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第44話 長い一日(3)

 ルアーを投げてはリールを巻く。アタリが一向に来ない。少し場所を移動して試してみる。

「……ダメみたい」

 ルアーを取り替える為にクーラーボックスまで戻る。側に置いてあったルアーボックスの中から小さなエビを選び、使っていたカエルを戻した。

 元の場所に戻る前にふたが開いたクーラーボックスを覗き込む。湖の水を半分ほど入れたところに五匹の魚が収まっていた。全て綾芽が釣り上げたものだった。

 気合を入れ直して釣りを再開する。費やした時間のおかげでルアーの飛距離は伸びた。ほぼ狙ったポイントへ投げ込むこともできる。

 問題があるとすれば竿の動きになるのだろう。今の疑似餌はエビなので、少し沈ませて大きく引っ張った。何度もやっていると引っ掛かるような手応えを感じた。

 急いでリールを巻いて引き上げると魚は食い付いていなかった。完全なアタリではなかったらしい。

 残念な気持ちを上回る喜びが、じわじわと染み出す。初めてと言っていいアタリにやる気がみなぎる。


 湖の向こうに見える山の稜線に太陽が潜り込もうとしていた。

 綾芽が僕のところにやってきて、帰るぞ、と一声かけてきた。

「わかりました」

 二人でクーラーボックスのところにいくと、中身が増えていた。

「今日の釣果はなかなかだ。坊やは外道をリリースしているので丸坊主ではない。自信を持て」

「はい、そうですね」

 釣り用語が挟まっていても励まされていることはわかる。

「クーラーボックスは僕が持ちます」

「重くないか?」

「小柄でも一応は男なので」

 綾芽は目を細めて、そうか、と言うとルアーボックスと縮めた二本の釣竿を持って来た道を引き返していった。

 三角屋根の家に着くと田島がデッキに控えていた。

「お帰りなさいませ」

「これを適当に調理してくれ」

「わかりました。お任せください」

 田島はクーラーボックスを受け取った。他の釣り道具を持って軽い足取りでガラス戸から中へ入っていった。

「私はシャワーを浴びて着替える。坊やはどうする?」

「僕は特に汗を掻いていないので、このままで」

 帰りの新幹線を考えると、現状維持に努めた方が良いように思った。

「遠慮はしなくていいんだぞ?」

「わかりました。気が変わった時は使わせて貰います」

 納得した綾芽は歩きながら伸びをした。その終わりの声が妙に色っぽくて、僕は家を背にした状態で白い椅子に座った。

 テーブルの中央にランタンのような物が置かれていた。暗くなった時に使用するのだろうか。周りを見ると縦に長いスタンドがあった。上部の台には大きなランプが置かれていた。

 雰囲気の変化を期待して、そわそわしながらその時を待った。


 辺りは薄闇のベールに包まれた。テーブルの中央にあるランタンが温かみのある色で僕達を照らす。スタンドのランプは強い光を放ち、邪魔な羽虫を引き寄せた。

 テーブルには数々の料理が並ぶ。調理した田島から簡単な説明を受けた。

 大きなヘラブナは薄く切られ、湯に潜らせた状態で氷水に浸して洗いとなった。薄い桜色の身を活かし、バラの形に盛り付けられた。それだけでなく、唐揚げにもなった。小骨が多いのでハモ切りにして食べ易く加工してあると言う。

 ニジマスは置かれただけで香る。香草焼きで出てきた。

 銀色のヒメマスは小さいこともあって開いた状態でフライとなった。

 他にはサクラマスの煮付け等、多くの魚料理で占められた。

「おひつには四合のご飯があります。おかわりの際にはお申し付けください」

「至れり尽くせりで、田島さん、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございました。綾芽様の楽し気な姿を、また見られたこと、望外の喜びと感じております」

 綾芽を見る目が優しくなり、どこか潤んでいるようにも見えた。

「田島、大仰が過ぎる。坊、菅原君を困らせるな」

「あ、僕は何も。感謝しかありません」

「それはいいから食べるぞ」

 照れ隠しのように綾芽は強い言葉で言った。

 下した髪が邪魔になるのか。食べながら耳に掛け直す。少し胸の開いたブラウスは似合っていた。ただ、昼間とのギャップで少し意識してしまった。

 魚料理はどれも美味しく、ランタンの明かりはどこまでも温かい。優しく心を解し、口から本音が零れた。

「キャンプ場に来ているみたいで楽しいです」

「料理は美味いし、空気も抜群だ。ここは本当に良いところだ」

「そうですね。全て綾芽さんのおかげです。ありがとうございます」

「私は君との出会いに感謝する」

 綾芽は箸で摘まんだフライを齧る。女帝の威厳はなくなり、そこにはただの魅力的な女性がいた。


 その後、僕達は壮絶な嵐に巻き込まれた。

「田島、急げ!」

 SUV車は黒い弾丸と化した。限界の速度で曲がるので後輪がツルツル滑る。

「最終が出るぞ!」

「お任せください! 間に合わせてみせます!」

 綾芽と田島は怒鳴るような会話を繰り返す。僕は座席で命の危機を感じながら耐えた。

 新幹線の駅に着いた。

「走るぞ!」

「はい、田島さん、ありがとう!」

 僕まで怒鳴っていた。

 事前に券を買っていたこともあり、素早く改札を抜けられた。ホームには新幹線が来ていて、発車を告げる音を聞きながら飛び乗った。

「……間にあった」

 力が抜けるような声が出た。

 車中ではまたしても眠りこけた。綾芽に起こされてホームへと降りる。その時点で夜の十一時半を過ぎていた。

 改札を抜けると綾芽は、すまない、と言って軽く頭を下げた。

「急にどうしたのですか?」

「一日デートだから家には送れない。だからここで解散だ。今日は楽しかったぞ」

「あ、はい。お疲れさまでした」

 見送った僕は閑散とした駅の構内で立ち尽くす。

 最終電車には間に合わない。乗れたとしても途中まで。タクシーを使える程のお金もない。どうやって家に帰ればいいのだろう。


 僕の長い一日は、まだ終わりそうになかった。

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