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神怪報冤譚─虎追いの少女─  作者: ミナミ ミツル
第一部 小哪吒の李六
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第七回 小哪吒痛哭し、報冤を誓うこと

 ぽたぽた、と水滴が食卓の上に落ちた。

 目に涙を浮かべた六が、上ずった声で言う。

「ごめんなさい章兄。ごめんなさい……」

 普段の笑みは消え、章元も悲痛な面持ちで答えた。

「お前が何を謝ることがあるものか。謝るのは私の方だ。師妹(いもうと)に毒の入った茶を出したのだから。もはや芯まで倀鬼だ。妖虎に操られる外道だ……すまない」

「それはもういい! それより章兄を解き放つ方法はないの!?」 

「ない。私は全てを懸け我が君に尽くさなければならん」


 章元のその一言に耐えきれず、六は涙でいっぱいの目を閉じてしまった。

 既に戦闘は始まっていると見てよい。それなのに目を閉じるとはあまりにも愚かな行為である。六自身ですらそう思った。

 しかし、どうしても倀鬼として操られる章元の姿を見ることは耐えがたかった。

 章元はゆらりと構えながら言う。

「……私が倀鬼だといつ気が付いた?」

「最初に会った時から微かに妖気を感じ、妙だと思った。そしてさっき燭台の灯が揺れた時、章兄には影がないことに気が付いたわ」

「……よく観察している。以前のお前は注意散漫だったが、成長したな」

 章元の声は六の記憶にある声と全く同じだった。師兄が倀鬼だということは信じ難い。

 そのことが六の心をかき乱す。

 

「どれ、久々の手合わせだ。どれほど腕を上げたか見てやろう」

 常の章元は笑顔を絶やさない豪放な男だが、戦いとなればその様子は一変する。

 ゆらゆらと揺蕩うように構え、その動作は清流のように静かで変幻自在。まさに流動という言葉が相応しい。

 六が生来火の気質の持ち主であるなら、章元は水の気質の持ち主と言えた。

 これまで章元は六を翻弄し続けたのも、二人の性質の相性という要素は大きかった。

 水が火を消し止めるが如く、章元は六の攻めを断つことができる。


 ……いつか、そんな章兄を超えるのが私の楽しみだった。

 こんな形では戦いたくない。

 ともすれば気力が萎えてしまうのを六は必死に耐えていた。


 そんな六の気持ちを察したのだろう。

 倀鬼となっても、章元は妹弟子を思いやって言った。

「六、私はもうお前の師兄ではなく化け物だ。気遣いも手加減も無用」 

「分かってるっ!」

 閉じた瞼の下から涙を溢れさせながら、六は叫んだ。

「せめて……私の手で冥府に送ってあげるわ!」

「来い。小哪吒の李六」

 ――行くよ、章兄。


 先に動いたのは六。

 体内から湧き上がる気は熱を帯びている。

 鉄さえも粘土のように捏ねる力で拳を固め、必殺の豪打を師兄(あに)に向けて放つ。

 当たれば人体などはひとたまりもないだろう。

 が、章元は身を翻しつつ、拳の軌道を逸らすように打ち払う。


 間髪を入れず、六はさらに後ろ回し蹴りを放つ。

 章元の顔面を蹴撃が掠める。

 惜しい、が、ここから当たるまでが遠い。

 さらに六は二度、三度と攻め立てるがいずれも章元には届かない。

「まだまだ」

 六の動きは加速を続け、嵐の如き様相を見せた。

 

 体に力を込めるのは、息を止めるか、吐くかしなければならない。

 息を止めつつ永遠に動き続けるのは生物には不可能。

 ゆえにどこかで力を抜き息を吸わねばならない。

 それが攻めの限界である。

 しかし、胎息の法を修し終えた者は、その限界から解放される。

 そのような者は皮膚から直接酸素を取り入れるのだ。


 六の技量をもってそれを行えば、相手を粉砕するまで決して休まらない連撃となる。

 が、それは相手も同じである。

 凌ぎ続ける章元の動きもまた、休まることを知らない。

 拳を振るいながら六は手応えのなさに歯噛みした。

 全部捌かれてる。

 この……!

 無言の圧を感じた六は無意識に勝負を急いだ。


 一方の章元は、六の豪打を前にして全く怯む色を見せない。

 六が詰めれば引き、引けば詰める。

 一発一発が大砲のような炎の連撃を章元は避け、逸らし、受け流す。

 瞬き一つで勝負が決する激しい攻防の中で、章元は六の気の流れが変化するのを感じ取った。


 岩を灰のように砕く六の剛拳は恐ろしい。

 しかし、それ以上に恐ろしいものは、腕にも増して力強く多彩な――蹴り技。

 突如、六は逆立ちになったかと思うとクルクルと回転し開脚蹴りを放った。

 一周目は顔面を狙い、二周目は足を払うように下段を薙ぐ。


 後退しながら章元は舌を巻いた。

 六に武術の基礎を教えたのは自分たちだが、もはや六は基礎に納まる範疇にない。

 動きを想像することも難しいほど独自の変化を遂げていた。

 さらに六は体の上下を元に戻しながら間合いを詰め、開脚蹴りの勢いのまま回し蹴りを放つ。


 ここだ!


 その回し蹴りを章元は紙一重で見切った。

 蹴りをかわしつつ章元の腕が伸びる。

 最大の攻撃を凌いだ時、相手は最大の隙を晒す。


「水剋火、浸透掌」

 掌底が六の胸に捉えた。

 六の体内を衝撃が走り打突から一拍子遅れて、六の体が後方に吹っ飛ぶ。


「うえっ」

 吹き飛ばされた六は嗚咽を上げながら即座に立ち上がったが、考えての行動ではない。

 体に沁み込ませた無意識の動作である。

 ダメージは決して小さなものではなかった。

 水の気質を持つ武芸者独特の打撃は、じんわりと鈍い痛みを与える。

 打撃の衝撃が体内を貫き、打たれた場所ではなく内臓と背中が痛い。


「どうした六! なんだそのザマは!」

 章元から叱咤が飛んだ。

「言われなくても分かっているよ」

 腑の痛みを押して反射的に六は言い返す。

「そっちこそ追い撃ちはどうした? 私が怖いのか、章兄?」

「ああ、怖いとも」

 構えを取ったままあっさりと章元は認めた。

「朱堂鏢局王進の秘蔵っ子、小哪吒の李六を警戒しすぎるということはない。ゆっくり確実に戦わせてもらう」


「じゃあ私は手早く終わらせることにする」

 強がりだった。

 単に章兄のペースで戦いを長引かせられたら勝ち目がないだけだ

 既に心臓が破裂しそう。鼻と喉の奥から血の味がする。

 もう一度貰ったら、キツい。

 三発目なら立っていられるのは無理だろう。


 勝つか負けるか分からない勝負。空気がひりつく。

 あってはならないことだが、不意に六はある種の嬉しさを感じた。


 強い。強い。

 兄だと慕っていた人が今も強い。

 ここしばらく手合わせしていなかったが、憧れの人はなおも憧れのまま鋭い技のキレを見せてくれる。

 あれだけ打ったのに一発もまともに当たらなかった。

 連撃を捌ききった絶妙な軽功。

 口の中に血の味がする。

 ただの一発で敗北を予感させる掌打。

 流石だと思った。六は誇らしかった。


 六は、章兄を手本にしていました。

 ずっと章兄を目標にしていました。

 おかげで六は強くなれました。

 ありがとうございます。

 章師兄。


 ペッと六は血反吐を吐き出すと、深く深く胎息した。これも章元が教えたことだった。

 全身で息を吸いこむと、燃え立つような六の気が再び体からふつふつと湧き上がる。

 一段と熱さを増した拳をぎゅっと握ると、頬を伝う涙が蒸発した。

「……我が拳は火なり」


 呟きと共に六が突進する。

 二度目の六の猛攻。

 瞬く間に三十の拳撃と十の蹴りが飛ぶ。

 六の気迫を受け止めた章元。

 水が形を変えるが如く、無尽の連撃を鮮やかに対応する。


 先ほどと同様の展開だが、違うのは六の心持ちである。

 章元の一撃は六の心を覚めさせた。


 六の変化を感じ取った章元は微かに師兄の顔を覗かせ、口角を上げた。

 何か企んでるな、六。

 見せてみろ、お前の力を。


 両者の思いが交錯する。

 六の上段蹴りを避けた刹那、万全なタイミングで再び章元の掌底が伸びた。

 だが、その掌底が六の体に触れることはなかった。

 一瞬早く六が体を翻しするりと掌底を避ける。

 まるで流水のようなしなやかな回避だった。


 完璧と思われたカウンターが外れると、章元は思わず声を漏らした。

「なっ」

 引き込まれた!

 蹴りは囮か!


 理解した瞬間は手遅れだった。

 章元は相手の動き応じ対応する、いわば後の先を基本とする。

 受けに回っている章元は難攻不落の城である、と見た六はあえて隙を晒し、相手が攻撃に移る瞬間を狙った。

 いわば章元から後の先を取ったのである。


 すかさず章元は再び退いたが、攻撃に転じた分、攻守の拍子に綻びが生じた。

 六の連撃は止まらない。

 蟻穴から堤が崩れるように、一気に攻防の均衡が破れた。

 章元は致命打を何とか避けようとするが、一瞬ごとにゴリゴリと体が削られていく。

 受けきれない。このままでは負ける。

 そう感じた章元は一か八か起死回生の掌打を放つ。

「浸透掌」

 六の腕の間をするりと抜け、章元の一撃は六の胸に突き刺さった。


 ――なに。

 賭けに勝った、と思われた瞬間に生じた、違和感。

 まるで空を切ったかのような手応えのなさ。

 これは……!

 死者が寒気を感じることがあるだろうか。

 だが確かに章元はその瞬間身震いした。

 生前自らが目指した、珠玉の一撃を目の当たりにしたからである。


 まともに章元の掌打を受けたかに思われた六は、体内にてその衝撃を受け流した。

 受け流すのみならず、その衝撃を自分の攻めに乗せて相手に返す。

「転力浸透脚」

 六の回し蹴りが章元の胸を打ち抜いていた。

 二人分の力を乗せた凄まじい衝撃が章元の体を貫いていく。

「がああああっ!」

 必殺の蹴りをまともに受けた章元は獣の呻くような声を上げる。

 次の瞬間、仮初の体は紙風船の如く破け、砕け散った。



 師兄を蹴り砕くのを感じた六はやっと目を開けた。

 倒れ伏した師兄(あに)の体が灰となり消えていく光景が目に飛び込む。

 身の危険も忘れて、章元の元にかけ寄った。

 その間にも章元の体は音もなく崩れていく。

 

 消えかけた師兄の前に六が平れ伏すと、命の尽きる間際の章元は微笑んだ。

「私のお株を奪われたか。本当に強くなったなァ、六」

「紙一重でした」

「ふ、はははは!」

 いつものように章元は笑った。


 ああ、妹よ。

 お前は紙一重だと言ってくれるのか。

 私を気遣ってくれているのか。

 それとも気付いてさえいないのか。

 お前は目を瞑って戦っていたんだぞ。

 こんな無様な私の姿を見ないように……。


 ひとしきり笑った後、章元は呟いた。

「私の完敗だ。もう……思い残すことも……」

「ある! 私には悔いがある!」

 六が叫んだ。


「私が章兄の仇を討つ! 妖虎(とら)でしょう? どんな化け物だったのか教えて! 名前でも姿でも何でもいい!」

「今の私には主の名は言えぬ」

「ダメだ! 言え、章元!」

「……う……」

 章元の顎がガタガタと震えた

 残った力をふり絞り、章元は妖虎の魔力に逆らった。

 口を開き舌が動き、喉を震わせようと最後の力を込める。

「章兄!」

「太號君……だ」

「太號君? 太號君でいいんだな!?」


 章元は微かに頷くような仕草を見せると、それを最後にその体はボロボロと崩れていく。

 六はもはやどうすることもできなかった。

 ついに章元の体が灰と化した時、六の腕にはただ兄の重さが消えていく感覚だけが残っていた。



「うぐ……ううううううううっ」

 章元の灰の前にうずくまって六は痛哭の声を上げた。

 深い悲しみとともに、涙が留め止めなく流れる。

 本能のまま両手で思いきり床を叩くと、建物全体ががくんと揺れる。

 灰の中で何がが音を立てた。


 遺灰の中かから現れたのは、一振りの短刀であった。

 王進師匠から章元へ、免許皆伝の証として与えられた代物である。

 震える手で短刀を懐に収めると、声を上げて六は泣いた。

 正真正銘の哭泣である。

「ああああああああああああああああっっ!! 

 身を引き裂くような絶望と悲しみに、ただただ声を上げた。

 並の女なら疲れ果てるまで叫び続け、打ちひしがれるに違いない。

 だが、六は火の女である。

 いつまでも悲しみに浸る気性ではない。

 六は炎。

 あらゆる経験を糧として燃え上がる。

 そしてこの日、かつてない大きな薪が投げ込まれた。

 嘆きの後にやってくるのは、血が煮えたぎるような果てしない怒りだ。

「クソクソクソクソォォォォォォ! 化け物がぁぁぁぁ!! 私が絶対に殺してやる!」 


 六の慟哭は十里先まで響き渡った。



 この物語では、乙女を救う英雄は現れない。

 乙女は自らの手で、怪物に報いるのだ。

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