第52話 香水に追い込まれる
波乱のすき焼きパーティーを何とか無事に切り抜けた。
その翌日から撫子は大学構内に弁当を持ち込むようになった。ルチルがプレゼントした重箱なので中身は見なくてもわかる。
A5クラスの牛肉のスライスが詰め込まれていて、ご飯は美知が置いていった電子ジャーでまかなう。それらを合わせると豪華な牛丼が容易に想像できた。
今日はベンチに座って食べていた。近づくと独り言が聞き取れるようになった。
「豚になります」
そんな不満を耳にした僕は胸焼けを感じた。気付かれないように裏手を回って講義室へ逃げ込んだ。
三限目が終わった。事前に電話を入れていた祖父の家に向かう。
その途中、パーカーのポケットから香水を取り出す。中身は半分くらいまで減っていた。いつまで使い続けることができるのだろう。無くなれば、また体質に苦しめられることになる。
撫子は例外として、他の四人との関係が崩れるかもしれない。それを考えると気持ちが逸り、速足は駆け足へと変わった。
久しぶりの対面となった。座卓の向こうにいる祖父は落ち着きを欠いた。視点が定まらず、電話と同じ内容を口にする。
「香水はくれてやったんだ。もう関わりたくない。わかっているな」
「わかっています。ここに美知は連れてきません。安心してください」
「それならいい。本当に連れてくるなよ」
猜疑心の塊の祖父へ、にこやかに笑って見せた。彼女になったことは伏せて置いた方がいいだろう。疎遠にされると、香水目当ての僕が困る。
「以前に貰った香水のストックはありますか」
「あるにはあるが、数に限界がある」
「新しく作ることはできないのですか?」
「できなくはないが、熱意を失った。俺の求めていた女を魅了する効果が皆無だからな」
やはり祖父は断言した。僕が貰った香水に特別な力はないと。この機会にもう少し深く切り込んだ方がいいように思った。
「本当にそうなのでしょうか。同じ作り方であっても、僅かな分量の差で効果が劇的に変わる可能性はあると思うのですが」
「確かにないとは言えない。だが、限りなくないとも言える。俺の調合に間違いはない。逆に訊くが、その質問の意図はなんだ?」
「……僕に彼女ができました」
「それは本当なのか!? 夢が叶ったと」
祖父の目の色が変わった。座卓に片肘を突いて前のめりの姿になった。
「事実です。香水の効果と思うのですが、どう思いますか?」
「……現物はあるのか」
「持ってきました」
僕は香水を取り出して座卓の中央に置いた。祖父は掴み取ると掌に吹き掛けて鼻を近づける。掌と掌を擦り合わせて、尚も匂いを嗅いだ。
「俺が使用した香水と同じ匂いだ。特別な力が宿っているとは思えないが、預からせて貰ってもいいか」
「代わりにストックを貰えないでしょうか」
「いくつだ」
「取り敢えず、一つでお願いします」
用件は済んだ。あとは祖父の結果を待つだけとなった。
祖父の家を出て間もなくして足を止めた。受け取った香水は入れ物が同じこともあり、代わり映えがしない。中身も同じはずなのに、どうしても試してみたくなる。
『僅かな分量の差で効果が劇的に変わる可能性』
自分の言葉が心に響く。掌に少量を吹き掛けて首筋と手首に擦り付けた。
その六分後、僕は駅のホームで電車を待っていた。運よくというのか。先頭に立つと急に後ろが賑やかになる。さりげなく振り返ると学生服を着た男子の集団が視界に入った。
学生の帰宅ラッシュの時間を迎えたようだった。
程なくしてホームに電車が滑り込む。窓から見える車内では多くの人が立っていた。かなりの混雑が予想できる。
電車は停まり、ドアが左右に開いた。車内が見えた瞬間、僕は逃げ出したい気分に駆られた。降りる人がいないこともあって、即座に後ろから押された。
踏ん張ることもできず、車内に取り込まれた。目が避難場所を必死になって探すが見当たらない。どこを見ても女性がいた。座っている大半が女性もあって酷い眩暈に襲われた。
無慈悲な電車はゆっくりと走り出す。早くこの車両から移らないといけない。香水の効果を試す気持ちはとうに失せた。
僕の側にいた二十代くらいの女性がこちらを見ている。引けた腰で太腿を擦り合わせて、したい、と喘ぐ声で囁いた。
「ご、ごめんなさい。急いでいるので」
女性の声を振り切って歩き出す。行く先々で女性に呼び止められた。
「キスして」
「むちゃくちゃにして」
「指でもいいから」
その度に謝って先を急いだ。立っている女性に気を付けていると、横から手が伸びてきた。座っていた女性まで様子がおかしい。
僕の肩や手を握ろうとするので、慌てて振り払って逃げた。
ここは地獄に等しい。女性の亡者がドロドロとした世界に引き込もうとする。逃げなければ僕の初めてが奪われる。
もがくようにして突き進むと天国の扉が見えた。ノブを掴んで勢いよく開き、新天地へ踏み込んだ。
そこも地獄だった。
身なりと顔で小学生に思えた。一目で数え切れない人数がいて、そこに数人の大人が混ざる。全員が女性で引率した先生のようだった。
戻るという選択肢はない。ここを突っ切って次の車両を目指さないといけない。
その思いを挫くように数人の女の子がこちらを見た。恥じらうような顔でモジモジする。
ここは餓鬼道という地獄であった。




