第85話 無人島で過ごす一日(2)
約束の十分前、僕は家の前の道に立っていた。辺りは明るく、暑さの片鱗を見せている。空は純粋な青一色だった。
ヘリコプターに乗るのは初めてなのでわからないことが多い。ネットによると飛行する高度は五百メートルくらいとあった。その情報が正しければ五度の温度差が生まれる。
本当のところはわからないけれど、着脱が簡単な白いサマースーツを選んだ。合わせるのはデニムのワイドパンツで、ゆったりして穿き心地がいい。
あとヘリコプターの搭乗時間を密室と捉え、身体に少量の香水を仕込んだ。海で洗い流されることを想定してスーツのポケットには瓶ごと入れている。
右手から車が近づいてきた。車体は以前の白ではなく、鮮烈な赤だった。
助手席の窓が開くとルチルが顔を覗かせた。
「待たせたな。乗ってくれ」
「今日はよろしく」
「楽しい一日にしよう」
後部のドアを開けて僕は車内に乗り込んだ。シートベルトを付けると滑らかに走り出す。振動の少ない車内は快適で眠気が、ぶり返しそうになる。その都度、強い瞬きを意識して対抗した。
車が減速を始めた。見慣れたアパートの前に要が立っていた。オレンジ色のチュニックに黒いストレートパンツ。右肩には白いトートバッグを引っ掛けていた。ルチルと同じパンツルックだった。
車が停まる寸前、助手席から舌打ちが聞こえた。
要はにこやかな顔で僕の隣に座ってシートベルトを付けた。
「拓光、おはよう」
「おはよう。その服、似合っているよ」
「ありがとう。ビキニも期待していいぞ。それとも、ここで見る?」
上体を斜めにした要は胸元を指で引っ張る。
「いや、今はいいよ。楽しみは取っておきたいから」
「それも、そうだな」
要は納得してくれた。目を剥いて睨むルチルは元の姿勢に戻った。
僕はぎこちない笑みで遣り過ごした。
幾つかの橋を渡る。窓を少し開けると海の匂いがした。
車は管制塔のような建物の見えるところで停車。速やかに下りるとルチルが先頭に立って歩き出す。僕と要は弾む足取りで付いていった。
「あれだ」
ルチルは白いヘリコプターを指さした。横にはパイロットらしい人物がいて一礼した。
「菊池はベテランだ。飛行時間は六千を超える。安心して乗るがいい。早速だが飛べるか?」
「全ての点検は終わっています。人数分の救命胴衣とヘッドセットを用意しました。飛行の間も会話を楽しむことができます」
「その、あれだ。私は前に乗らないとダメか」
「バランスを考えますと」
菊池は申し訳なさそうな顔で言った。
「それなら二人のヘッドセットは無しだ」
「なんでよ」
要の不満げな声にルチルは即答した。
「私だけ、目を見て会話ができないのは不公平だ」
「なんだよ、それ」
言い争いに発展する前に僕がやんわりと口を挟む。
「無人島までどれくらいの時間が掛かるのかわからないけれど、ここで揉めると時間がもったいないよね」
「それは、そうだな。片道で一時間は掛かる。搭乗中の私語は無しだ、私を含めて。これでいいな」
「まあ、いいけど」
渋々といった様子で要は条件を受け入れた。
簡単な説明を受けたあと、各々がヘリコプターに乗り込んだ。車と同様にシートベルトを付けてスマホを機内モードに切り替える。
用意が整い、エンジンが始動。機体が細かく振動して尻がむず痒くなる。間もなくして揺れは安定した。
機体がふわりと浮き上がる。右横へ回りながら滑らかに上昇した。
ビルが積み木くらいの大きさになるとヘリコプターは前進を始めた。要は窓に張り付くようにして景色を眺めていた。私語の心配はいらなかった。
僕は前を見つめた。意外と速さを感じない。安全優先でゆっくり飛んでいるように思えた。ネットの情報にあった時速二百キロは本当なのだろうか。
空と海の青に挟まれた空間をヘリコプターは飛んでいく。同じ青が続くので高さが曖昧になってきた。機体は緩やかに傾いて左へ旋回する。
海の色が濃くなる。その中に誰かの落とし物のような小さい島があった。
ヘリコプターは前進しながら高度を下げた。おかげで詳細が見て取れる。
木々で覆われた島の中央に家の屋根の一部が見える。白い砂浜は三日月の形に似ていた。近くには船を接岸できそうなところまで作られていた。
ヘリコプターは家屋を超えた先にある『H』の場所に着陸した。エンジンを停止するとプロペラの回転速度が緩やかに落ちる。
「菊池、今日の午後三時に迎えにきてくれ」
「わかりました。別荘は使える状態にしてあります。発電設備は稼働中なので電気の使用も可能です」
「わかった。あとは自分でする」
プロペラが完全に止まる前にルチルは降りた。背筋を伸ばした姿で風を突っ切って歩き出す。あとに続く僕と要は中腰の状態で怖々と付いていく。
先頭をいくルチルが振り返った。
「無人島の滞在時間は、ヘリポートの営業時間を考慮して約六時間だ」
「最初は海だよな。上から見た砂浜は凄く綺麗だった」
「要、先に別荘だ。今日の陽射しは強い。飲み物とパラソルが必要だ」
「もしかして荷物持ちがあたしとか?」
弱々しく笑う要にルチルは白い歯を見せた。
「よくわかっているじゃないか」
「僕も手伝うよ」
「拓光、やっぱり優しい。だから好き」
「おおい、抱き着くな!」
ルチルが駆け寄って引き剥がそうとした。
苦笑いの僕は、再び同じ言葉を口にした。
「時間がもったいないよ」
僕は二人の背中に軽く手を当てて別荘へと向かった。




