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神怪報冤譚─虎追いの少女─  作者: ミナミ ミツル
第一部 小哪吒の李六
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第九回 小哪吒、狂奔の果てに狂い死ぬこと

 目指す地は北。

 六は脇目も振らず風箭谷を目指した。ただ一人で山を越え、ただ一人で河を渡る。

 一心不乱に北へ向かって走り続けていると、六の視界から徐々に色が抜けていった。

 人も地も、みなおぼろげで灰色の存在へと変わっていく。何もかもが灰色の世界に、ただ一つ確かなものは己の怒りだった。

 天も灰色に変わったが、それは六の閉ざされた心のせいではない。

 北へ向かうにつれて雲が空を覆い、凄風が吹いていた。

 いつしか空気は凍てつき、凄風は寒風となり、雪が舞い降りた。

 吐く息は白く、足元に降りた霜を踏むたびゴリゴリと音がしたが、六はそれらに気付いてさえいなかった。


 やがて六は朝廷の力が及ぶ最果ての町、嬰州、石渓鎮へと達した。

 石渓鎮は景勝の地でもある。

 (やま)から湧いた清水は、石の川床を伝いて里へと至り、夕日に染まる小川は鮮やかで、せせらぎの音はなお玲瓏。

 美しき町である。

 しかし当然ながら風光明媚なこの町も、六は一顧だにせず通過した。


 私から章兄を奪った太號君はどこだ。

 頭に浮かぶのはそればかりである。

 これほど走り続けても仇の痕跡さえ見つからぬことに苛立ち、時折無性に叫びたくなった。

 しかし章元に引導を渡したあの晩以来、六の涙は涸れ、喉から出る声は日に日に小さくなっていた。

 懊悩が六の言葉を奪い、怒りが六の視野を狭め、孤独が六の善性を削った。

 たった一人で雪山を踏み、森を抜け、禽獣を貪っているうち、六の心から色ばかりでなく、人の人たる心が少しずつ零れていく。


 石渓鎮からさらに北東へ――。

 いくつかの山を越えると、錆付いた鉄で拵えられた孤形の門が現れた。

 門には文字が刻まれていたが、なにが書かれているかは判別不能である。

 それは六が文盲であるからではなく、既に使われなくなって久しい古代文字だからだ。

 この門が作られたのは、遥か上古の時代。古の聖王が人界の果てを定めるために作った門である。

 魔界への入り口というべき門さえも、六は何の感慨もなく踏み越えた。

 いや、もはや六自身が一匹の妖怪となり果てていたといえよう。

 そこにいたのは復讐に燃える悪鬼である。


「や、こんなところに人間とは珍しい。こりゃあ今日はご馳走だな」

 日が暮れ、闇が山中を覆うと、その闇の中から異形の魑魅魍魎たちが現れた。

 猪や狢のような姿をしているが、二足で歩き言葉を操る化け物である。

 下卑た笑いを浮かべながら近寄る化け物たちに対し、六は五日ぶりに声を発した。

「風箭谷の太號君を知っているか。もし知っているなら案内しろ」

「ハ、ハ、ハ、何を言うかと思えば! 誰が貴様なぞに教えるか――」

 瞬間、槍が翻り妖怪の首が破裂した。

「ならば死ね」

 仇である太號君の憎悪や怨怒、そして倀鬼となっていたとはいえ、師兄である章元を自ら手にかけた自責の念、それらが混ぜ合わせになった感情が暴れ出した。

 六は妖怪たちへと飛び掛かる。

「やっ?」

 その場にいた妖怪たちは困惑の呻きを一言漏らすと、挽肉へと変わった。

 状況を察知した別の妖怪が背を見せて逃げようとしたが、六はその背中を断った。

 その場にいた妖怪を皆殺しにしても、なお六は止まらない。

「ばああああああっ!」

 六の発した獣の如き咆哮は山沢を震わせた。

 そのせいでさらに多くの妖怪たちが六の存在に気が付き、火に群がる虫のように山中の妖怪がわらわらと集まる。


 邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。

 六は飛矢のように真っ直ぐ妖怪に群れに突っ込み、集った者どもを割いた。

 毒虫、大蛇、怪鳥、狢、山猫、猪、熊、豺狼、動く巨木、巨人、一つ目のもの、多椀のもの、多首のもの、形状も定かではない化け物。

 様々な妖魅が出現し、その全てを一蹴しながら、六は山を駆け上る。

 雪中に屍山血河を作り出しながら、本能の赴くまま六は暴れに暴れた。

 そして夜半三更(およそ真夜中の零時)を過ぎた頃、六は山の頂に立った。

 その通り道は夥しい妖怪の死体で埋もれている。山一つに住まう妖怪はたった一人の少女に壊滅させられたのだ。

 しかし、これでまだ終わりではない。山の頂から眼下を覗くと、青白く不気味な炬火が樹海の間から見える。

 松明の灯りではない。

 妖術によって生み出された灯である。


 化け物どもめ。


 六は再度怒りを燃やし、山を駆け下りた。

 妖怪の先陣を見つけた六は先ほどと全く同じように槍を振るう。

 瞬く間にニ、三の妖怪がバラバラに砕かれた。

 しかしその僅かな隙に、残りの妖怪は身を退き、代わりに木々の間を縫うようにして無数の矢が飛来した。

 六は走りながら矢を打ち払い、妖怪を追った。

 だがそのうち前方だけでなく左右からも矢が飛ぶようになった。

「む……」

 ほんの少し六が足を止め、矢を叩き落すことに集中しようとすると、計ったように怒号を上げながら妖怪の一群が突っ込んでくる。

「おおおっ!」

 新手の妖怪群とぶつかりながら、六は気付いた。

 新たに現れた妖怪の集団は互いに連携していた。明らかに先ほどまでの烏合の衆とは様子が違う。

 最初に出会った妖怪は野人同然の格好であったが、いま相手にしている者どもをよく見れば、武具を身に着けている。

 ただの有象無象ではない。

 これは妖怪の軍団か。

 そう気づいても六の気力は萎えることを知らない。

 が、殺戮の速度はガクンと鈍化した。

 四方は囲まれ、六が押せば向こうは退き、留まれば矢を放たれ、常に思わぬ方向から攻め立てられる。

 いつの間にか追っていたはずの六が追われる側となっていた。

 動き続けるしかない。

 止まれば押し潰される。そう考えた六は気力を振り絞り孤軍奮戦して槍を振るい続けた。


 ただし、いかに無双の武芸者でも、そのような無理が無限に続くはずはない。

 切れないはずの息は切れ、いつの間にか六ははぁはぁと肩で息をしていた。

 本来の六の膂力であれば、重さなど感じないはずの槍に重さが感じられた。そのとき、槍が砕けた。

 それだけでなく六の腕に矢が立った。

 武具が砕け鋼鉄の如き肉体が傷ついたのは、気に綻びが生じ、内功が弱まっている証拠である。

 ここぞとばかりに妖怪たちが詰め寄って来た。

 だが、なおも六は剣を抜き、妖怪軍に向って吠えた。

「来い! 全員叩き斬ってやる!」

 既に六は限界であった。しかしそれでも衝動に突き動かされ、気力だけで戦い続けた。


 いつの間にか夜が明けていた。

 六はまだ立っている。しかし、もはやそれだけであった。

 満身創痍の上に攻め立てられ続け、ついに轟々と唸る瀑布を背負うまでに追い詰められていた。

 しかも、妖怪たちは真夜中に山頂から見下ろした時よりも、なお数を増している。


 くそっくそっ。なんてことだ。

 どうやっても敗北を認めざる得ない状況に六は身悶えした。

 そのときである。

 不意に六を囲んでいた妖怪の陣が左右に割れた。

 と、思うと甘ったるい匂いが漂い、左右に割れた妖怪の列の奥から、一人の女がしずしずと歩いてくる。

 頭には金の(かんざし)、絹の着物を幾つもの珠環玉佩(アクセサリー)で飾り立て、歩くたび、かちゃかちゃと音がした。

 雲鬢花顔(うんびんかがん)、という形容がぴたりと合うような美女である。

 しかしその相は美しいと同時に底知れぬ妖しさも秘めていた。

 いわば殷を滅ぼした蘇妲己や、周を退廃させた褒姒のような傾国の美しさであり、その足取りは歩歩蓮華を生ずと謳われた潘玉児の退廃の歩みに似る。


「わらわは太號君様の爪。虎爪将、金華娘(きんかじょう)である」

 と、傾国の美女は言った。

 太號君。

 その名前が出ると六は瞠目した。

 やはりこの地に居たか。そして自分はいま虎の尾を掴みつつある。

 俄かに六の気力が蘇った。

「その方、我が君に会いたいそうじゃな。わらわに勝てたら会わせてやろうぞ」

「お、おおおおお!」

 六は満身から最後の奮い起こした。

 弾かれたように跳び、欠けた刃の剣で金華娘の胸を突く。

 が、渾身の一撃は易々と防がれた。

 金華娘の細腕が六の剣を素手で掴み取っている。

 押しても引いてもビクともしない。

 金華娘は冷顔を向け、一片の嘲笑を浮かべた。

「なんだいこれは。このような児戯で我が君に歯向かうつもりかえ」

「ぐっ」

 唇を噛みつつ、六は身を捻り、蹴りを放った。

「浸透脚」

 ズン、と確かに六の蹴りは金華娘の胸を踏んだ。

 波紋のように浸透する打撃の威力によって、内臓が破裂するはずである。

 しかし疲労故にか、それとも両者の力量差故にか、いずれにせよ六の一撃は金華娘の涼しげな微笑を曇らせることさえできなかった。

「あ、う……」

 あれほど猛っていた怒りを、絶望が越えた。

 すると一転して、今度は金華娘が動く。

 金華娘の掌に鋭気を感じた六は無意識に身をよじった。

 それでも躱しきれず金華娘の手刀が六の肌を掠めた。まるで剃刀で裂かれたかのように、ぱっくりと開いた傷口から鮮血が流れる。

「動くと痛いぞい」

 金華娘の連攻を六は必死になって避けた。

 が、既に体が言う事を聞かない。

 避けようとした拍子に足がもつれ、体のバランスが崩れた。転倒である。


 ――ああ、しまった。


 その瞬間六が感じたのは走馬燈の一種だろうか。

 ほんの刹那の出来事が長く引き伸ばされたように感じた。

 皮肉なことにそのせいで六は自らの死因となるべき技を見物することができた。

 死の淵にあることで、金華娘の動きがよく見える。

 その瞬間、絹衣がはためき、金華娘の背の辺りから鋭いものが飛び出して、六の腹を突く。

 衝撃で六の体が浮揚し、腹部を貫かれた激痛が走る。

 その痛みは六の全身を痺れさせた。

 体が動かない。

 ただの突きではない。

 これは毒、か。

 意識が遠のいていく六が最後に感じたのは、自分の身が瀑布へと落ち込んでいく感覚であった。



「他愛なし。わらわが足を運ぶまでもなかったか」

 金華娘は冷笑と共に一言漏らすと、軍を引き上げて引き返していった。

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