第31話 艶やかな唇
講義の終わる時間に意識が傾く。講師が口にする内容が、だんだんと頭に入らなくなる。
この後の予定ではカフェを利用するつもりだった。現状は大きく変わった。あの二人が妖艶な笑みで待ち構えているような気がしてならない。そう思わせて食堂にいることも大いにあり得る。関わるとロクなことがないので、できれば穏便に回避したい。
今日は二限目しか取っていない。いっそのこと、逃げ出してしまえばいいのでは、と思って自ら否定した。そうなると二人が家に押しかけてくる可能性が濃厚となる。
考えが纏まる前に講義が終わってしまった。
「菅原さん、このあとの予定はありますか」
優しい声が慈雨のように僕に降り注ぐ。縋るような目を横手にやると、撫子が聖母の微笑みを浮かべていた。
「ありませんが、同じ講義だったんですね」
「私も知りませんでした。前の方に座っていた菅原さんを見つけて、つい声を掛けてしまいました。話が脱線しました。予定がなければランチを一緒にどうですか?」
「嬉しいです。是非、付き合わせてください」
勢いで口にして、すぐに言い淀む。
「あの、カフェと食堂はちょっと」
「もっといいところがあります」
撫子はにっこり笑った。
僕達は正門と真逆にある北門から出た。駐車場の脇を抜けて住宅街に入る。
中は細い道が多くて入り組んでいた。通い慣れているのだろう。撫子は迷いのない足取りで、こちらです、と分岐点の度に曲がる方向を指さした。
民家に紛れた角地に店があった。赤い暖簾には『ガツ盛り飯店』と白抜きされた文字が荒々しい。引き戸のガラス部分から中を見るとカウンター席だけで、多くの若者が背中を向けた姿で食べている。
「早く入りましょう。席がなくなります」
「わかりました」
空いている隣り合った席に僕達は座った。
見える範囲にメニュー表は置かれていない。撫子は何も見ない状態で、鶏から定食を注文した。ご飯は大盛と付け加えた。痩せの大食いという言葉が頭に浮かぶ。
「ここのメニューは壁にありますよ」
「あれ、ですね」
壁の一面にずらりと並ぶ。学食を見慣れた僕から見ても、その価格はかなり安いと感じた。麺類、スープ類、揚げ物と種類ごとに分けられていても、その数の多さと膨大な組み合わせのせいで簡単に決められない。
その様子に気付いた撫子は肩を寄せて言った。
「麻婆定食が私の一押しです」
「そうなんですか。じゃあ、それにします」
教えられた定食を注文した。待つこと、五分程度で撫子の鶏から定食がカウンターに並べられていく。
メインの鶏のから揚げは山盛りで上からタレが掛けられていた。添えたキャベツの千切りの量も多い。それを圧倒するのが盛られたご飯だった。どんぶりに入らない量なのだろう。大皿にこんもりとした山を作っていた。添えられた中華スープと漬物がママゴトに使う玩具に見えた。
「凄い量ですね」
「これで六百円なんですよ」
食べ盛りの子供のような笑顔となった。心の中で、可愛いな、と思ったことが表情に出たのだろうか。
撫子は真剣な顔で言った。
「今回は夜の分を兼ねていますから。三食の時もこれと同じと思わないように」
「そうなんですか。てっきりこの量を普通に食べるのかなって」
「違いますからね。そんな大食いをしたら体重が大変なことになります」
言いながら手前に置かれた長細い箱を開ける。プラスチックの箸を取り出し、食べ始めた。
唇を艶やかに光らせて、美味しい、と力が抜けたような声を漏らす。
少し遅れて麻婆定食がカウンターに並ぶ。皿の縁から溢れそうな程の麻婆豆腐に目を見張る。卵スープと漬物がセットになっていた。チャーハンはご飯の代わりなのだろうか。じっと見ていると撫子が艶やかな唇を寄せてきた。
「チャーハンは薄味ですが、旨味があって美味しいですよ。半分くらい食べたあとに麻婆豆腐を掛けて餡かけにするのが定番の食べ方です」
「詳しいですね」
「お財布に優しいお店なので気に入っています」
徹底した質素倹約は全て将来の手術費用に繋がっているのだろう。その健気さに胸が熱くなり、思いもしない行動に出た。
添えられたレンゲで麻婆豆腐を掬い、そこにチャーハンを加えた。
「食べますか?」
言ってから気付いた。かなり恥ずかしいことをしている。撫子は濡れたような唇を寄せて、いただきます、とレンゲを口に含んだ。僕は動揺する手で上に引き上げるようにした。
「程よい辛さにチャーハンのゴマの風味が合わさって、とても美味しいです」
「それは、よかった。僕も、食べます」
レンゲを見た途端、顔の火照りを感じた。
「あの、お店の人に言って新しい物に変えて貰いますか?」
「あ、そういう意味じゃないです」
レンゲをチャーハンに差し込んだ。盛った状態で一気に口に入れる。僅かに残っていた餡の味と混ざって鮮烈な香りに包まれた。
「本当に美味しいです。連れてきてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ、本当にありがとう。木下君がサークルに戻ってくれてとても助かっています。それと、ある会社から資金提供があって、最新のツールが使えるようになりました。まだ先になりますが、大型アップデートを考えています」
「泉さんの苦労が報われて、僕も嬉しいです」
電脳世界の噂を聞き付けた会社が、将来性を見込んで資金を出したとしてもおかしくはない。そちらの方面にあまり詳しくなくても、あの世界はよくできていると思う。僕のような体質でも問題なく、コミュニケーションツールとして使えるところが素晴らしい。
「その会社は『愛クリーン株式会社』と言います」
「そ、その名前は……」
「私は知らないのですが、やはり菅原さんと関係のある会社なのですか?」
「まあ、そうですね」
「重ね重ね、ありがとうございました」
話を終えた撫子は美味しそうに、から揚げを食べた。
こちらは内心、穏やかではない。隆志の姉、綾芽が代表を務める会社だった。
大きな借りとなって、今後、どのような災難が降り掛かるのだろう。
そこそこ辛い麻婆豆腐を食べながら身体が小刻みに震えた。




