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第76話 穏やかな時間

 土曜日の講義は午後からだった。いつもなら午前中は家で気ままに過ごす。ノートパソコンで音楽を聴いたり、無料の動画を観て楽しむ。

 今日はそんな気分になれなかった。いつものパーカーではなく、よそ行きのサマースーツを選んだ。それに合わせてリュックはトートバッグに代わり、肩に掛けた状態で午前中に家を出た。

 薄曇りながら温度が高い。首を触ると少し汗ばんでいた。すかさずハンカチを押し当てる。香水の力を借りているので特に問題はないだろう。

 住宅街にある公園を回り込み、裏手のアパートへ向かう。

 間もなく敷地に入って最初のドアの呼び鈴を押した。走るような音がしてTシャツ姿の結愛が現れた。

「先輩、こんな時間にどうしたんっすか」

「少し話がしたくなって。いいかな」

「全然、オッケーっすよ」

 そばかすのある顔で笑って僕をこころよく迎え入れてくれた。

 細長い廊下を歩いている時に何げなく言った。

「茶髪はやめたんだね」

「バイト先で目立つんで。どうっすかね」

「綺麗な黒髪で内面の清楚な感じがアップしたんじゃないかな」

「あたしが清楚っすか。なんか恥ずかしいっす」

 突き当りの引き戸を開けて、どうぞっす、と僕に勧めた。

 部屋は一新したと言っても過言ではないだろう。壁紙は以前と違い、真っ白に生まれ変わっていた。座卓にゴミの類いはなく、テレビのリモコンが置かれていた。

 思わず、深呼吸をした。横にいた結愛は笑った。

「それ、なんっすか」

「いや、前とあまりに違うんで」

「菅原先輩のおかげっす。バイトは楽しくて遣り甲斐があるっす。安定した収入が心から不安を消してくれて、毎日が充実してるっす」

 無垢な笑顔が眩しくて照れ臭くなった。

「結愛の頑張りのおかげだよ」

「……先輩がいなかったら、こんな気持ちにはなれなかった。本当にありがとう」

 笑ったまま目を潤ませた。声にできない気持ちを伝える為に僕は結愛を抱き締めた。答えるように僕の背中に手を回す。

「このままでずっといたい。そんな気持ちなんだけど、先輩はどうですか」

「僕も同じだよ。嬉しくて涙が出そうだ」

「本当にありがとう……拓光のこと、大好きだよ」

 心からの声に妙な敬語は必要なかった。抱き締める腕の力を緩めた。

「いいよ、して」

 全てを受け入れるように結愛は瞼を閉じた。ほんのりと赤い唇を僅かに開ける。吸い寄せられるように僕は唇を合わせた。

 愛情が加速する。湿った音で心が乾く。そして、もっと欲しくなる。

 そこで本来の目的を思い出した。突っ走る気持ちを抑え込み、自ら唇を離した。

「先輩?」

「今日、ここに来たのは話したいことがあって。聞いてくれるかな」

「もちろん。どーんと来いだよ」

「結愛の友達の幸子のことなんだけど」

 口にした途端、結愛の表情が陰る。目付きは悪くなり、横目となった。

「もう友達じゃない。先輩を危険な目に遭わせて」

「僕のところに直接、謝りにきたよ。杏寿にも怒られていたようで今は反省している。だから許してあげて欲しい」

「……それだけ酷いことをした」

 唇を尖らせて言った。

「でも、結愛と僕を引き合わせる為に動いてくれた。今があるのは幸子がいたからと言ってもいいんじゃないかな」

「それは……」

 結愛は目を伏せた。即答を嫌うようにこちらを見て言った。

「サイフォンではないけど、ドリップコーヒーがあるんで飲んでいって」

「ありがとう。いただくよ」

 敷かれた絨毯の上に腰を下ろす。座卓にあるテレビのリモコンを手にして、使わずに置き直した。

 静かな時に身を委ねる。スズメの鳴き声が聞こえる。小さな子供がはしゃぐ声は公園からだろうか。

 部屋にコーヒーの香ばしい匂いが満ちてゆく。白いマグカップを両手に持った結愛が座卓に置いた。

「飲んでみて」

 隣に座った結愛に言われてマグカップを手に取った。レギュラーと違って香り高く、自然に息を吸い込んだ。

 縁に口を付けてマグカップを傾けた。香ばしさの中にある酸味が程よく、専門店で飲んでいるような気分に浸れた。

「どうかな」

「コクと酸味がちょうどいい。美味しくできてるよ」

「よかった。先輩がいつきてもいいように用意したんだよ」

 結愛は身体を寄せた。自分のマグカップを手にして飲み始めた。

 静かな一時を結愛と過ごす。最後の一口を惜しむように飲んだ。

「先輩、さっきの話なんだけど」

「幸子のことかな」

「うん、仲直りする」

「それがいいよ。今後、僕や美知に突っ掛かっていくことはないと思う」

 杏寿が美知に負けたことを幸子に伝えているので、これ以上の騒動に発展することはないだろう。

「さっちんは関西からの転校生で、最初に友達になったのがあたしなんだよね」

「そうなんだ」

「なんか、あたしと似たような感じがして、親近感が湧いたってゆうか。どっちもギスギスしていて、人嫌いみたいなところがあったから」

 苦笑した結愛の肩をそっと抱いた。

「さっちんは向こうでもボクシングをやっていて、傷害事件みたいなことを起こしてこっちにきたんだって。乱暴なところもあるけど、あたしには優しくて、こっちも優しくなれて。だから、先輩を傷つけようとした時は本気で頭にきた」

「でも、仲直りするんだよね」

「先輩に言われたからもあるんだけど、やっぱりさっちんは友達だから」

 結愛に笑顔が戻った。僕の腕を抱き締めて瞼を閉じる。

「なんの催促なのかな」

「意地悪はなしで」

「そうだね」

 唇を合わせると微かなコーヒーの味がした。

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