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第75話 待ち伏せ

 四限目が終わると雨が降ってきた。幸いなことに小雨こさめで厄介な風は吹いていない。折り畳みの傘で、十分、対応できる。

 ポツポツと雨音を聞きながらキャンパス内をのんびり歩いた。

 正門が見えて少し身構える。人待ち風情の男性が傘を差していた。知らない顔なのに、こちらを向くと親し気に笑い掛ける。

 高まる緊張は隣を走り抜けた女性によって打ち消された。二人は傘を寄せ合い、弾む声で歩いていった。

 臆病な自分を鼻で笑い、続いて正門を通り抜けた。その直後、思いもしない方向から人物が飛び出し、無言で腕を掴まれた。びっくりして顔をやると三白眼で一睨み。唐突に、なんや、と怒りを含んだ声を出した。

「幸子ちゃん、だよね。その、大丈夫だった?」

「大丈夫ちゃうわ! 勝手に帰りやがって! どんだけ逃げるのが大変やったか。そんなことより、ここはあかん。場所を変えるで」

 落ち着きのない様子で周囲を警戒した。

「また、なにかたくらんでいたりする?」

「そんな余裕ないわ! ここにいたら、あのクソビッチが。もう、ええから、来いや。ビビりか」

「そうは言っても前に騙されたし」

「おまえ、女の乳が好きなんやろ。大人しくついてくれば少しくらい揉ませたるわ」

 ボクシングで肺を鍛えているのか。意外と声が大きい。小雨もあって周囲の女性に内容が伝わり、漏れなく蔑むような目を向けられた。

「早く行こう」

「根っからの女好きやな」

 この場にとどまると僕の品性が疑われる。もう手遅れかもしれないけれど。


 適当に歩いて目に付いた喫茶店に入った。窓際の席を嫌った幸子に奥へと押し込まれた。

「見られたらどうすんねん」

「そうだね、ごめん」

 向かい合って座るとウエイトレスが注文を取りにきた。共にアメリカンを口にして早々に追い返す。

 幸子は溜息を吐いた。制服の上から着たベージュのカーディガンのポケットに手を入れる。取り出したスマホは操作してテーブルに置いた。

「人生最大のピンチや」

「これは杏寿のメッセージだね」

 覗き込むようにして表示された文章を見た。


『今度、スパーリングをしよう。お互いにすっきりするし。ヘッドギアは暑苦しいから無しで。それとグローブは軽い八オンスね。ラウンド数は三ラウンド。日時はそちらの都合に合わせる』


 猛追した時と打って変わって優しさに溢れている。内容に関しても引っ掛かるところはなかった。

「ただの練習試合じゃないの?」

「アホか。これ、公開処刑やろ。八オンスやぞ。杏寿さんのマシンガンジャブで滅多打ちにされるわ。一ラウンドも持たん。おまえのせいやぞ」

 力なく言うと、幸子はテーブルに両肘を突いた。両手の指を組み合わせて額を置き、長い溜め息を吐いた。

「どうせ杏寿さんとアプリで繋がってるんやろ? やめさせてくれへんかな。礼はするわ」

「礼は要らないけど、こじれさせた原因の一端は僕にある」

 パーカーのポケットからスマホを取り出す。アプリを起動させて、考えながら小刻みにメッセージを入れていく。


『今、時間は大丈夫かな。君の大切な妹分の幸子さんと会ったよ。僕にしたことを涙ぐんで謝ってきた。だから、危ないスパーリングはやめて欲しいんだけど。これは頼まれたからではなくて、僕の意思なんだ。受け入れて貰えないかな』


 内容を幸子に見せる。左右に動く目が一点で止まり、涙ぐんで、の部分をむくれた顔で指さした。

 数秒で思い直し、顔を横に向けた状態で言った。

「……それで、ええわ」

「じゃあ、送るね」

 送信から一分も経たずに杏寿のメッセージが届いた。


『ごめん、大人げなかった。スパーリングはやめる。幸子にもちゃんと伝えるから。拓光君に嫌われたくないし、これからも私を愛してね。路上ではなくてホテルでもいいよ』


 目にした幸子は表情で喜びつつも、色ボケが、と小声で悪態を吐いた。

 そこに注文したコーヒーが運ばれてきた。一口、飲んだ幸子は全身の力が抜けたように背もたれに寄り掛かる。

「とにかく助かったわ。礼で乳、揉ましたろか」

「それは遠慮しておく。一つ、要望をいうと、暴力的なことはこれっきりにして欲しい。どうだろう」

「負けで終わりは、なんか、嫌なんやけど」

 快諾かいだくには程遠い。渋る幸子に僕は思い出したことを言ってみた。

「杏寿が城山こと、美知に負けたんだけど、それでもやりたいの?」

「なんや、それ!? 聞いてないで」

「言う機会もなかったし」

「それ、マジに受け取っても、ええんやろな」

 真偽を探るような目で言ってきた。

「ウソじゃないよ。僕の家で二人は偶然に出会って、それでどちらもボクシングの構えを見せた。牽制の間を与えず、先に美知が飛び出して杏寿の顎先をショートフックで打ち抜いた。その一発が足にきて倒れたんだ」

「顎先って、ピンポイントで狙ったんか。なんやねん、あのビッチは」

「それでもやるつもり?」

「めっちゃ萎えた。どうでもよくなったわ」

 幸子はコーヒーカップに手を伸ばす。僕も同じようにして口まで運び、香りと味を楽しんだ。

「それであんたは何者なんや? 杏寿さんもそうだし、あの人間不信の結愛まで彼女にしてもうたし。催眠術みたいなもんが使えるんやろ? 目を見ただけで相手の意識を奪えたら最強やで」

「そんな無茶な。あとビッチではなくて美知さんね。僕の彼女なんだから、もう少し配慮して欲しいな」

「おいおい、どうなっとんねん! おまえはメス専門の猛獣使いなんか」

「それ、面白いね。君も加わってみる、なんてね」

 少し寒いギャグのつもりで言った。

 幸子は口を閉ざし、やや俯いた。沈黙の長さに比例して僕の体温が上がってゆく。温かいコーヒーのせいにして気持ちを落ち着かせた。

「今回は目的を果たせたし、これで満足したわ」

「何か温かい食べ物でも注文する? 僕を待つ間、寒かったでしょ」

「そんなに待ってないで。今日の講義は四限で終わりなんやろ」

「そうだけど、よくわかったね」

「大学のサイトに講義の時間が書いてあったやろ。それと一週間前、()()()()にゲロ吐かされそうになったからな。嫌でも忘れんわ」

 犬歯を僅かに覗かせて幸子が笑う。三白眼は糸目となり、眠る子猫のような愛らしい姿を想像させた。

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