第16話 幸せと不幸せ
大観覧車の近くにある駅で待ち合わせをした。約束した時間の三十分前に着いた僕はジーパンのポケットに右手を突っ込んでいた。中に収めた円筒状の瓶を握っては離す。
ゴンドラの中は完全な密閉空間。女性と二人で乗り込み、何事もなく済むとは思えない。要のような例外はいても、代表は聖母の微笑みを湛えた純然たる女性なので比べても意味はないだろう。
その考えが正しければ体質の影響をまともに受ける。物腰柔らかい代表が豹変して罵倒してくる姿を見たくはない。ポケットの中の瓶を強く握り締めた。
香水の力を借りれば回避できる。とは言っても、また別の異常事態に見舞われることが容易に想像できた。代表が自分の胸と股間を弄る痴態が生々しく頭に浮かび、やや腰が引けた。
「早いですね」
そこへ声を掛けられ、ひゃい、と妙な声が出てしまった。
失礼と思いながらも現れた代表、撫子をまじまじと見る。今の季節に相応しい薄桃色のカーディガンにロングスカートの花柄がよく合っていた。隣にくると甘い匂いがして花畑の中にいるようで安らいだ気分になる。
「……それほどでも、ないです」
「今から楽しみです」
柔らかい笑みで先に歩き出す。僕は遠慮がちに隣へ並んだ。
自然と顎が上がる。目の前のビルに大観覧車があった。光の反射ではっきりしないが、どのゴンドラにも人が乗っているようだった。
ビルに入ると大勢の客が各テナントを行き交う。両手に紙袋を持った状態の女性がちらほらと目に付く。僕達の目的とは違うので、それとなく眺めてエレベーターに向かった。
乗り込むと最上階の十五階のボタンを押した。
「わくわくします」
ちらりと横を見ると撫子が子供っぽい笑顔を浮かべていた。今の段階では不機嫌に見えない。このエレベーターも密室に近いはずなのに。
八階と十二階で停まり、新たな客が乗り込んできた。その中には女性が含まれていた。僕は壁に背中を押し当てて遣り過ごす。
待望の十五階に到着した。扉が開くと親子連れが真っ先に飛び出した。男の子は父親の手を引っ張って、遅いよ、と急かしながら通路の先へ向かう。
「私も子供なら走っていきたいところです」
「今更ですが、本当に僕と一緒にゴンドラに乗るつもりですか?」
「ここまできて拒否は許しません。先輩命令で従わせます」
言葉は厳しいものの目は笑っていた。僕は後輩らしく、はい、と素直に返した。
係員の誘導で難なくゴンドラに乗ることができた。
「こんなに高いとは思いませんでした」
撫子は子供のように窓へ張り付いて声を弾ませる。僕は対面の席に座ってにこやかな顔を維持する。内心では料金の高さに面食らい、透明な床に恐怖した。
ゆっくりと空に放り出される。感覚のせいで背中に嫌な冷や汗を感じる。体臭に関わることなので大いに焦る。その焦燥が新たな汗を呼び込み、ハンカチが手放せなくなった。
「もしかして高いところが苦手なのですか?」
振り返った撫子が不安を滲ませる顔で訊いてきた。
「そんなことはありません。ただ、床や天井まで透けているとは思わなかったので、少し驚いています」
「季節によって変えるみたいです。今はシースルーのゴンドラで、空中散歩を楽しんでいる気分になりますね」
撫子は空に向かって両手を広げた。心から楽しんでいる様子がこちらにも伝わる。自然に表情が緩み、汗を拭いていた手が止まった。
ゴンドラは頂点に達した。天井から見える空が近くなり、呑み込まれそうな迫力を全身に感じた。同時に目は撫子に向けられた。変わった様子はなく、にこにこした状態が続いていた。
目が合うとこちらを窺うように小首を傾げた。
「考え事ですか」
「あの、大丈夫ですか? 急に腹が立ったり、イライラしたりはしませんか?」
「楽しい気分でいっぱいです」
自然な笑みに嘘はないように思う。要と同じように例外なのだろうか。
「ほっとしました」
「もっと今を楽しんでください」
「そうですね。料金分は楽しまないともったいないですよね」
「お金が絡むだけに現金ですね」
口にした瞬間、撫子は照れ笑いを交えて、オヤジギャグですね、と小声で言った。僅かに両肩を上げる仕草が愛らしくて胸の辺りが苦しくなった。
二十分近い空中散歩を楽しんだ僕達はフードコートに訪れた。好みの飲み物とサンドイッチを二人で並んで食べていた。
「今日はありがとう。本当に楽しい一時でした」
「大したことはしていないので気にしないでください。僕も初めて乗りました。たぶん、料金分は楽しんだと思います」
「良かったですね」
和やかな雰囲気は悪くない。上々と言えるところに、突然、大きな音が鳴り響く。
横手から伸びてきた手がテーブルを平手打ちにした。横目をやると記憶にない男性が笑いながら目を剥いた。
よく見ると怒りの対象は僕ではなくて、隣にいる撫子に向けられているようだった。
「どうしてここにいる」
怒りを抑えていても声が震えている。
「大観覧車が目的できました」
「俺への当てつけか?」
顎の動きが僕を示す。
「誤解です」
「そうだよな。使い捨ての俺に用はないよな」
男性は僕を一睨みしたあと、待たせている仲間の元に戻っていった。
「……ごめんなさい。不快な気分にさせてしまって」
「今の人は?」
「ここでは。電脳世界の、あのベンチで待っています」
そこから話が弾むことはなかった。急に味のしなくなったサンドイッチを二人で黙々と食べた。




