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神怪報冤譚─虎追いの少女─  作者: ミナミ ミツル
第一部 小哪吒の李六
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第五回 蓮花、想い焦がれること


 四基武功を修めるには長い時間がいる、と章元は言った。

 しかし時間とは相対的なものである。

 苦しみの時間は長く感じ、幸福な時間が過ぎるのは早い。

 六にとって朱堂鏢局での日々は一夜の夢の如き出来事だった。

 あらゆる体験が新鮮で、特に体を鍛え、武の術理を教えられ、覚えた理論を実践する一連の工程は、六にとってこの上ない喜び日々だった。


 その成長ぶりは真綿が水を吸うが如く……どころではない。

 六は炎である。

 そして与えられる試練や修行は、彼女にとって薪だった。

 小さな火に大きな薪を与えれば上手く火が付かず逆に消えてしまうこともあるだろう。

 だが六は、どんな木材でも飲み込んでますます赫灼と勢いを増す炎だった。

 

 鏢局に引き取られて半月もすると、身の内に灼熱の炎を宿す六は、溢れる力を持て余し、章元へと挑んだ。

 結果は……再び六の敗北。

 だがそれで諦める六ではない。頼みこんでもう一度挑んだ。

 やっぱり勝てない。

 いやいや次こそは負けない。泣きの三度目! さあ章兄もう一本!

 だが負ける。

 あれ?

 あれ?

 おかしいぞ。


 ひと月に三度挑み、三度負けたところで、流石に六も立ち止まって考えた。

 六は己に問う。

 なぜ章兄には勝てないのか。

 顔面に一発でもぶち込めば勝てるはず。

 それがなぜできない?

 腕力も、速さもさほど違いはない。というか単純なそれで言うなら自分が勝っている気がする。

 では自分の技がよほど劣るか、とも思ったが章兄は 自分に教えた技だけで戦ってくれているし、自分も教えられた技はきちんと覚えたつもりだ。

 ……分からない。理屈に合わない。頭がこんがらがってきた。


 とにかくその日から章元の動きを今まで以上に観察することにした。

 章兄だってずっと修行だけしているわけではない。鏢客としての仕事がある。というか仕事している時間の方がずっと長い。

 鏢局に帰ってくるのは月に一度か二度だ。

 それでも僅かな動きも見逃すまいと、六はできるだけ章元の後ろをついて回った。

 錬武場に顔を出した時はもちろん、できる限り鏢客の仕事に同行して、一緒に荷を運んだりした。

 その甲斐あって一年が経った頃、六は一つの答えを得た。

 

 避けるか、打つか、受けるか、退くか。

 上に避けるか下に避けるか。

 打つといってもどこを打つ?

 腹を殴るか、頭を蹴るか。 

 戦いは選択の連続だ。一瞬ごとに無限の選択肢が生まれ、その中で最適なものを選ばねばならない。

 しかも考える時間などない。

 攻防のさなか、頭で考える前に体が最善の動きをしていなくてはならない。


 章兄はその選択は抜群に上手い。一言で言うと技巧者だ。

 だからいつも機先を制され、こちらが思うように試合を運べない。

 逆にあたし自身はどうだろう。

 なんとなく、で攻めていた気がする。

 さらによく考えると、技や対応にも偏りがある。最善の動きではなく、癖で動いていた。

 試し割りの木偶を相手に技を出せたからと言って、戦いの中、出すべき瞬間に出せないのなら、これは本当に技を会得したとは言わない。

 こうして見出した結論は、章兄の強さは実である、ということだった。

 真の意味で武を体得している。

 それに比べれば自分の強さは虚に過ぎない。武が身についているようで、何も身についてはいない。

 常人であれば落胆する事実だろう。

 しかし六は逆に喜んだ。

 初めは全く見えてなかった理屈が見え始めたのだ。これが進歩でなくてなんだ、と思った。

 やるべき方向が見えた。

 虚を実にする。それができれば勝てる!

 誰にもニヤけた顔を見られないよう、密かに六は微笑んだ。


 そんな六の陰で、章元は常に苦笑いしていた。

 六は師兄である自分から吸収できることは、なんでも吸収しようと貪欲だった。

 特に修行に関していえば、組み稽古のような試合形式の修行だけでなく、筋力トレーニングや部位鍛錬、形稽古といった本人は好きではないと言っていた修行もよくこなしていた。

 だが、章元にも意地がある。

 昨日今日武術を学び始めた小娘に負けるわけにはいかない。気が付けば修行の時間が延びていた。


 ところで章元に敗北したという事実は、六の心に思わぬ副産物を生んだ。

 謙虚さである。

 敗北を知るということは、己の至らなさを知るということである。

 六はその事実を素直に受け止めた。

 自分は未熟であるという自覚が驕りを消し、ともすれば生意気な言葉を吐いていた幼い口に、敬意というものを含ませた。

 それは師がおり、師兄がおり、仲間がいるという集団生活の影響もあったかもしれない。

 言ってしまえば彼らは他人である。

 しかし同時に尊い絆で結ばれていた。

 別の言葉で言えば、それは義とも呼ばれている。

 朱堂鏢局で六は義を知った。


 二年目。

 六は前年得た学びを、少しづつ実践した。

 しかし結局のところ体が最善の動きをするなどというのは、ひたすら修練と経験がものを言う。

 武の道を歩み始めて一年。才能はあっても、その経験が六にはまだ足りない。

 雑魚なら力でねじ伏せられるが、章元のような強者相手には上手く対応できない。

 望んだ動きができないというもどかしい日々が続いた。

 だがその年の後半に入り、ようやく成果が現れ始めた。

 三戦に一戦は章元を追い詰め、かなり惜しい場面も生まれるようになった。

 あとほんの一押しで章兄に勝てる。そう何度も思った。


 それでも六が勝てないのは、やはり章元の意地である。

 いつも豪快に笑っている章元だが、負けてヘラヘラしていられるほど軽薄な男ではない。

 妹弟子に追いつかれまいとと、彼の方でも技を磨き、感覚を研ぎ澄ましていた。

 六が迫れば、章元はさらに突き放す。六はまた追うの鼬ごっこである。



 そして六がやってきて三年目が始まろうとした時、章元は四基武功の皆伝を賜った。

 その翌日、である。六はいつものように章元に勝負を挑んだ。

「章兄、一手御指南賜りたい」

「すまないな六。無理だ」

 章元が六の挑戦を断ったのは初めてである。

 六の眉がピクピクと動いた。

「聞き間違いかな? 稽古をつけて欲しい。お願いします」

「勘弁だ、六。お前とはもうやらん」

「急にどうしたんですか? 章兄ともあろう人が、私に負けるのが怖くなったとも思いませんが」

「ハハ、怖いと言えば怖い」

 六は少し苛立ち始めた。何をヘラヘラしている、と思った。

 もっとも、そんなことはおくびにも出さずに理由を聞いた。

「本気で言っているんですか章兄?」

「本気だ。お前の技はますます鋭さを増している。戦えば私でもただでは済まんだろう。それでは仕事に支障が出るからな。ハハハ! だからお前とはもうやらん!」

「ちょ待っ……それじゃ勝ち逃げじゃない! ずるい!」

 思わず六の口から幼さが顔を出した。

「ふふ、確かにずるいな。だが、お前はどうだ六。後ろを見よ」

 六が振り向くと、朱堂鏢局の鏢客たちが並んでいた。

 一番前の男が言う。

「小哪吒殿、一つ稽古に付き合ってほしい」

 その後ろの男が言った。

「そのあとで俺にも一本頼む、李六」

「俺も」

「じゃあ俺は午後一に」

「……」

 六は恨めし気に章元を睨んだ。

「モテモテだな六。ハッハッハ! そんな目で見るな! 俺を勝ち逃げと詰る前に、お前自身も奴らの挑戦を受けてやるべきだ。違うか!? ほれ行け!」

 不承不承、六は鏢客たちの修練に付き合ってやった。


 その晩のこと。

 六は章元の事をずっと考え、悶々とした気分で寝床に入った。

 あと一歩だったのに、これ以上戦わないとは悔しい。

 だが真に悔しいのは、恐らく今日戦っても負けていただろう、ということだった。

 近頃の章元は泰然としていて威厳がある、と感じる。

 これ以上戦わない、という決断にしてもそうだ。怯懦ではなく軽々に動くのはやめたという感じだ。

 それに比べたら自分はどうだろうか。

 まだ落ち着きがなく、浮ついている。これに尽きる。

 自分でも分かってはいるが、どうしてもそれができない。

 粗忽者だな、私は。地に足を付けないといけない……章兄のように。


 六が朝な夕な一人の男のことを考える様子は、まるで恋焦がれる乙女だった。

 いや、本当に六は章元に恋していたかもしれない。

 もっとも少女の第一の望みは結ばれることではなく、愛する男を叩きのめすことであったが。


 それほど強い気持ちを抱えながら寝床に入った六も、やがて眠りに落ちた。

 すると夢の中に焦がれた男が現れた。

 現実と紛うほどの鮮明な存在感。

「章兄……!」

 夢の中では全てが自由である。

 二人を遮るものはなにもない。

「章兄!」

 六は夢の中で存分に思いを遂げた。


「雨に打たれていたのか?」

 翌朝目覚めた六の姿は他の者がそう訝るほど、ぐっしょりと汗で濡れていた。

 脱水症状を起こしかけていた六は(ねどこ)から這いだすと、体を洗うよりも先にカブカブを水を飲み、一言だけ漏らした。

「まずい水だ。敗北の味がする」

 王進さえもその言葉の意味を解きほぐすことはできなかったが、その後は夥しい汗をかいて目覚める六の姿が度々見られるようになった。


 そして三年目が終わった。

 六は十五歳となった。

 磨かぬ玉のようだった少女も月日によって磨かれ、美しくなっていた。

 池の前で佇み、鯉に餌をやる。

 少女の手から餌が撒かれると、それを求めた錦鯉たちが慌ただしく六の元へ集まってきた。


 バシャバシャと鯉の立てる波音に混じって、誰かが六の名を呼んだ。

「李六さーーん!」

 顔を上げると池の対岸から一人の若い鏢客が叫んでいる。

「王進鏢頭がお呼びですよー! 紫雲堂に行って下さーい!」

「分かった」

 六は返事をすると、池に向かい軽やかな身のこなしで跳んだ。

 池に浮かぶ睡蓮の葉の上につま先を乗せると、またぴょんとその先の睡蓮へ向かって跳ねて池を横断していく。

 

 章元が十年かけて至った武の領域へ、六はたった三年で到達していた。

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