第61話 香水の謎に迫る(2)
日曜日、起きた時から空は曇っていた。朝食を食べ終わる頃に音のない霧雨へと変わる。更なる時間の経過でポツポツと雨音を出すようになった。
僕は本降りになる前に家を出ることにした。
傘を差して、時折、空に目をやる。黒い雲はいつ雷が鳴ってもおかしくないように思えた。今日に限って言えば慈雨とはならず、気ぜわしい状態で土手の道を急いだ。
日々のおかげで足は鍛えられた。要に追い掛けられても辛うじて逃げ切れる。やや情けない成果ではあったが男としての自信に繋がった。
僕は大丈夫。例え香水がなくても、きっとやっていける。心の中で鼓舞すると自然に気分が上向いた。
祖父の家に着くと居間ではなくて縁側に連れて行かれた。座布団が二枚、置いてある。湯呑と茶菓子まで添えられていた。
僕と祖父は横並びに座った。大自然を凝縮したような日本庭園を眺めていると心が安らぐ。
その頃合いで祖父が口を開いた。
「これが結果だ」
二枚の紙を床に置いて指先で横へ押し出す。見慣れない成分とパーセントが表示されていた。
「俺が使った香水と拓光に渡した香水の成分は全く同じだ。独自に精油したものも同等に含まれている」
「香水による魅了の効果はないってことですか」
「そういうことだ。あるとすればこの成分が効く『特定の女』となるが、アレだけは絶対にここへは呼ぶな。男の約束を破るなよ」
「わかっています。僕は別の観点で試してみました」
祖父は関心を示したように、ほう、と声を出してこちらに耳を傾ける。
「香水を使う側の相性もあると思い、僕の友人に協力して貰いました」
「それで魅了の効果はどうだ?」
「全くありませんでした」
僕の苦笑いを見た祖父は何も言わず、湯呑のお茶を啜る。
「どちらにしてもサンプルが少な過ぎる。あの香水からすっぱりと手を切った方がいいかもしれんな」
「どうするつもりですか」
「まずは拓光、目前に迫る夏を乗り切らないといけないだろう。あの香水のストックは、あと二本だ。全てをやろう。少しは体質の改善に役立つようだからな。調合の方法を示したデータはこちらで破棄する。それで終わりだ」
黒文字なのだろうか。祖父は薄い木片のようなものを使って生菓子を切り分けた。その一つを突き刺して口に入れた。渋い顔で噛むとお茶を喉に流し込む。
「それでいいのですか」
「未練を断ち切る良い機会だ」
目を日本庭園に移す。寂しそうな横顔で雨に濡れる草木に想いを寄せる。
口の中が乾いてきた。僕は湯呑を口に運び、おそるおそる唇を付けた。生温いことがわかると一気に飲み干した。
急に雨脚が強まり、庭全体が白く霞む。何もわからないに等しい香水と重なって見えた。
家に着くと夕方の時間帯になっていた。居間では父と母が揃ってテレビを観ているようだった。弾むような会話が廊下にまで聞こえてくる。
「ただいま」
一応、顔を出した。
テレビの前で作務衣を着た父が胡坐を掻いていた。大きな座椅子代わりにした母がすっぽりと収まる。相変わらず、仲がいい。
「お帰りなさい」
「帰ったか。今日の夕飯は期待していいぞ。絹恵さんが愛情をたっぷり注ぎ込んだ特製チゲ鍋だ」
「それ、絶対に汗が出るよね」
「蛇に睨まれた蛙くらいの汗は出るだろう。想像するだけで腹が減る」
父は揺るぎない笑みで横腹を叩いて見せた。
このことを彩音は知っているのだろうか。僕は苦笑いで居間を出た。
二階への階段を上がり、廊下に出ると手前のドアが瞬時に開いた。トイレへ逃げ込む間もない。
「た、ただいま」
「兄さん、今日の夕飯は非常に不快を伴うことが予想されるので限界まで椅子を離してください」
飛び出した勢いで乱れたおかっぱ頭を手で整える。
「あの、善処はするから」
「口だけではなくて最大限の誠意を行動で見せてください」
冷気を伴う目に顔が強張る。メデューサに睨まれた蛙となった。
彩音が部屋に戻っても数秒は立ったままでいた。
程々で立ち直って自分の部屋に入ると、助けを求めるようにパーカーのポケットへ手を突っ込んだ。三本の香水が触れ合って涼し気な音を立てた。
例え微量の香水であっても大量の汗を掻けば危うい状況を生み出す。彩音がおかしくなった場合はまだマシで、仲のいい兄妹で押し通せると思う。
実の母は想像するだけで鳥肌が立つ。その姿を目の当たりにした父は怒り狂って家庭崩壊を招くに違いない。
「どうしたら……」
二階でシャワーを浴びることにした。冷水に近い温度で身体を十分に冷やし、ろくに髪を乾かさないで夕飯に備えた。
いつもの夕飯の時間を迎えた。テーブルには人数分の小鉢が置かれた。各自、椅子に座ると中央の土鍋に目がいく。注目を集めたところで母が笑顔で蓋を開けた。
咳き込むような辛い匂いが鼻と喉を襲う。全開に開けた窓や換気扇の効果は薄く、僕と彩音は離れたところで同時に顔を背けた。
逆に父は上体を倒し、覗き込むような姿で大きく息を吸い込んだ。
「辛さの中に確かな旨味を感じる。汁の赤さと具の白さのコントラストが実に見事で食欲をそそるではないか」
「勝光さん、褒めすぎですよ」
妙に腰をくねらせる母に彩音の冷ややかな目が向けられた。
「血の池地獄を見ている気分になります。ここまで香辛料を使う必要があるのでしょうか。確固たる理由があるのでしたら教えていただけませんか」
「そんなの決まってるじゃない。勝光さんが喜ぶからよ」
「絹恵さん、不変の愛をありがとう」
「当然じゃないですか」
父と母は二人だけの世界に旅立っていった。
母の盛り付けで全員にチゲ鍋が行き渡った。各々が手を合わせて、いただきます、と言った。
僕と彩音はがっつくことなく、まずは父の様子を窺う。
熱さや辛さが気にならないのか。笑顔で箸を進める。茶碗のご飯には目もくれない。一杯目を平らげて母におかわりを求める。覗く白い歯は少し赤くなっていた。
見た目ほど、辛くないのではと思い直した。赤い汁の中でぐったりしたネギを箸で摘まむ。彩音は焼き豆腐を選び、ほぼ同時に口へ入れた。
兄妹らしく、揃って激しく咳き込んだ。




