第20話 姉という存在
三限目を終えた僕は急いで正門へ向かう。
壁に背中を預けた姿で撫子が立っていた。俯いた顔が少し寂しそうに見えて、声を掛けるタイミングが遅れた。
先に気付いた撫子は聖母の笑顔を僕に向けた。
「急にメールを送ってごめんなさい」
「運営からのメールなのでびっくりしましたけど、迷惑ではありません。それでどのような話なのでしょうか」
「場所を変えてもいいですか?」
「他の人に聞かれたくない話なら、移動しましょう」
「助かります。電脳世界で気軽に話せる内容でもないと思いまして。ご足労をお掛けしますが、どうか、お付き合いください」
いつも以上に丁寧な口調と、ほんの少しの声の震えが話の内容の重さを物語る。
「わかりました」
「ありがとうございます」
撫子が先に歩き出す。僕は少し遅れて横へ並んだ。
喫茶店の前を通り過ぎた。学生達がよく使う場所なので、あの、と言い掛けた言葉を呑み込んだ。
僕が知らない静かな店が他にあるのだろう。
目抜き通りを歩いていくと脇道に入った。店の類いは無くなり、民家が多くなってきた。乗り捨てられたような三輪車が道の真ん中に置かれていたので、端の方に寄せておいた。
前方に古そうなアパートが見えてきた。波打つトタン屋根の端が腐食して赤錆が浮いているようだった。
いつの建築なのだろう。昭和という時代が置き忘れたような感じがした。
「ここです」
「ここ、ですか」
撫子は恥ずかしそうに笑うとアパートの二階へ続く階段を上がった。そこにも腐食の跡が見られ、怖々と付いていった。抜け落ちることなく、二階に着いた。最初のドアの前で撫子が止まり、ドアノブの鍵穴に鍵を差し込んだ。カチャと音がしてドアを開くと、また恥ずかしそうな顔で、どうぞ、と控え目な声で言った。
「……お邪魔します」
撫子の口調が移ったかのように小声となった。
僕は絶句した。部屋の中に玄関があった。境目にあるはずのドアは存在しなかった。床はフローリングではなく、擦り切れたような畳で、とうに緑を失って干し草のような色をしていた。
奥行きは見た感じで五歩くらいだろう。それくらいで壁に行き着く。左手にある唯一の窓のおかげで穴蔵のような暗さはなかった。
一目で狭い部屋とわかる。勉強机や家具の類いがなくても狭いと感じる。部屋の隅には文机があって、場違いな程、重厚なデスクトップがどんと置かれていた。
「狭いところですが、座布団くらいはありますので。あとこんなアパートでも壁は結構、厚い作りになっています」
「秘密基地みたいでいいじゃないですか」
「男の子らしい発想ですね」
撫子は自然な笑みを見せた。部屋の隅に積まれた座布団を取りにいく。
僕は改めて部屋全体を眺めた。トイレと風呂は共同なのだろうか。冷蔵庫がない家を初めて見た。コンロがないので調理自体できないのかもしれない。
「なにもない部屋ですよね」
「あ、いや、そんなことは」
「家賃が一万八千円なので、私としてはとても助かっています」
「え、そんなに安いの!?」
思わず、友達に話し掛けるような喋り方になってしまった。
「すみません。びっくりして素になりました」
「いいですよ。私もこのアパートを見つけた時は『マジで!?』と大家さんの前で失言しましたから」
「想像すると、なんか、笑えますね」
聖母の口から出る言葉ではない。想像すると本当に笑いが込み上げてきた。
落ち着いたところで用意された座布団に座った。向かい合う形となった。
僕は聞き役に徹して撫子の言葉を待つ。相手にもその意思が伝わったようで表情を引き締めた。
「これは昨夜の話になります。電脳世界に不正な方法でアクセスしようとした人物がいました」
聞いた瞬間、奇妙な青いアバターが頭に浮かんだ。見た時と同じように明滅を繰り返す。
「実はその時、僕は電脳世界にいました。青いアバターではないですか?」
「そうです。海外のサーバーを幾つも経由していて、誰の仕業なのかまではわかりませんでした、ですが」
言い淀むように口を閉ざす。一度、目を伏せた。数秒で決心がついたのか。僕の目をしっかりと見て、続きを話し始めた。
「この電脳世界のプログラムは私と彼がメインで作ったものです。今回の不正アクセスは、たぶん彼なのでしょう。不思議なのは急にしてきたことです」
「……それは僕のせいだと思います」
「あの時のビルのことで怒っているのなら、私のせいです」
撫子は身を乗り出すようにして言った。
それもあるかもしれないと考えるのは卑怯というものだろう。
「どのように説明したらいいのか。彼とはキャンパスの食堂で偶然ですが、出会いました。隣にはお付き合いをしているのかな。女性がいまして」
「そう、なんですか。彼には彼女が。初めて知りました」
撫子は声を落とした。この後の話をしてもいいのだろうか。迷いながらも口を開いた。
「その彼女が急におかしくなって、僕に迫ってきました」
さすがに核心部分は隠した。荒唐無稽が過ぎると思う。香水の原理もわからないので説明は困難を極めるだろう。
「食堂には大勢の学生がいるのでは?」
「ほぼ満員状態で、その、女性が自ら胸を見せたり。それで彼は怒ったのですけど、その女性に平手打ちを受けて。短小とか、皮かぶりとか。あと早漏とも言われて」
「それはちょっと言い過ぎなのでは」
声が微かに震えていた。怒りのせいなのだろう。目尻が少し上がって見えた。
「その原因が僕にあるので、素性を確かめるために不正アクセスに及んだのかと思うのですが」
「それでも不正行為に違いはありません。彼女の件は少し気の毒には思います。でも、これは不味い展開かもしれません」
撫子は声を低くして言った。
「彼には、なにかあるのですか?」
「彼自体は無害なのですが、姉が、少し。反社の関係者という話があります。確かめたことはありませんが」
反社会的勢力と聞いて全身に震えがきた。
「……組関係でしょうか?」
「それはわかりません。ごめんなさい」
狭い部屋に二人っきり。冷や汗を掻きながら間近で話し込んでいる。
撫子の態度は一向に変わらない。そのことに気付いてはいても、もうそんなことはどうでもいい状態になっていた。
僕に明日はくるのだろうか。




