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第18話 食堂の痴女

 二限目が終わった。机に出していた教材を手早くリュックに収めて背負い、僕は大講義室を飛び出した。学生の数が多いこともあって何人か先に行かれた。

 廊下を走り、左手の階段を駆け下りる。急いではいても汗を掻かないように全力の少し手前で抑えた。

 廊下の突き当りにある食堂が見えてきた。ドアは開いたままになっていて、近くに設置された券売機には早々早々(はやばや)と学生の列ができていた。

 走る速度を落とした。速足で店内に入ると賑やかな声に包まれる。

 見ると七割くらいの席がすでに埋まっていた。屋外に直接、出られるドアはぴったりと閉められ、大粒の雨が当たって滲んだ水彩画のようになっていた。

 食堂内はそこそこの広さがある。いつもと違って全ての窓やドアが閉じられていた。体質のことを考えれば、のんびりと食べてはいられない。

 僕は券売機で手早く食べられる親子どんぶりを選んだ。食べる場所は窓側の隅の席。相席であっても人がいない。座って初めて理由がわかった。

 窓に近い右腕に冷気のようなものを感じる。三メートルくらい先には屋外へ出るドアがあるので、それも原因の一つになっているのだろう。人払いの役には立っているので僕にとっては大いに助かる。

 食べ始めて間もなく、手前の席に男女の二人組が座った。それとなく上目遣いで見るとカジュアルスーツを着た男性が蔑むような笑みを浮かべた。

「前にビルで会ったよな」

「そうですね」

「ねえ、なんの話?」

 男性の隣にいた女性が小声で言った。無視した形で話を続ける。

「あの冷血女はいないんだな。おまえも、あれか。利用されて捨てられた口か」

「僕の知り合いにそのような人はいません」

 サークルの代表、撫子のことを言っているのだろう。わかっていながらしらを切った。身勝手な相手の言い分に少し腹が立っていた。

「とぼけるなよ。いるだろ、電脳の箱庭に。おまえも身体目的なら諦めな。もっと現実を見ろよ。やれない女より、やれる方だろ」

 男性は隣の女性の肩に腕を回し、チュニックの上から胸を鷲掴みにした。こちらに見せつけるように揉み始める。

「ちょっと待ってよ。こんなところで」

「いいだろ。いつもしてるんだし」

 身をよじる女性を強引に引き寄せて執拗しつように胸を揉みしだく。嫌がる相手を見て楽しんでいる節さえあった。

 行為を続けたまま男性はこちらに顔を突き出す。薄目はわざとだろうか。

「あんな内面ブスのどこがいいんだ?」

「……フラれたくせに」

「おい、聞こえてるぞ」

 脅すような低い声を出した。

「痛いって」

 怒りのせいで胸を揉む力が強くなったのだろう。女性は本気で嫌がっているように見えた。周囲の好奇の目にも晒されて、いたたまれない気持ちになった。

 この蛮行をやめさせる方法は一つしか思い浮かばない。実行すると周囲に迷惑を掛けるかもしれない。

 迷っていると半笑いの声が追い打ちを掛ける。

「あの女、外面が良いだけで身体は汚いんだろうな。頑として脱がないし。全身シミだらけでケツも弛んでたりして。わらえるぜ」

 悪意たっぷりの物言いで心が決まった。僕はパーカーのポケットから円筒状の瓶を取り出し、テーブルの下で少量を掌に吹き付けた。不自然にならないように困ったような顔を作り、湿った手で首筋を撫でる。

「そのような想像を僕に聞かせても意味はないと思いますよ。それに女性が可哀そうなので、そろそろ解放して欲しいのですが」

「はあ? 俺の女になにしようが勝手だろ」

「痛いって言ってんだろ、この短小が!」

 突然の身体の回転で腕を振り解き、平手を炸裂させた。男性の顔が真横を向いてイスから転げ落ちそうになる。踏ん張って、なんとか無様な転倒はまぬがれた。

 男性は怒りを隠そうとしない。赤い手が張り付いた頬で怒気をはらんだ目を女性に向けた。

「短小だって」

 笑いを含んだ声に男性は瞬時に後ろを振り返る。出所が特定できず、苛立ったように足を踏み鳴らした。

「ねえ、それよりも君に興味があるんだけど」

 女性はイスを持って僕の隣に座った。

「顔がすごく好み。一年生かな」

「そうですが、胸は大丈夫ですか」

「平気よ。なんなら確かめてみる?」

 女性は前屈みのような姿勢となり、チュニックの襟ぐりに人差し指を掛ける。引っ張ると薄青いブラに包まれた白い胸の一部が見えた。

「あの、困るのですが」

「どうして?」

「おい、美羽みわ、いい加減にしろ!」

「さっきからうるさいんだよ! 女を満足させられない短小の皮かぶりが! そうだ、早漏もあったよね」

 失礼とは思いながらも偉人の名前が頭に浮かぶ。他の者も同様のことを考えていたらしい。

「憐れな三重苦」

 その一言に周囲から笑い声が起こる。

 男性は後ろを振り返らない。怒りと羞恥で表情を歪ませて顔を真っ赤にさせた。女性は一瞥いちべつもくれず、僕に身体を寄せてくる。

「近くにトイレがあるから、続きはそこで」

「なにを、するつもりですか?」

「わかってるんでしょ」

「トイレは排泄はいせつをするところだと、思いますけど」

 俯き加減に言うと女性は艶めかしい声で笑った。

「それでいいよ。便器役は私がするから、いっぱい出してね」

 とろけるような笑みで腰を浮かし、僕の右の太腿に跨った。それだけで終わらず、挟み込むようにして緩やかに前後へ動き出す。

「なんか、興奮してきちゃった」

「……こ、困ります」

 女性の行動を直視できない僕は男性に視線を移す。

 泣き笑いの顔をぶるぶると震わせている。あまりの顔の赤さに手の跡が消えていた。気の毒を通り越して痛々しい。

 周囲から囁くような声が聞こえる。内容が聞き取れないだけに全てが悪意となって心の中で増幅されるようだった。

 耐えられなくなった男性は狂気を含んだ声で叫び、転びそうになりながら走り去った。

 邪魔者が消えたとばかりに女性は僕の手を握る。

「私達も行こうよ」

「やっぱり、トイレですか?」

「早くして。もう、これ以上、焦らされると、ここで――」

「わかりました!」

 言葉を遮って僕は立ち上がった。それに合わせて周囲がざわつく。

 女性はうっとりした目でトイレの方を眺めた。

 注意がれた一瞬を突いた。僕は窓際を走る。

 横手のドアを開けて躊躇いなく外へ駆け出した。瞬く間に全身がずぶ濡れとなって香水を洗い流す。

 あとは全力で逃げるだけ。食べ残した親子どんぶりを惜しみながらも冷たい雨に打たれた。

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