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第19話 暗雲

 翌朝、予想した通りの状態となった。自室のベッドで目覚めた僕は喉の痛みを感じる。ライターの小さな火で炙られている感覚に近い。おまけに口の中はカラカラで唾を呑み込むことができない。唾液は全身の汗に回されたようで、パジャマはぐしょぐしょに濡れていた。

 心なしか意識もぼんやりする。典型的な風邪の症状だった。

 昨日、全身を雨に打たれた。香水の効果を打ち消したあと、用意していた折り畳み傘を使った。ずぶ濡れのあとの行動なのでなんの意味もなかった。

 この姿では電車も使えない。いつもの土手の道を震えながら帰った。帰宅後はすぐに熱いシャワーを浴びたが、紫色に変色した唇は簡単には元に戻らなかった。

 目を開けていると天井が小波のように動いて見える。瞼を閉じると今度は薄闇が右回転でゆっくり渦を巻いて気分が悪くなってきた。

 耐えられる限界で瞼を開けた。いつの間にか、不機嫌な顔をした彩音がベッド横に立っていた。お盆の上には小さな土鍋が載っていて白い湯気を上げている。

「土曜日をいいことに昼まで寝ている自堕落な兄さんの為に、嫌な思いまでして部屋へおじやを運ぶ私の気持ちがわかりますか」

「体質の、せいだから」

 ひび割れた声を出し、意識して頬を盛り上げた。ちゃんと笑えているだろうか。

「いつまでも体質が免罪符になると思ったら大間違いです。あまりに腹立たしいのでこのまま土鍋を傾けて直に口の中に注いであげましょうか」

 冷ややかな目が近づいた。持っていた土鍋の湯気が鼻先に当たり、身の危険を感じた。

「そ、そんな、食べ方、ないから」

「たった今、私が開発しました。スプーンを使わないことで洗い物を減らします。兄さんの尊い犠牲はエコ活動の鏡です。それでは熱湯に近いおじやを一気に飲み干してください」

「いや、や、やめて。飲み物じゃ、ないから」

 彩音の動きが止まった。こちらを観察するような目となり、お盆を掛け布団の上に置いた。

「愛らしい妹による軽いジョークです」

「ブラック、ジョークだよね?」

 僕は言いながら上体を起こす。節々に鈍い痛みが起きて、また余計な汗を掻いてしまった。彩音は慣れたように口と鼻を手で押さえて、おしぼりをリレーのバトンのように手渡した。

「兄さん、パジャマを脱いで身体を拭いてください。かなり嫌なのですが、脱いだ物は私が責任をもって洗濯機に放り込んでおきます」

「ありがとう」

「一生の恩を受けたと思ってください」

 目だけで笑った彩音はきびきびした動きで着替えのパジャマを用意した。ベッドから離れた窓際に置いたところに微かな悪意を感じる。迷いながらも礼をいうと、にっこり笑って部屋を出ていった。

 また汗が出るだろうと思い、まずは熱々のおじやを食べることにした。


 深い眠りに落ちていたようで目覚めると部屋は暗くなっていた。首の辺りに掌を当てると汗は出ていなかった。喉の調子も悪くない。

 心に余裕が生まれた途端、スマホとノートパソコンが気になる。手近にあったスマホを見るとアプリのメッセージが『6』と表示されていた。

 最初に表示されたものは響輝でリーゼント頭のスタンプが添えられていた。


『拓光は知らないと思うけど、俺って最近、オタ系サークルに入ったんだよ。そこの電脳世界がナンパの宝庫でさ。よかったら拓光もどうよ? 電脳の箱庭な』


 今更な内容に苦笑した。僕が現場にいたことには、まるで気付いていなかった。

 残りは全て要で要約すると、どうしたー、となる。あとになるに連れて言葉の過激さが増してゆく。


『今日、大学はどうした?』

『無視すんなよ』

『どこにいんだよ!』

『アンクルホールドを決めるぞ!』

『こらー、応答しろー! 襲うぞ!』


 何か返さないと大変なことになりそうな予感がして、両手を合わせたスタンプのあとにメッセージを入れた。


『ごめん。風邪を引いて休んでいた。今、起きたばかりで体調は悪くないよ』


 一分と経たずに要のメッセージが届いた。親指を立てたスタンプを目にして、ひとまず危険を回避できたことに安堵あんどした。


『それなら、まあ、いいか。また明日な。電脳世界でもいいけど』


 机上のノートパソコンに目がいく。今日の出来事を撫子に伝えた方がいいのだろうか。あのベンチにいるとは限らなくても試す価値はあるように思えた。メールは一方通行となっていた。電脳世界でコミュニケーションを取るのがメインとなるので当然の仕様と言えた。

 僕はパジャマの上からジャージを着て、電脳世界へと誘うログインを果たした。


 前回の続きを選ぶとベンチのところから始まった。ピンクのアバターは座っていなかった。適当にうろつくとしても、どちらに行けばいいのだろう。

 まだ足を運んでいない学生寮を目指してみることにした。要がいるかもしれない。

 研究棟の横を通り抜けたところで青いアバターを止めた。前の方に光を見つけた。そろそろと近づくとアバターのようだった。

 状態が普通ではなかった。全身の形を保てない様子で明滅を繰り返す。さらに近づくと相手の吹き出しが現れた。文字化けを起こしていて名前がわからない。会話文も同じようなもので『おまえ』の字だけは読み取れて、存在自体を拒絶されたように消失した。

 不吉な予感がして、僕は早々に電脳世界から離れた。

 ジャージを脱いでベッドに戻る。目を閉じると間もなく、安らかな気持ちで意識が遠のいていった。

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