第53話 甘い唇
二限目が終わると隣から声を掛けられた。
「今日もカフェなんだろ。この間の講義で教えて貰った礼をさせてくれよ」
「奢るってこと?」
「まあな。上限は千円ってことで」
よく講義が一緒になる杉下の提案は悪くない。それどころか魅力的で断る理由はほとんどなかった。
「悪いけど、先約があるから」
「そうか。なら、また今度な」
相手の明るい声に救われた。揃って講義室を出ると別々の方向に歩き出す。
本当は誰とも約束をしていなかった。頼まれた訳でもない。ただ、自分がそうしたいと思った。
人の流れに逆行するように歩いていくとベンチに撫子が座っていた。項垂れたような姿で膝に置いた重箱を見ているようだった。
足を速めようとした瞬間、視界の隅に隆志の姿が入り込む。絵に描いたような笑顔で走ってきた。
「お兄様、お久しぶりです」
「もしかして僕のことですか?」
「もちろんです。姉とお付き合いしていることを小耳に挟みました。おめでとうございます」
口角を上げ過ぎて不気味な笑顔になった。
「それで、どうして僕がお兄様なのですか」
「結婚を前提としたお付き合いだと聞きました。そうなりますと俺、私は義理の弟になります」
「気が早い話ですね」
「姉が決めたことは絶対です。今後も関係を深めて一家を盛り立ててください」
低姿勢の坊主頭もあって茶坊主を想像させた。
「良いところにきてくれました」
こちらに気付いた撫子が笑顔で駆け寄る。
「なんか、押し付けたみたいになってごめんなさい」
「食べるのを手伝ってくれたら許してあげます」
「そのつもりできました。やはり中身は特大の牛丼ですか」
「今日は焼肉弁当風にアレンジしました。味は美味しいのですが、とにかく量が凄くて大変です」
親し気な会話に隆志は驚いた顔で固まる。若干、震えているようにも見えた。
撫子は横目で見て、どうしました? と不思議そうに訊いた。
「前に見た時よりも、その、親しそうに話しているから。驚いたというか。サークル仲間なので、わからないでもないが」
「そうでした。木下さんには話していませんでしたね。私だけが特別という訳ではないのですが、拓光さんとお付き合いしています」
「な、まさか!? 行動を共にするという意味だよな」
「そうではなくて恋人として付き合っています」
事情を知らない撫子はにこやかに答えた。
隆志はそれどころではない。全身の震えが顕著となり、その場に倒れ込みそうな状態に陥った。
何かに怯えるような目を僕に向けた。瞬きを忘れて一方に顔を小刻みに動かす。
察した僕は撫子に言った。
「少し話があるから、そこのベンチで待っていて。すぐに終わるから」
「わかりました。逃げたらダメですからね」
愛らしく頬を膨らませると弾むような足取りで戻っていった。
隆志は直後に詰め寄る。
「ど、どういうことだ。二股なんて正気の沙汰とは思えない!」
撫子の衝撃的な告白で敬う気持ちが消し飛んだらしい。
「そんなに驚くことなのかな」
「自覚がないのか!? 命を投げ出す行為なんだぞ! おまえだけで済む話じゃない。俺にまで飛び火して、そうだ」
「どうしました?」
「おまえなんか知らない。サークルにいても顔を合わせたことがない。今日も会っていない。キャンパスですれ違っただけだ」
目の前に僕がいながら堂々と語る。
「現実逃避するのはいいのですが、無理があると思いますよ」
「事実を語っただけで逃避はしていない。この受け答えも、ただの独り言だ。そういう気分なのだ」
隆志は顔を振るわせた。目を合わせようとしない。
事実を伝えることに躊躇いを覚えつつ、小声で言った。
「僕を綾芽さんに襲わせたことを忘れました?」
その一言に秘められた破壊力は僕の想像を超えた。隆志の力んだ顔が一気に緩んだ。生気を失った人形のようになった。
「俺が、間抜けすぎる。バカすぎて死にたくなる。いや、死にたくない。なんでこんなことで死ななきゃいけないんだ!」
「綾芽さんは、そんな非情な人ではないと」
「ふざけるな! 悪鬼を泣かすような相手に何を言ってるんだ! 俺は、これからどうしたら……プッ」
絶望に打ちひしがれた状態で笑った? 表情からは全く読み取れない。
「あの、木下先輩?」
「なんだよ、それ。おまえの二股で俺が死ぬ? それ、どんな理屈だよ。俺は当事者じゃないんだぞ。神様の悪ふざけが過ぎるわ」
「そんなに心配しなくても平気ですよ。本当は二股ではなくて五股ですから」
言うつもりはなかった。隆志の精神状態が心配になって、つい口から真実が漏れてしまった。
「五股って、おまえ。ギャグだろ。破壊神かよ。俺の人生が粉々だろ、それ」
「このことは綾芽さんの方で」
「聞きたくない! もう黙れ! もげて落ちろ! 不能になれ! バーカ、バーカ!」
顔を真っ赤にして大股で歩いてゆく。
「本当に大丈夫だから」
「バーカ、バーカ! おまえの母ちゃん、デーブスー!」
会話にならなかった。僕は苦笑いで見送ると、撫子のいるベンチに小走りで向かう。
「木下さんは、急にどうしたのでしょう」
「単に機嫌が悪かっただけじゃないかな」
「それならいいのですが。そうそう、これが今日のお弁当になります」
僕が隣に座ると聖母に相応しい微笑みで重箱の蓋を開けた。
黄色と茶色のコントラストが際立つ。顔を近づけてよく見ると、黄色は卵で作ったそぼろとわかる。
「このそぼろも、あの簡易コンロで作ったんだね」
「はい、重宝しています。ただ電子ジャーのご飯が先になくなりそうなので、どうしようかと」
「無洗米を使ってはどうですか。共同の流しみたいなのはあるみたいだし」
「そのアイデア、いただきます。ご飯だけに」
目を細めた撫子が箸を使う。一口大を挟んで僕の口へ近付ける。
「あーん」
「ど、どうも」
遠慮がちに口を開けて食べる。冷えていても美味しい。そぼろを噛むと上品な甘みを感じた。ルチルが持ってきた和三盆を上手く活かしていた。
「私にも、あーん」
箸を受け取った僕は同じように口へ運ぶ。少し位置がずれたのを撫子が首を傾けて修正した。
「二人だと、一層、美味しくなりますね」
微笑む唇にそぼろの一部が付いていた。じっと見ていると小さな粒が大きくなった。
僕はそぼろと一緒に唇をいただいた。とても柔らかく、滑らかな感触を僅かな時間で味わった。
「こんなところで……でも、嬉しい」
「急に、ごめん」
「今度は言ってから、してください」
恥ずかしそうに笑う撫子は聖母ではなくて、ただの愛しい人だった。




