第62話 失禁する悪魔
梅雨の合間に試練がスキップをしながら陽気にやってきた。自室のカーテンを開けて見上げる空は濃い青色をしていた。太陽は夏に似た輝きを解き放つ。
試しに窓を開けてみる。朝方とは思えない暑さに面食らう。汗を掻く前にすぐさま閉じた。
「……使うかな」
机の下に突っ込んでいた二つの容器を引っ張り出す。それは夏仕様のシャンプーとボディーソープであった。
朝ごはんの前に二階でシャワーを浴びた。掌に青い液体をたっぷりと垂らす。濡れた髪に塗りたくるようにして泡立てた。熱いような感覚のあとに爽やかなミントの香りに包まれた。
綺麗に洗い流すと頭にひんやりとしたものが残った。発汗を抑える効果が期待できる。ウキウキした気分でボディーソープも試す。
こちらもミントの香りがした。微弱の刺激のあと、あるはずのない風を身体に感じる。妙に涼しくて気持ちがいい。
全身、泡に包まれた状態でいた。トイレの水を流す音を耳にして慌てて洗い流して浴室を出た。
バスタオルで全身の水気を拭き取り、定番のパーカーを着て廊下へ飛び出した。そこに彩音の姿はなかった。たまにシャワーを使う時が重なるので焦ったが、今日は違うらしい。
ほっとして自室に戻る。机上に置いたリュックに講義に必要な教材を入れた。
父は会社の関係で先に家を出た。よくあることなのであまり気にならない。珍しく母もいなかった。二十四時間スーパーに買い出しにいくと、置手紙を残していた。
結果として僕と彩音、二人だけの朝ごはんとなった。椅子の距離は戻ったが一言もない。見えない壁を作った状態で、焼き上がったトーストに自分なりの加工を施す。
キツネ色の表面にブルーベリージャムをたっぷりと塗り付ける。そこに少量のマヌカハニーの隠し味。端を齧ると深い甘さに笑みが零れる。酸味の効いたレモンティーとの相性は抜群だった。
その時、叩く音がした。ビクッとして横目をやると、彩音が固めた拳をテーブルに打ち付けていた。海外の裁判官がハンマーを振り下ろしたような姿に、どのような宣告が飛び出すのか、気が気ではなかった。
「兄さん、朝からなんですか。私の朝食を台無しにしたいのですか。心からの謝罪を求めます」
「え、いや、どういうこと?」
「全身チョコミント男が白々しい。急に色気づくのは兄さんの勝手ですが、そこに私を巻き込まないでください。鼻が痛くて非常に不愉快です」
おかっぱ頭が微かに震えている。前方に凍てつくような目を据えた。暴発寸前の爆弾に思えて深々と頭を下げた。
「ごめん、暑さ対策なんだ。許して欲しい」
「兄さんの特殊な体質は理解しています。汗を掻かないようにみっともない悪あがきをしている姿は実に滑稽ですが、実害がなければ寛大な心で許してあげます」
「それは、どうも」
「兄さん、頭の中までチョコミントなのですか? 夢うつつの状態なら三角締めで正気に戻してあげましょうか」
要するにミントで鼻が痛くなり、トーストの味に悪い影響が出ると。打開策は一つしか浮かばない。
昨晩と同じように椅子を引き離して食べた。
彩音はサメのようにトーストを齧る。味わっているようには見えない。早々に立ち上がると食器をシンクに入れて上から水を掛けた。
「それではごきげんよう」
「あ、はい。いってらっしゃいませ」
お嬢様を送り出す執事の気分を味わった。
出だしで軽いジャブを食らったものの落ち込むことはない。強い日差しを物ともせず、土手の道を突き進む。
全身のひんやりした状態は続いていた。香水の力を借りなくても、どうにか一日を乗り切れるのでは。そう思うと夏だけではなくてオールシーズンで使えるような気がした。
あの雄大な空のように気が大きくなった。行動にも反映された。土手の道を逸れて最寄りの駅から電車に乗り込んだ。
今日は二限目からの講義なので車内は空いていた。スーツを着た人物は見当たらず、学生もほとんどいない。ガラガラの車内に一人だけ、優先座席で足を組んだ女子がいた。黄色いリボンのセーラー服を見た瞬間、不吉な予感に襲われる。
瞬間、目が合った。茶髪の女子は立ち上がり、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「また会ったな、チビ」
「その、久しぶりだね」
「なんかおまえ、ミント臭えな」
ミントのガムを噛みながら言い放つ。相変わらず、口のタバコ臭が酷い。
「今日は暑くなりそうなので」
「んで、またスカートの中をガン見かよ。そろそろ金払って貰わねーとな」
「見てません」
「今度は逃がさねぇぞ」
胸を突き出すようにして僕に近づく。避けようとして後ろに下がるとドア窓の隅に押し込まれ、逃げ道は両手で塞がれた。
「ここで胸を押し付けたらどうなると思う?」
「……わかりません」
「おまえが痴漢になるんだよ。次の駅に着いたら、駅員に突き出してやってもいいんだぜ。どうするよ?」
実に手慣れている。金銭の要求を直接して来ないところが悪質で、過去の被害者の数を想像すると許せない気持ちになった。
「財布を出すから、少し離れて」
「逃がさねぇからな」
半歩、後ろに下がった。僕はパーカーのポケットに右手を入れた。その中で掌に香水を吹き付ける。
「あれ? こっちかな」
引き出した右手は首筋に当てた。擦り付けながら左手を別のポケットに入れて探るフリをした。
「な、なんだよ、これ?」
女子の膝がガクガクと揺れる。わかっていながら近づいた。
「どうかしたの?」
「そ、そんな、どうして!?」
胸が苦しいという風に自ら掴む。人目を気にせず、軽く揉み始めた。
電車がカーブに差し掛かる。倒れそうになった女子を反射的に抱き締めた。
「ああ、それ、ダメぇぇ……」
腰が抜けたように女子はペタンと、その場に座る。それだけでは済まなかった。床が濡れて微かなアンモニア臭を漂わせる。
「み、見ないで。お願い、だから」
すすり泣くような声を聞いた僕は激しく動揺した。罪悪感に胸が押し潰されそうになる。
電車が減速を始めた。間もなく目的の駅に着く。
僕は香水をチノパンのポケットに押し込んだ。背負っていたリュックは急いで座席に投げ込む。手を休めず、パーカーを脱いで濡れた床を懸命に拭いた。
「な、なんで?」
「こんな僕を、僕が許せないから」
全てを拭き取った。染み跡は少し残ったが仕方ない。
女子を立ち上がらせると他の部分も拭いた。快感で身を捩る姿は無視した。
濡れたパーカーは丸めて臭いの拡散を防ぐ。座席のリュックを掴むと電車が停車してドア窓が開いた。
ギリギリで間に合った。ホームに降りると後ろから声を掛けられた。
「ありがとう。あの、また会えない、かな」
「お礼なら必要ないから」
後ろを振り返った僕は目を見開いた。あの小憎らしい女子が潤んだ目を向けて、こちらにいじらしい笑みを見せる。
ドア窓が閉まる。女子は額を窓に打ち付けて目で訴えた。
応えられない僕は力なく笑って見送った。




