第70話 雨の中の密やかな行為
今日の講義に必要な教材をリュックに収める。大きな欠伸で眠気を追い出し、部屋を出ようとした。
その時、涼し気な音がした。パーカーのポケットからスマホを取り出す。起動させるとアプリにメッセージが届いていた。
『ごめんなさい! なんか幸子が菅原先輩にリベンジに行ったとかで、本当にごめんなさい!』
結愛は文字で必死に謝る。こちらとしては済んだ話なので気楽に返した。
『被害はないから平気だよ。あと語尾に「っす」て入れない時もあるんだね』
『慌てたせいで入れ忘れてたっす。あと、幸子なんですけど、先輩にお願いがあるらしくて。かなりずうずうしい話なんっすけど』
心当たりがない。お詫びのつもりなのだろうか。
『どんなお願いなんだろう』
『それがよくわからないんで。直接、会って話したいそうなんっす』
『まさかとは思うけど、またリベンジとかじゃないよね?』
『そんなことしたら絶交するっす。最強ビッチの城山先輩と一緒にこっちがやりかえしてやるっすよ!』
美知が絡むと話が大事になりそうなので、やんわりと話を逸らす。
『それで会うとして、いつの話なのかな』
『今日なんっすけど、どうですか?』
『大学の講義のあとなら大丈夫だと思う。夕方の四時十分に四限目が終わるから、その後になるんだけど』
『そう伝えておくっす。場所と時間が決まったら、またメッセージを入れるっす』
メッセージの遣り取りを終えた。
少し不安は過るが、二度の報復はないだろう。もしもの時の保険として香水は仕込んでいくが。
「行くか」
気分を切り替えて部屋を出た。
二限目が終わった時、新しいメッセージが届いた。待ち合わせ場所と時間が記されていた。大学から近い喫茶店は、こちらへの配慮なのだろうか。
四限目が終わると誰よりも早くに大講義室を出た。
向かう途中で雨が降り出す。持参した折り畳み傘を差して足を速めた。
約束の五分前に指定された喫茶店に着いた。窓に目をやると幸子の不機嫌な横顔が見える。
傘を閉じて折り畳む。軽く手で絞って店内に入っていった。
「お待たせ」
「早よ、座れや」
制服姿の幸子が顎で前を示す。対面の椅子に座ると、はぁー、とわざとらしい深い溜息を吐いた。
「ほんまはもう、おまえとは会いたくなかったんや」
「そうなんだ。それで今日の呼び出しは、どういうこと?」
「杏寿さん、覚えてるやろ」
「あの時の長身の女性だね」
「そうや。おまえがごっつ胸を揉みまくった、あの杏寿さんや」
その声の大きさと内容に、それとなく人の目が集まる。
「あ、あの、そこだけ切り取られて話をされると、その、人が誤解するよね」
「事実やろが。女性を打ち負かして胸揉みまくったやろ」
「そ、それもそうなんだけど、もう少し経緯を話さないと僕が悪人みたいになるじゃないか」
「ヤリチンのヒトデナシに誤解も六階もあるか!」
幸子の怒りがぶり返す。強引に宥めるとこじれそうなので諦めた。
悟りを開いた状態で話を進める。
「今日の目的は罵倒ではないよね。そろそろ本題に移って貰えるかな」
「そうやった。おまえ、杏寿さんをどう思う?」
「どうって。身長があって、ボクシングの強者って感じがしたけど」
「そうやろ。杏寿さんはリングやとほんまに強いで。プロテストも余裕で合格して世界を目指せる人なんや」
心酔した様子で幸子は語る。その表情が途端に曇り、僕を三白眼で睨んできた。
「その杏寿さんがおかしいんや。練習に身が入らん感じで、休んでは溜息ばかりや」
「どうしたんだろうね」
「おまえのせいやろ。もう、ええわ。思い出すと腹が立つ。ここからが重要やねん」
注文を取りに来たウェイトレスを、邪魔すな、と一言で追い返した幸子は身を乗り出す。
「杏寿さんを女性として見ると、どうなんや?」
「考えたこともないんだけど。確か、目尻が少し上がっていて凛々しい感じかな。鼻はすっきりとしていて、ボクシングをしているようには見えなかった。綺麗なお姉さんって印象が強いと思う」
「ええとこ、見てるやん。他には」
機嫌を直した幸子がせっつく。
「すらりとした身体の割に胸が大きかった」
「アホか! しばくぞ! なにエロい目で見とんねん!」
「た、ただ魅力を語っただけで、そんなつもりじゃないって」
動揺する僕に悟りは開けそうになかった。
「アホらしくなったわ。杏寿さん、そういうことらしいんで代わりますわ」
幸子が立ち上がると隣のテーブルにいた女性が同調した。
「幸子、ありがとう」
「ええですって」
軽く言葉を交わし、その女性は僕の前の椅子に座った。掛けていたサングラスを外して軽く頭を下げた。
「加納杏寿と言います。先日は大変、ご迷惑をおかけしました」
「あの、これが本当の用事なのですか」
「私があなたに会いたくて、幸子に頼みました」
杏寿は目を伏せて言った。
「……再戦ではないですよね?」
「違います。幸子から全てを聞きました。申し訳ありませんでした」
「それはいいです。どちらも怪我をしなくて、結果的には良かったと思います」
「ありがとうございます。その優しさに付け込むわけではないのですが、お願いを聞いて貰えないでしょうか」
嫌な予感がする。しおらしい態度からの告白。七股の可能性が一気に高まる。
「すぐに済みます。もう我慢できなくて」
「わかりました。叶えられるかはわかりませんが、言ってください」
「出ましょう」
思い違いだったのか。杏寿は伝票を持って会計を済ませると、僕の手を取って外に連れ出した。
その数分後、僕と杏寿は店舗の間の狭いところにいた。激しい雨音が周囲の音を消した。
杏寿は傘を差した状態で身悶える。艶めかしい声の大半は雨音に流され、断片的に聞こえる程度だった。
背後に回った僕は両手で胸を揉んだ。要求されればスカートに手も入れた。悶々とした気持ちを解消する為とは言え、何をしているのだろうと思わなくもない。
その日、七股の話は出なかった。上気した頬で杏寿は礼を言うと、すっきりした様子で帰っていった。
僕だけが疼くような感情に悩まされた。




