第39話 美知が可愛い(1)
日曜日の大学のキャンパスは極端に人が少ない。ベンチに座っていると倒産寸前のテーマパークにいるような気分になった。
十五分くらい待った。美知の姿は見えない。約束の時間にあと五分。間に合うのだろうか。
のんびりとした調子で鳩が鳴く。記念樹であるクスノキに目を向ける。本体がどこにいるのかわからない。それでも鳴き声は聞こえてくる。意味はないと知りながらも目で探した。
約束の時間を超えた。三十分の遅刻は少し不安になる。何かあったのだろうか。ルチルが抱えているような家庭の事情。撫子や要のような個人的な背景が次々と頭に浮かんだ。
待つ時間に比例して考えることが増える。胸騒ぎがして立ち上がった。正門からくるとは限らない。後ろの方や左手にも目をやった。
正門の方から人が歩いてくる。強風に吹かれているかのようにふらふらと揺れて、とても儚く見えた。
花粉症のピークは過ぎた。それだけに顔の半分以上を覆うマスクは異様に思える。原色に近いピンクのコートは美知らしさを残していた。
「城山さん?」
栗色のソバージュはそう多くない。潤んだ瞳はどこも見ていないような感じだった。当たりそうになったので僕は両肩を掴んで止めた。
「遅れて、ごめん」
「どうしたの、その声!?」
完全に潤いを失った声はひび割れていた。目が無理に笑おうとして、濁音が混じる咳をした。
僕は自分の額に手を当てた。掌に平熱を覚えさせて美知の額に触れる。
「凄い熱じゃないか。こんな状態で出歩いたらダメだよ。すぐに帰ろう」
「待って。デートが」
最後まで言葉にできない。一回の咳は多くの咳を呼び込んだ。苦しそうに細めた目から涙が流れる。寄り添うことしかできない僕はスマホを取り出した。
「救急車を呼ぼう」
「やめて」
「どうして!」
「こんな姿、見られたく、ない」
美知は顔を背けて小声で言った。
いつもとは違う弱々しい姿に心が奮い立つ。大胆と思う前に肩を貸した。
「家はどこ? 送っていくから」
「……あっち」
美知は恥ずかしそうに東門の方向を指さした。古いアパートが多くある地域で学生達で賑わう。派手な普段着とは少し印象が変わる。
見た目と違って美知は苦学生なのかもしれない。
「わかった」
僕は急がせない歩幅を心掛けた。マスク越しに荒い息が聞こえてきたので少し速度を落とす。
「ごめん」
「仕方ないよ。風邪なんだし」
身体を密着させた状態で歩いていて気付いた。美知の具合が悪いのはわかるが、不機嫌にはなっていなかった。風邪の影響で鼻が詰まっているおかげなのだろうか。
「気分はどう?」
「なんとか、平気」
喋る度に目が痛そうに歪む。僕は歩くことに専念した。
何十分、掛かったのだろう。ようやく東門を抜けた。
美知は自由になる手で方向を示す。その指示に従って細い道をゆく。
「あそこ」
美知が指さした。アパートではなかった。小さなビルとマンションに挟まれた平屋だった。門扉は開きっ放しになっていて門柱には『城山』と金属製の表札があった。僕と同じで実家暮らしなのだろう。
手前に三段の階段があるので注意して上がった。
「鍵は?」
「掛けてないかも」
ドアノブを掴んで引っ張るとドアが開いた。美知は自ら離れて玄関ホールにペタンと座り込んだ。ショートブーツを踏ん付けるようにして脱ぐと仰向けに倒れた。
「大丈夫?」
「もう、動けない」
「でも、こんなところに寝ると具合が悪くなるよ。家族の人を呼ぶね」
急いでシューズを脱いだ。そんな僕を引き留めるように美知が言う。
「いないよ。ここには、わたしだけ」
「え、そうなの?」
美知は潤んだ目で笑うと両手を差し出した。その姿で、おんぶぅ、と子供っぽくせがむ。
「体力に自信はないんだけど」
言いながら僕は美知の手を握り、引っ張り起こした。中腰で背中を見せるとガバッという感じで覆い被さってきた。とにかく胸の圧が凄い。コートを着ていてもはっきりとわかる。
「あっち」
二手に分かれていた一方を指さす。
中に入ると洋風のテーブルとイスが目に留まる。奥の壁際に本格的なシステムキッチンがあって、フライパンなどの調理器具が吊るされていた。ちゃんと自炊をしているようだった。
「あそこ」
右方向にあるドアに向けて歩き出す。
室内はそこそこ広い。正面の机にはデスクトップのパソコンが置かれていた。左の隅には窓があり、寄り添うように大きなベッドがあった。羽毛布団は半分くらいずれ落ちていた。シーツには暴れたような皺が見て取れる。
「あんまり、見ないで」
「ごめん。下すよ」
「うん」
ベッドメイキングなんて大層なものではないけれど、手でシーツの皺を伸ばした。羽毛布団は両手で掲げて全体を整える。
「着替える」
そう言うと億劫そうにコートを脱いだ。クローゼットの中に仕舞うと、代わりに折り畳んだパジャマを取り出してベッドの縁に置いた。
「あの、僕は出た方が」
「そこに、いて」
美知は両肩を出した赤いドレスの背中に手を回す。ジッパーを下ろすとパサリと足元に落ちた。
下着だけの姿となった。フロントホックのようで両手を胸に持っていく。僕は目を閉じた。着替える微かな音にドキドキしながら、その場に立っていた。
「もう、いいよ」
薄目を開けると美知は桃色のパジャマ姿になっていた。
「騙したり、しないよ」
目で笑うと美知は枕をポンポンと叩いて横になった。羽毛布団を僕が掛けると、帰らないでね、と掠れた声で言った。
「帰らないよ。それより、喉は乾かない?」
「乾いた、かも」
「何か持ってくるよ。風邪の時は小まめに水分補給をしないといけないからね」
思いもしないデートの始まりとなった。




