第10話 本心を隠して
薄暗い部屋はカーテンを開けても変わらない。本格的な夜を迎えていた。
僕は未だに家へ帰ることができず、要のアパートにとどまっている。無断外泊はお小言のもともあって、トイレのついでにスマホで自宅に電話を掛けた。
失恋した友達の話を夜中、聞くことになりそうだから帰りは明日になると。
母は渋々といった様子で外泊を認めてくれた。ただし一言、お酒はやめなよ、と釘を刺した。要のことを話すとややこしくなるので、わかったよ、と短く答えた。
再びベッドに戻った。あと数分で日付が変わる。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。同じ横向きの姿勢なので下になった右肩が痛くなってきた。改善しようとしてもぞもぞ動いていると僕の胸に顔を寄せていた要が小声で言った。
「……帰っちゃうの?」
「帰らないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「よかった。さびしくなったら、またイヤな気分になるから」
要は手と脚で僕を拘束するような格好を取った。
「そんなことしなくても大丈夫だよ」
「心配だし」
言いながら小刻みに移動して目と目が合った。横になった姿勢で見つめ合う。
「あたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「気持ち悪くない?」
告白した彼女に言われた言葉を引きずっているようだった。
「気持ち悪くないよ。こんなに可愛いのに」
「チューして」
甘えた声で顔を寄せる。ぷっくりした唇が艶やかに光って見えた。
湿った音を立てて唇を重ねた。これで何回目になるのだろう。喘ぐような息を吐いた要は嬉しそうに笑った。
「エッチはしないの?」
「臭い台詞だと思うけど、要を大事にしたい。愛をゆっくり育んでいきたいと思っているから」
「本当は好きじゃないから?」
「そんなことはないよ。好きだよ」
「確かめてみるね」
その一言の意味を理解できない間に股間をやんわりと握られた。絡んだ脚のせいで逃げられない。
「本当なんだね。ここ、大きくなってるよ」
無邪気な笑みを浮かべた要に僕は苦笑いで答えた。
「でも、本当にエッチしなくていいの? あたしはいいんだよ」
「傷心の要とやったりすると、なんか弱みに付け込むみたいで僕が嫌なんだよ」
「たっくんは優しいね」
そのようなあだ名で呼ばれたことは過去に一度もない。香水の影響は性欲にとどまらず、幼児化まで促すらしい。効果が発揮される条件は未だによくわからない。要は普通の女性とは違う部分があるので、あまり深く考えても仕方がないとも感じる。
取り敢えず、僕が望んだ通り、要から死を遠ざけることに成功した。汚い手かもしれないけれど、楽しい時間を長く過ごせば悲観的な考えは薄れるように思う。
「そんなことないよ。要は僕にとって大切な人だから」
「でも、あまり大切にされると古くなっちゃうよ」
「そうだね。程々にするよ。だから要も自分を大切にして欲しい」
「わかった。でも、ちょっと胸が切ないかな」
要は僕の手を掴んだ。強い力ではないのに抗えなかった。掌は要の胸にそっと押し当てられた。
「触る? それとも揉む?」
「しないといけないのかな」
「もしかして嫌いになっちゃった?」
目が潤み始める。焦った僕は高価な陶器に触れるような感じで摩った。
「こんな感じでいい?」
「くすぐったいよ。もう、たっくんは可愛いんだから」
目を細めてすぐに表情を戻した。要は僕をじっと見つめる。
「もしかして、たっくんの中身は女の子だったりして」
さらりと衝撃的なことを口にした。僕は過去を振り返って真剣に考え込んでしまった。そうなると二人の中身は異性になるので、本当の意味で付き合ってもおかしくないのでは。
要は笑って僕の肩を叩いた。
「冗談なんだから、そこはちゃんと話を合わせないと。もう、たっくんはそんなところまで可愛いんだから」
「そう、だよね。ジョークだよね。びっくりした」
「本当に可愛いんだから。ねぇ、チューして」
時間が巻き戻されたようにまた唇を重ねた。
カーテンを開け放した窓が朝陽を受けて白っぽく輝く。まともに目を開けられない状態で僕は眺めた。隣では要が気持ちよさそうに眠っている。
ようやく長い夜が明けた。僕は用心のために書置きを残して、そっとアパートを後にした。
家に帰り着いた僕を見て母は少なからず驚いた。
「目が腫れぼったいのはわかるけど、その唇はどうしたのよ」
「どこかおかしい?」
「腫れているように見える」
顔を近づけると匂いを嗅いだ。
「お酒は飲んでいないようね」
「そう約束したし」
「十八歳が成人だとしても、お酒とタバコは二十歳まで待ちなさいよ」
「わかったよ。あと唇はよく使ったからだと思う」
「苦手なくせに辛い物でも食べたんでしょ」
見透かすような目をして大きく外した。これから大学の講義も控えているので曖昧な笑みで遣り過ごした。
自室に戻った僕はベッドの誘惑に打ち勝ち、シャワーを浴びた。いつものTシャツとパーカーの組み合わせで早々に家を出た。
外は白く揺らめいて、どこかふわふわした気分で土手の道をゆく。円筒状の瓶はポケットに入れている。要の精神が安定するまで手放せないと思った。




