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第100話 相手の正体(1)

 空に浮かんだ丸みのある雲は、こんがりと焼き上がったパンに似ていた。思い浮かべるだけで口の中に唾液が湧き、飲み下して足を速める。

 白い大きめのTシャツは風をよく通し、快適に過ごせた。グレイのチノパンは夏用もあって蒸れることはなかった。

 正門近くにある駐輪場の手前で呼び止められた。

「少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

 見ると痩身の男性が柔らかい表情で近づいてきた。手にはB5くらいの大きさのバインダーを持っている。

「アンケートですか?」

「おっしゃる通りです。ファストファッションによる環境問題について、若者を中心にアンケートを行っています」

 男性はバインダーに挟んでいたアンケート用紙の一枚を抜き取った。手渡そうと前へ差し出す。

 目にした途端、顔が強張る。意識はこちらに傾けられたバインダー本体に向かう。


『アンケートを断り、北門を抜けろ。近くに停まっている青い車のドアウィンドウを三回ノックだ。あとは運転手の片瀬の指示に従え』


 内容は迫る危機を伝えた。それ自体が罠という可能性は運転手の名で消えた。

「急用を思い出したので、ごめんなさい」

「そうですか。わかりました」

 男性は残念そうな顔を見せる。僕が離れてもすぐには立ち去らず、周囲に声を掛ける徹底ぶりには舌を巻いた。

 正門とは真逆にある北門が見えてきた。ガツ盛り飯店の道順もあって腹が鳴った。

 通り過ぎた先の路肩に青い車が停まっていた。自然を装って近づき、助手席の窓を三回、軽くノックした。反応はなかったが背負っていたリュックを胸に抱え、ドアを開けて乗り込んだ。

 横目で運転席を見ると、黒いスーツをきた女性が待機していた。サングラスを掛けていたが少し高い鼻と引き結んだ唇が過去の光と重なった。

 シートベルトの装着を待って車は緩やかに走り出す。

「クロスバイクはこちらで回収して貴様の家に送り届ける」

「わかりました。この状況の説明をお願いできますか?」

「正門前に不審車両が二台。貴様の捕獲要員と思われる人物が四名。各自、耳にはトランシーバー用のイヤホンを付けていた。正体は不明だ。今、私の直属の部下に調べさせている」

 運転をしながら端的に答えた。

「あのぉ、僕はこれからどうすればいいのでしょう」

「相手の詳細がわかるまで身を潜めていろ。貴様の女には頼るな。住所を割り出されている可能性が高い」

 響輝は彼女ではないが、そこそこに付き合いが長い。住所を知られているかもしれない。大学で知り合った友人はいても家を知らなかった。

 彼女ではなくて付き合いの浅い人物。口の悪い三白眼が頭に浮かぶ。

「スマホを使ってもいいですか?」

「許可しよう」

 腰に装着したホルダーからスマホを引き抜き、アプリを起動させた。


『突然で悪いんだけど、そちらの家に今から行ってもいいかな』


 祈るような気持ちで返事を待った。光は無言で車を走らせる。尾行をくように入り組んだ道を進み、四車線の道に出た。

 その時、返事が返ってきた。


『なんや、急に。ウチが恋しなったんか』

『ごめんね。ダメなら他を当たるよ』

『諦めが早いわ! 困ってそうやから、助けたっても、別にええで』


 諦めの早さに怒り、直後の自身の言葉で照れ臭くなる。そんな幸子の姿が目に浮かぶようだった。


『ありがとう。そんなに長居することはないと思うから』

『そこらへんは気にせんでええよ。住所は今からや。迷わずに来るんやで』


 住所に加えてアパートの名まで教えてくれた。それを元に地図で位置を確かめる。近くに目印となるコンビニがあったので光に伝えた。

「わかった、そこで降ろす。相手の正体がわかれば貴様のスマホに電話をする。非通知表示でも出るように」

「わかりました。あと、お支払いは四時間くらいと見積もって、四万円くらいでしょうか。できれば分割で、お願いしたいのですが」

「前に伝えたはずだが」

 時給一万円と聞いた。オプションの類いはなかったと思うが、ひょっとして度忘れしたのだろうか。

 考え込んでいる間にコンビニへ着いた。店舗から遠いところに車を停めた。

「今回は個人的な手助けだ。気にするな」

 その言葉で思い出した。ただ少し悪いような気がして財布の中身に目をやる。万札が一枚と小銭が少々。足りるような気がしない。

「仕方ないヤツだ。着手金くらいは貰ってやるか」

 顔を向けた瞬間、唇を奪われた。ねっとりとした優しい舌遣いで夢心地の気分を味わった。

 光は離れるとハンドルを握った。

「良い子で待っていることだ」

「……ありがとう」

 僕が降りると車を動かす。車道に出る直前、運転席のドアウィンドウを開けた。軽く右手を振りながら走り去った。

 リュックを背負い、コンビニの横手の道を真っすぐに進む。左手に曲がって百メートルもいかないところに二階建てのアパートがあった。

 出入り口に当たるところに幸子が腕組みした姿で立っていた。モスグリーンの半袖シャツに白い半ズボン。黒いスパッツの一部が覗いていた。

「意外と早かったやんか」

「わかりやすかったよ。今日は本当にごめん」

「それは、もう、ええって。ウチとしても何か世話を焼きたい気分やったから、ちょうどええわ」

 幸子はガラス扉を開けて中に入る。僕は後ろから付いていく。

 手前の階段を上がって二階に行き、突き当りから二番目の部屋に案内された。

 幸子は扉を開けると背中で押しとどめた。

「ここがウチの部屋や。遠慮せんと、上がってや」

「お邪魔します」

「どんなコントやねん。一人住まいやのに」

 笑いながら扉を閉めた。初耳もあって少しドキリとした。

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