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第74話 練習の合間に

 頼まれたから引き受けた。実にシンプルな話なんだけど、ここまで居心地が悪いとは思わなかった。

 今日の午後四時を過ぎた頃、事前に香水を仕込んだ僕は杏寿のたっての願いでボクシングジムに訪れた。体裁ていさいでは見学扱いになっている。

 そこでベンチに座った状態で熱心に見ているフリをした。近くで縄跳びに励む杏寿がステップを踏みながら視界に割り込んできた。視線を右に動かすと、同じ方向に移動した。左も同じで逃れられない。

 しかも、Tシャツ越しでもわかる。胸の激しい縦揺れはノーブラを主張した。見せつけることで密かな快感を得ているのだろうか。または襲われたいという願望の表れなのか。僕には判断できなかった。

 それだけならまだ耐えられる。僕の横手には幸子がいた。杏寿と同じようなTシャツとスパッツでサンドバッグに左フックや左アッパーのコンビネーションを叩き込んでいた。こちらを睨む仕草も含まれていて胃がチクチクする。

 練習に励む男性陣も例外ではなく、シャドーボクシングの合間に怪訝な顔をこちらに向けてきた。

 早く帰りたい。何度も心に思いながら刺々しい視線に耐える。

 その思いが伝わったのか。杏寿は縄跳びをやめた。ジムのトレーナーみたいな人物に駆け寄り、走り込みにいくことを伝えた。

 笑顔となった杏寿は僕の近くにきて、一緒にきて、と小声で告げた。

 さりげない感じで立ち上がると幸子に睨まれた。強調した口の動きで、ボケ、と静かに罵倒ばとうされた。


 外に出た途端、深呼吸をした。新鮮な空気を取り入れて気分を一新させる。

「じゃあ、走ろうか」

「付き合うよ。脚力には少し自信があるからね」

 杏寿と肩を並べて走り出す。しばらくは直進が続いた。

 前方に十字路が見える。弾む声で、右に曲がるよ、と言われた。

 指示された方向に曲がって十メートルもいかない間に、右の路地、の短い言葉を発した。言われた通りに曲がると行き止まりになっていた。

「もしかして道を間違えた?」

「ここだからいいんじゃない。ねえ、キスして」

 杏寿は戻るのを阻むような位置に立ち、甘えた声で抱き着いた。

「私も彼女なのよ。だから、ね。ここでして」

 胸を押し付けてせがむ。凛々しい表情は一変して発情したメスの顔になった。その劣情に触れて僕の身体が熱くなる。倫理観が麻痺してキスをした。

 息を忘れて相手の唇を貪る。息継ぎの合間に杏寿は囁く。

「……お尻を揉んで」

 また唇を合わせる。欲望に火が点き、両手で丸く膨らんだ臀部でんぶを揉んだ。   

 出そうになる杏寿の喘ぎ声を唇で封じた。押し付けてきた胸を自ら左右に揺すり、行為は激しさを増した。

 一線を越える。その間際、ほぼ同時に離れた。

「走ろうか」

「そうだね」

 どこか虚ろな声で走り始める。

 すぐに杏寿の息が上がる。それだけではなかった。乱れた息遣いに妙な声が混ざり始めた。

 横目で窺うと口を僅かに開き、あぁ、と微かな喘ぎ声を耳にした。縄跳びの時よりも胸が激しく揺れている。敏感な部分が擦れているのだろうか。

 なまめかしい声を聞きながら尚も走る。その時、自覚した。いつの間にか、自分の息も荒くなっていた。

 切ないような息苦しさの中、大きく回ってボクシングジムが見えるところまで戻ってきた。

 ジム前には幸子がいた。首に白いタオルを引っ掛けて苛立たし気に左脚を揺する。

 こちらに気づくと、いきなり走り出す。杏寿ではなくて僕に食って掛かる。

「どこまでいっとんねん! 杏寿さんの練習の邪魔するなら、とっとと帰れや!」

「ぼ、僕は何も。ただ一緒に走っていただけで」

「散々、引っ張り回しておいてほざくな! こんなヤツのどこがええのんか、全然、わから……あれ? なんや、おまえ、そんなんやったか?」

 急に態度が軟化した。幸子は、え? と言いながら僕の顔を両手で挟んだ。顔を近づけて、じっと目を見るようにして唇を合わせた。

 瞬間、自ら引き剥がして怒鳴る。

「ここ、路上やぞ! 乙女になにするんや! このヤリチンが!」

「いや、今のはどう考えても、そっちがキスしてきたんだけど」

「……幸子、どういうつもりだ」

 杏寿の目がわる。固めた拳が怒りで震えていた。

「あ、いやー、どうって。その、走りにいってきます!」

「逃がすか!」

 逃げ出す幸子を杏寿が鬼の形相で追い掛ける。

 残された僕はポケットからハンカチを取り出し、急いで顔や首の汗を拭った。

 その場に二十分ほど立ち尽くす。以前、二人は戻って来ない。

「……帰るかな」

 赤く滲んだ空を見ながら土手の道を目指して歩き出した。

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