうだよ。拓光は私の本当の王子様だ。もう強がったり、自分を大きく見せたりする行動はやめる」

 ルチルは微かに鼻をすすった。

「上手くいってよかったよ」

「本当にありがとう。これからがんばって拓光の子供を作るね」

「それは、気が早いというか」

 僕とルチルの肩が同時に掴まれ、強引に引き離された。笑顔の美知が中腰の姿で間に割って入る。薄桃色のチュニックは胸に押されて胸元が大きく開き、はっきりと谷間が見えた。

「そこまでわたしは祝福していませんよー」

「なんだよ。話をしたら喜んでくれたじゃないか」

 ルチルは美知に食って掛かる。

「それは友人ですからー。苦しめられた状態を今まで散々見てきたのでぇ、多少の情は移りますよねー」

「いいところだったのに」

「だから阻止したんじゃないですかぁ。拓光君もダメですよー。ヒグマさんが近づいてきたら思いっきり鈴を鳴らさないとー」

 美知は笑顔で怒っているのだろう。細めた目から見える黒目が全く動かない。

「僕もつい嬉しくなって。その、人の目もあるし、皆でランチにしよう」

「その前にお顔直しぃ」

 ルチルがしたように美知は僕の頭を抱え込む。迫り出した圧倒的な胸に顔を挟まれた。胸元が開いたチュニックもあって肌の温もりが直に伝わる。

「やめろ! 私の拓光に何してんだ、おまえは!」

「わたしの拓光君ですぅ」

「この私はお父様に認められた正当な婚約者だぞ!」

「え、本当に!?」

 美知よりも先に僕が驚いた。ルチルは以前と同じように傲慢な顔で笑った。

 自身のスマホを取り出し、メールの内容を僕と美知に突き付けた。

「これを見てみろ。お墨付きだ」

「んー、微妙ですねぇ。拓光君はどう思いますぅ?」

「これはどうなんだろう」

「なんでだよ! ここに書いてある通りだろ」

 僕とルチルはそれとなく画面に目をらす。


『菅原拓光との交際を許す』


 どのように読んでも交際を許しただけで婚約したとは受け取れない。

 美知を横目で見ると鼻で笑うような笑みを浮かべていた。

「交際は男女の間だけではなくてぇ、友達同士でも使われる言葉ですよねー」

「それは、そうだが。あの、お父様だぞ。自分の意見を絶対に曲げなかったのに、これは快挙だ。奇跡と言ってもいい」

「でもぉ、婚約者ではないですよねぇ」

「そういう流れだろ、これは!」

 未だ騒動は収まりそうにない。人の目に晒されることにも慣れた。

 テーブルに置いたレモンティーのカップに目がいく。白い湯気は上がっていなかった。この姿勢ではワッフルサンドにも手が届かない。

 どうしたらいいのだろう。

 他人事のように心の中で呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ