第36話 信じられない(1)
眠気に耐えながら一限目の講義を終えた。約束の時間が迫っていることもあって急いで講義室を出た。
のんびりと歩く者達を突っ切り、正門にいくと一人の男性が歩道に立っていた。仕立ての良いスーツを着ていて、その後ろには白くて大きな車が停まっていた。
男性は僕がくるのを待って、絶妙なタイミングで深々と頭を下げた。
「菅原様、お迎えに上がりました。どうぞ、お乗りください」
「あ、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
男性は自らの手で後部のドアを開けた。
僕は身を屈めて中に入る。車内は広く、柔らかい座席が背中を包み込む。シートベルトを装着すると滑らかに走り出した。
「不躾なお願いになりますが、こちらの諸事情により、これをお付けください」
アイマスクを渡された。綾芽の事務所で見た時の怖さは微塵もなく、笑顔で受け取ると速やかに装着した。
柔らかい座席に心地よい振動。一限目の眠気が舞い戻り、浅い眠りの中に意識が溶けていった。
車が停まる僅かな振動と、菅原様、到着しました、と言う声で目を覚ます。アイマスクを外した直後、さりげなく口元を手の甲で拭う。幸いなことに涎は出ていなかった。
先に降りた男性がドアを開けてくれた。このような待遇に慣れていない僕は気恥ずかしい気持ちで頭を下げた。
ここはどこなのだろう。キメの細かい砂を固めたような道に車が停まっていた。道幅は狭く、両側には剪定された木々が植えられていた。奥の方には可憐な草花が垣間見える。すでに敷地の中なのだろうか。
「菅原様、こちらになります」
男性に付いていくと道は二手に分かれていた。左に曲がった先には生垣があった。僕の背丈を超える高さで屋根瓦が僅かに覗いている。
「あと少しで別邸に着きます」
生垣の一部が切れていて中に細い道があった。男性の後ろに付いて進むと直角に曲がる。
「到着しました」
男性の言葉通り、漆喰の壁に収まった木目の美しい引き戸が現れた。中央の上の辺りに家紋を模したような鉄製のドアノッカーがあり、男性はきっちり四回、同じ調子で鳴らした。
引き戸が開いた。中から純白のワンピースを着たルチルが現れた。清楚なイメージに合わせて素顔だった。一瞬、目が合うとはにかむように笑った。
「お嬢様、菅原様をお連れ致しました」
「わかった。下がっていい」
「承知しました。業務に戻ります」
一礼して踵を返し、男性は来た道を戻っていった。
「驚いたと思うが、まずは中に」
「お邪魔します」
遠慮がちに言って中へと入る。
日本家屋の外観からは想像できなかった。見渡す限り、光沢のある畳が張り巡らされていてかなり広い。
「驚いたみたいだな。ここで技を磨いていたんだ」
ルチルは引き戸を閉めてサンダルを脱いだ。中央まで走って側転に近い状態で倒れ込み、回転の速度を利用して起き上がる。
素人目で見ても動きに切れを感じた。あと翻ったスカートの中は水色で、愛らしく可憐であった。
「ま、今後はあまり使わないと思うが」
「大学の柔道部で汗を流すなら、そうかもしれないね」
「今の私はサークルだけで、柔道はやめたんだ」
「ええ、こんな柔道場まであるのに!?」
「その話は地下でしよう」
ルチルは一方へ歩き出した。壁際に置かれた本棚の真横に立つ。
一度、僕の方を見て笑うと側面に手を当てる。力を加えると簡単に横へ動いた。
「忍者屋敷?」
思いもしないエレベーターの出現に子供っぽい感想になった。
「そうなると現代版だな」
二人で乗り込み、地下へと降りる。僕は壁際に張り付いてルチルと距離を取る。
「なんだよ、それ。忍者のつもりか?」
笑いを含んだ声の数秒後、軽やかな音が到着を告げた。
降りた先は細長い直線の通路になっていた。丸みのある天井から等間隔で吊り下げられたレトロ調のランプが程よい光源となり、敷き詰められた赤い絨毯を重厚に見せている。
ドアは右側に集中した。通路の突き当りの豆粒大の扉を入れると六部屋になる。
「なんか、秘密結社みたいなところだね」
「囚われの身になった気分はどうだ?」
ルチルは清純な仮面を脱ぎ捨てた。片方の頬を盛り上げて歪な笑みを浮かべた。
「悪の組織?」
「んなわけねぇだろ。私はれっきとしたお嬢様だぞ」
平手で背中を叩かれた。その箇所が熱く、ジンジンと痺れる。
「ドアの中が気になるなら見せてやるよ」
「心臓に悪いよ」
「軽い冗談と思って流せよ。まずはこのドアからな」
綾芽の例があるので本気にした。冷や汗を掻くほどではなかったので、体質の影響は心配しなくていいだろう。
ドアの先は喫茶店の一部を切り取ったような作りになっていた。作りが細かく、テーブル席にはメニュー表まで置かれていた。飾られた観葉植物の葉を触ってみる。プラスチックではなくて本物のようだった。
「喫茶店みたいな部屋だね」
「喫茶店に慣れるために作らせた。私は生粋のお嬢様だからな。次の部屋に行くぞ」
話を聞いても信じられない。規模が桁違いで、そのような発想さえ僕は持ち合わせていなかった。
次の部屋はカラオケルームそのまま。実際に歌えるとあって、ルチルは自慢の歌声を披露した。僕はソファーに座って呆然としながらもタンバリンを鳴らす。
「今度はここだ」
オフィスの一室のようなところで高そうな机やパソコンが置いてある。高層階を想定しているようで窓の先に霞むような都心が見えた。とてもリアルで複数のジオラマ職人の手で三年を要したという。
途轍もない話に眩暈を覚える。掛かった費用はさすがに聞けなかった。
キングサイズを凌駕するベッドルーム、大衆向きの居酒屋、と見てきて溜め息が漏れた。
「人生の縮図を見ているみたいだよ」
「備えあれば憂いなしだ」
「ここまでする人はいないよ」
二回目の平手を背中に受けて最後の扉の前に立った。
「ここが私の部屋だ。先に言っておくが、笑うなよ」
「どんな部屋でも驚かないよ。今までの部屋で耐性がついたというか」
「じゃあ、開けるぞ」
最後の扉がルチルの手によって開かれた。




