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第82話 電車内の攻防戦(1)

 テレビの天気予報の情報では、ほぼ一週間、晴れの日が続くという。最高気温は夏日となる二十五度以上が連なり、その中の一日は三十度の真夏日が予想されていた。

 七月に入ったばかりなので梅雨明けではないと思う。当面の暑さ対策として考えられるのは、クール系のシャンプーとボディーソープを併用して使うことだろう。

 着る服にはかなり悩む。必ずしも薄着が良いとは言えない。体臭や香水の匂いが漏れ易く、極端な嫌悪と好意をもたらす。揺れ幅があまりにも大きいので、どちらに傾いても窮地きゅうちに立たされる可能性が高い。

 僕はリュックを背負い、玄関に向かう。スニーカーを履き終わると意識して呼吸をした。改めて自分の姿に目をやる。

 ダボダボのTシャツとハーフパンツは風通しがいい。その上、長時間の効果が望めるクール系を全身に使った。最後の仕上げ、胸の辺りには少量の香水を吹き付けた。

 これ以上の対策は考えられない。手を尽くしたこともあって少なくない自信が湧き起こる。

「いってきます」

 力の籠った声で大いなる一歩を踏み出した。


 降り注ぐ朝陽が肌に突き刺さる。目の前の大気は揺らめき、立ち眩みのような症状を引き起こした。

 信じられない暑さだった。普段の午前八時の温度ではない。土手の道を汗だくで歩く未来が視える。

 急遽きゅうきょ、進路を変更して最寄りの駅へ向かった。

 券売機で切符を買って自動改札を通る。ホームに向かう通路で嫌な予感がした。遠くでざわつくような声が聞こえる。

 突き当りの階段を上がってホームに出ると人々で溢れ返っていた。電車待ちの行列は崩れて、ほとんど意味がないように思える。

 僕自身、どこにいればいいのか。大いに迷う。次にくる電車に乗れるような気がしないので動きも鈍い。

 雑然としたホームで声が上がる。

「こっち!」

 僕に呼び掛けているのだろうか。正確な位置がわからなくて目で探していると手が垂直に上がった。左右に振られ、菅原先輩、こっち! と怒るような声で言われた。

 掻き分けるようにして近づくと結愛が赤い顔で人波に埋もれていた。僕が加わっても大差なく、二人で揉まれた。

 やや疲れた表情で結愛が言った。

「先輩も運が悪いよね」

「これ、どういう状況? 人身事故とか」

「そうじゃなくて電気系統のトラブルだって。アナウンスを信じるなら、もうすぐ来るみたいだけど」

「歩きにしようかな」

 周囲にはちらほらと女性の姿が見える。結愛は窮屈きゅうくつそうにしながらも、すかさず腕を絡めてきた。

「なんでよ。電車がくるんだし、一緒に行こうよ」

「まあ、そうなんだけど。車内で鮨詰めは苦しいと思う」

「じゃあ、彼女のあたしは苦しい目にあってもいいっていうんだね」

「それなら一緒に歩く?」

「学校に着くのがお昼になるよ!」

 当然の怒りと言える。体質の話をしていない現状では、どのような言葉も説得力に欠けるだろう。

「わかった。一緒に行こう」

「もちろんだよ。あたしは拓光の彼女なんだし」

 絡めた腕に力が入る。決して離れないという意思の表れに思えた。


 数分後、ホームに到着した電車のドアが開いた。混雑する車内へ人々は一丸となって突っ込んだ。その中には僕と結愛も含まれている。腕を絡めていたおかげで引き離されることはなかった。

 電車が走り出す。僕と結愛はパズルのピースになった。完全に嵌っていて身動きが取れない。

「結愛、苦しくない?」

「なんとか。生温い感じはするけど」

「あまり冷房は効いていないみたいだね」

 車内が少し揺れた。挟まっている状態なので踏ん張る必要がない。余計な力を使わないこともあって身体の負担は少なかった。

「このまま簡単に駅に着きそうだね」

「なんか、息苦しく、なってきた」

 結愛の頬が赤い。前髪の部分が他よりも黒く見える。汗ばんでいるのだろうか。

 瞬間、頭に閃いた。周囲を男性に囲まれていることもあって、僕は小声で言った。

「……チカン?」

「そうじゃなくて、あたしが、拓光に」

 結愛は僕の耳に唇を寄せて、触られたい、と吐息交じりに囁いた。

 その願望が叶うことはなかった。腕を抜く行動ができない。向きを変えることも無理で、結愛は生殺しの状態となった。

 幼さが残る顔で静かにあえぐ。電車の僅かな振動に色っぽい表情で反応した。びるような目を見て僕の体温も徐々に上がっていく。

 呼応こおうするように周囲の女性達にも変化が表れた。こちらを見て妖艶な笑みを浮かべる。口を半開きにして、物欲しそうな顔をした。

 身動きできない状況に僕は助けられた。次の駅に着けばどうなるかわからない。乗客の出入りで生じた隙間を利用して迫られると逃げ場がない。

 電車は緩やかに減速を始めた。結愛は僕を見て微笑む。普通の状態に戻ったと思い、こちらも笑みを返す。

「拓光、大好き」

 言うなり、唇に舌を這わせた。

 周囲の女性と被り、おまえもか、と心の中で叫んだ。

 電車はホームに滑り込み、僅かな振動で止まった。


 今、運命のドアが開く。

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