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第59話 濃厚な味

 『私は午前中に大学の講義が終わります。その後はアパートにいて拓光さんが来るのを待っています。都合が悪ければ後日でもいいです』


 サークル『電脳の箱庭』から僕宛にメールが届いた。今日はキャンパスのベンチで撫子に会えなかった。それもあって深く考えず、誘いに乗った。

 夕陽で滲む空の下、足取り軽くアパートまでやってきた。錆びた階段に恐れを抱くことはなくなり、軽快に上がって最初のドアをノックした。

 待ち侘びていたかのようにドアが開き、笑顔の撫子が僕を招き入れた。

「私的なメールを送ってごめんなさい」

「いいですよ。それで今日の呼び出しは何かな」

「皆さんにいただいた食材を今日の朝にようやく食べ切りました。あ、それだけで拓光さんを呼んだわけではないですよ」

 撫子は急いで付け加える。

「まずは座ってください」

「それではお先に」

 手で示されたクッションに座る。目の前には綾芽の置き土産のテーブルがあり、中央に布を掛けられた物が置かれていた。形から簡易コンロは想像できた。上に載っている物体はなんだろう。

「今日は私の初めてを見ていただきます」

「初体験、ですか?」

「初体験ですけど、嫌らしい意味はありませんよ?」

「そうだと思ったよ」

 下半身のうずきは瞬時に収まった。

 屈んだ姿勢で撫子は布を摘まみ、一気に引き上げた。

 簡易コンロの上には黒光りする土鍋が載っていた。

「この間、遠出をした時に見かけたフリーマーケットで購入しました。破格の五百円です」

「もしかして無洗米もある?」

「はい、水も用意しました。今日は土鍋で初めてのご飯を炊きます」

「僕の家も電子ジャーだから炊き上がりが本当に楽しみ」

「まずはふっくら艶々を目指します」

 撫子は薄手のカーディガンの袖を捲る。唯一の収納の押し入れを開けて木製のお盆を持ってきた。シャモジや箸があり、二組の茶碗には大小の差があった。

「これもフリーマーケットで買いました。夫婦茶碗ですが」

 僕の顔色を窺うような目に笑って見せた。

「大きい茶碗は僕が使うね」

「いっぱい食べてください」

 撫子が用意をしている合間に僕は文机の方に目をやった。大きな電子ジャーはなくなっていた。

「それでは炊きます」

「浸す時間は?」

「すでに仕込んでいて四十分が経っています」

「そうなんだ」

 中火で炊いている間に電脳世界に話になった。

「そろそろアップデートができそうです。拓光さんは何か欲しい機能とかありますか」

「何でもいいの?」

「話は聞きますが、全て出来るとは限りませんよ」

 言い出す前に軽く釘を刺された。

 コミュニケーションツールの役割がある為、アバターを本人に似せた作りはNGに思える。オフ会をした時の人数の少なさが物語っていた。

 便利な機能で考えると、キー入力あたりになるだろうか。

「文字入力の会話がメインだけど、キーを打つのが遅い人用に音声通話機能を取り入れてみたら、どうだろう」

「そうですねぇ。肉声による会話は特定を恐れる人には合わないかもしれないです。そこで音声を文字に変換する機能はどうでしょうか」

「それは便利そう。できるなら、それでいいんじゃないかな」

「木下さんにも話してみます」

 撫子の視線が土鍋に向く。蓋に空けられた穴から白い蒸気が上がっていた。

「そろそろ弱火?」

「まだ、ですね。ネットの情報ですが」

 慎重な声で言うと湯気に鼻を近づける。

「……焦げ臭い感じではないです。もう少し粘ってみます」

 固い声の影響を受けて僕まで目を離せなくなった。

 白い湯気の勢いが増す。ブツブツと文句をいうような音がした。

「今です」

 撫子は弱火にした。その判断は少し遅く、蓋の隙間から白い泡が勢いよく流れ出た。慌てて布を掴み、収まるまで拭き取る。

 荒ぶる土鍋は落ち着いてか細い湯気を上げた。

「この状態で六分くらいを目安にして火を止めます。蒸らしの時間は二十分前後とありました」

「それってネットの情報?」

「はい、そうです。ただ、少し水が想定したよりも多く出てしまったので、もう少し早くてもいいかもしれません」

 会話は途切れた。撫子はそわそわした様子で湯気に鼻を近づける。僕はスマホで時間をはかる。

「五分が過ぎたよ」

「焦げた臭いはしません。湯気の量も減っているので、頃合いかもしれないです」

 意を決して撫子は火を消した。蒸らし時間もスマホを利用した。

「二十分が過ぎたので蓋を開けてみます」

「中身が凄く気になる」

 膝立ちの姿で待機。撫子は右手にシャモジを持ち、左手で蓋を開けた。

 艶々した米のところどころに穴が開いていた。撫子はシャモジを差し込み、手早くご飯をひっくり返し、また蓋を閉めた。

「美味しいご飯が炊ける条件にカニ穴があります。これは期待できますよ」

「ご飯は美味しそうだけど、おかずは?」

「最高の一品を用意しました」

 また押し入れへと向かう。撫子は卵のパックとルチル提供の醤油をテーブルに置いた。

「この卵は六個パックです」

「スーパーで見たことあるけど、高いよね?」

「奮発しました。ルチルさんの醤油を掛ければ最高の卵かけご飯が完成します」

 本当に嬉しいのだろう。撫子はうっとりした顔で微笑んだ。最高級のA5の牛肉を食べ続けた反動に思えた。

 撫子が茶碗にご飯をよそう。受け取った僕は箸で中央に穴を開けた。卵は軽くテーブルに打ち付けた。ヒビの入った部分に指先を差し込む。ご飯の上で割って落とし込む。あとは適当に醤油を掛けて掻き混ぜた。

 食べる用意が整った。

「いただきます」

「私も、いただきます」

 箸を使ってほぼ同時にとろりとしたご飯を口に入れる。んー、という声を聞いた。

 撫子は満面の笑みで口を動かす。

「こんなに美味しい卵かけご飯を食べた記憶がありません」

「黄身が濃厚で、ご飯も粒が感じられて美味しい。ちょっと感動したかも」

 二人で美味しいの言葉を連発させた。

 その後、僕は珍しくおかわりをした。撫子は恥ずかしそうにして、二杯目を控え目によそった。

 口直しに二人でペットボトルの麦茶を飲んだ。

 静かになった途端、僕の意識は撫子に向いた。あちらも何か感じているのか。ちらちらと目を向けてきた。

 前に撫子に言われたことを思い出す。

「キスしてもいい?」

「いいですよ」

 僕は撫子とキスをした。唇に相手の震えが伝わる。

 抱き締めて強く唇を押し当てた。震えは止まり、苦し気に息継ぎをするような音が耳に残った。

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