第四十回 李六、虎に克つこと
剣を刃の道と変え、小哪吒は妖虎に迫った。
「剣を! もっと剣を!」
彼女の呼び声に、彼女の作った軍団は応える。
兵たちは剣を捧げ、地から湧くように、さらに多くの剣が小哪吒の元に届けられる。
その光景を目撃した太陽道士は目を細めた。
――このわしが、競り負けただと。
天から叩き落とされた太號君は、その事実を受け入れられず、殆ど茫然自失の状態にあった。
これまで自分の力で倒せなかった相手は、皆無。
思うまま殺戮を行い、思うまま喰らった。自分は天に選ばれた存在である、と嘯き、それを自分でも心から信じていた。
その自分が、例え一瞬でもこのような小娘に劣るなどとは――。
仰向けになったまま、太號君は赫と目を剥いた。
左目に刺さった小刀を抜くと、ズボッという気味の悪い音がして、小刀と同時に太號君の眼球が引き抜かれる。
太號君は刀ごとその眼球を喰らった。
ボリボリと鉄と血の味を噛み締めながら、太號君の右手が岳崩を握りしめる。
「身の程を弁えぬ――あばずれがぁっ!」
鬼神さえ震え上がらせる咆哮であった。
太號君の声、岳崩の剣気に、天が応え、ただ一人の少女に向ってまっしぐらに稲光が走る。
戦場は凄まじい光に包まれた。
太號君が呼び寄せた雷は、十の太陽が浮かんだのと等しいほどの輝きであった。
さらに次の瞬間起こった轟音が大地を震撼させる。
あまりの光輝と爆音に、弱き者はそれだけで耳と目が潰れ、そうでない者も一時的に聴覚と視覚が麻痺した。
つまり大半の者は何が起こったのか、状況を理解していなかった。
分かったのは途轍もなく恐ろしいことが起こったということである。
突如として、目も見えず音も聞こえぬ世界に投げ出された兵たちは、敵味方問わず太號君の威に震えた。
だが、この瞬間最も恐ろしさを味わっていたのは、他ならぬ太號君であった。
「ば……馬鹿な……」
眼前の光景に、太號君は怒りも消し飛ぶほど驚き、同時に慄いた。
消し飛ばしたはずの女が、そこに立っていたのである。
六が雷撃を耐えたのではない。避けたのでもない。
雷自体が、六を逸れて落ちたのである。
岳崩を手にして以来、一度としてこのようなことは過去になかった。
地震、洪水、飢饉、津波、台風、戦争、疫病……。
古今東西、天災は文字通り天の意思の現れであると見なされている。
だが、その中で雷は特別な天災である。
その他の災害は、規模が大きい。多くの人間が苦しむものだ。
故に災害が、人の罪を誅するための罰だとしても、その罪は誰に下されたものか、曖昧さが残る。
罪を犯したのは誰なのか、巻き添えを受けただけなのは誰なのか、あるいは被災した集団そのものに少しづつ罪があったのか。
神託はかくも分かりづらい。
しかし、雷は違う
雷という天意は、目に見える形で選び抜かれた者のみを殺す。すぐ傍に居たものには傷一つ付けない。
それゆえ雷は、あらゆる文化の中で、不遜な者を罰する明瞭とした天意、という地位を不動のものにしている。
太號君が自らを天の意思の代行者だと考えたのもまた、雷を操る岳崩を手に入れたときであった。
その雷が、不自然に逸れた。
もし雷が天意であるとすれば、雷が避けて通る者こそ……。
太號君は戦慄した。初めてワナワナと身を震わせた。
「貴様は……」
言いかけて、太號君はふと思いだした。
――お前の死は、天より遣わされた者によってもたらされる。おうおう、剣の道だ! 刃を踏みしめて、その者はお前に迫っていく。
以前、三蔵法師が言い放った言葉である。
まさに、今日この時の光景。
未来を見るという三蔵は、あの時この娘を幻視していたのだ。
「き、貴様が……!」
太號君は息を呑んだ。
この娘こそ、天譴。
天が自分を滅ぼすために遣わした者である、と太號君は悟った。
「どうした、虎?」
神槍を構えつつ、六はゆっくりと太號君へ近づく。
「たがが娘っこ一人にそう怯えるな。いつもみたいに殺して食えよ」
自然と言葉が口から出た。
太號君が六の背後にある力の存在を悟ったのと同じく、六は自分の天命を悟った。
私は、贄。
進んで怪物に身を捧げる者。
無論、ただの贄ではない。
怪物を殺すために送り込まれた、毒入りの贄。それが私だ。
そうとも。初めからそうだった。
狩るものと狩られるもの。両者は天が定めた位置を理解した。
だが、それを認めるか否かは別問題である。
追い詰められた太號君は足掻いた。
天が我を滅ぼそうとするならば、天を殺すまで。
弱き者に、死を! 我が覇道を阻む者に、尽く死を! 殺殺殺、殺殺殺!
「天譴、なにするものぞ! 我こそは太號君なり!」
獣が最も危険となるのには、手負ったときである。
もはや虎には侮りや傲りなど欠片もない。
六を己の命を脅かす者だと認識し、生死を掛けて挑んできた。
「かぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「あああぁぁぁぁぁぁっ!」
風が走り、雷が舞う。六の体は赤々と燃え、太號君の筋骨は膨張した。
虎の咆哮は天を震わせ、少女の絶叫が地を湧かせた。
神槍と偃月刀が激しく火花を散らし、戦いを見る者の目を眩ませる。
激突を繰り返す戈矛の音が鳴り響くと、俄かに小哪吒軍が湧き、士気を取り戻した。
六は、小哪吒は、まだ戦っている。あの少女は太號君にも負けていない。
極大の雷霆の衝撃から立ち直り、そのことを知ったからである。
今度こそ、小哪吒軍は太號君軍を圧倒した。
妖怪も、人間も、男も、女も、将も、兵も、みな勝利を叫んで突き進んだ。
釣り合っていた均衡が一気に破れ、小哪吒軍は灰を砕くかのように太號君の陣を破った。
「ぃやあああああああっ!」
六の渾身の突きを太號君は紙一重で躱し、横薙ぎに岳崩を振るう。
月さえ両断しそうな斬撃の上を、六は転げて避ける。
避けながら、六の槍が太號君の顔を掠めた。
「ちょろちょろと目障りなぁっ!」
天に選ばれし者に雷霆は当たらない。必殺の技を封じられ、思うように戦えぬ太號君は苛立った。
妖力、体格、膂力いずれをとっても太號君が優っているが、互いに戈矛を取り技量を競う武の領域においては、六に一日の長がある。
行ける。
六は確信した。ほんの僅かな差だが、このままなら私が勝つ!
「ぐあぁぁぁぁぁ! もうどうなっても知らぬぞ!」
だが追い詰められた太號君は、防御という考えを投げ捨てて、捨て身で飛び込んできた。
決死の突撃は六の技量をもっても避け切れず、六はその一撃を槍で受けた。
――あっ。
六は息を呑んだ。
神槍永牙の刀身に、亀裂が走る。
次の瞬間、永牙は六の身代わりとなり、砕けた。
同時に太號君の岳崩もまた、その一撃をもって粉々に砕け散る。
神器ともいうべき兵器が同時に砕けたのは、互いに消耗しきっている証左であった。
だが刃は折れ、満身創痍となっても戦いは止まらない。
ついに、太號君は、妖虎としての本能を剥き出しにして、一個の野獣へと戻った。
前脚を地につけ、四つ足となった太號君は、一瞬身を屈めたかと思うと、牙を剥き、吠え狂いながら六に飛び掛かる。
凄まじい力で猛虎にのしかかられた六は、地面に叩きつけられるように組み伏せられた。
三昧真火で燃える六の体は、ジリジリと太號君の皮膚を焼く。
だが肉の焦げた匂いがしても、太號君が怯む様子はない。
ギリギリと虎の牙が迫る。
「け……剣をくれ! 私に剣を!」
たまらず六は叫んだ。
その声を聴いた小哪吒軍の兵は、戦場に落ちている刀を拾いがむしゃらに投げた。
六は投げられた剣を御剣術によって操作し、虎へと向ける。
少なくとも三振りの剣が、ズブズブと虎の脇腹に突き刺さった。
太號君の妖気も尽きかけて、肉体を強化することができなくなっている。
「がぁぁぁぁぁ……!」
巨大な虎もこれにはたまらず、苦悶の声を上げながらよろけた。
な、なぜだ。
なぜわしは、負けかけている……?
この太號君が……。
ダラダラと鮮血を流しながら、太號君は問うた。
三光人は何をしている?
倀鬼どもはどうした?
我が兵はどこに消えた?
どれも答えの出ない問いであった。
あれほどの威容を誇った自軍が砕け散ったこと。そして、自分が死にかけていることは、太號君の理解を超えていた。
そして、その答えこそ、まさに太陽道士が紅衣神功と呼ぶ術であった。
食いつくように戦いの帰趨を見守っていた太陽道士は、決着を前にして前のめりに身を乗り出す。
「よくやった、小哪吒。紅衣神功――為せり」
「しかし先生、紅衣神功とはどのような技でしょうか」
水府での雌伏の期間、六は太陽道士に尋ねたことがあった。
「名前から察するに三昧真火よりも、さらに強力な火行の技ですか?」
「違う。火行とも五行とも関係ない」
「ではいったいなんですか?」
これまで太陽道士は、謎めいた仄めかしを度々呟く以外、紅衣神功について口を閉ざしていた。
痺れを切らした六は師へ詰め寄った。納得するまでは引かぬのが六である。
「六よ、紅衣とはなんだ? 人はいつ紅衣を纏う?」
「え……」
六はしばし考えたが、紅衣を纏った人物と聞いて一人しか思い当たる者がいない。
婚礼の日の姉である。あの日、姉は美しい紅衣を着ていた。
あまりにも鮮やかな記憶だったので、六はそれ以外の答えが思い浮かばなかった。
この答えは違うだろうな、と思いつつ六は師に言った。
「結婚、いや祝い事のとき、人は紅を着ます」
「そうだ」
以外にも太陽道士は頷いた。正解だったらしい。
「紅衣とは嫁衣と言い換えてもよい。婚礼のめでたき日、人は紅衣を纏う」
六は混乱した。
師の言葉は謎に満ち溢れている。
「それが太號君を倒すこととどう関係あるのですか? 紅衣神功とは天理を覆すほど強力な技ではないのですか?」
「大いに関係ある」
と言ってから、太陽道士は高らかに謳った。
「――親しき者の為に奔走し、紅衣を贈らん。飢えた者の為に食事を炊きあげ、凍える者の為に綿入を織らん。笑声絶やさず他人に尽くし、敵より友を殖やさん」
「……?」
「以上だ。これが、紅衣神功の全てだ」
「はい?」
「分からぬか。紅衣神功とはつまり、仲間を作る術なのだ。今のはその為の心構えだ」
「そ、それが天理を覆す技なんですか」
「そうだ。これこそ究極の奥義だ。ただし言うは易し、行なうは難しよ」
六は見事にそれを為した。
劉与洪宣を始めとする屠虎の道士、霊狐とその配下、荊棘姫、永雲龍王とその娘子援……。
誰一人欠けても、太號君を追い詰めることはできなかっただろう。
そして、己の力のみを恃む太號君には、自分を追い詰められている理由は永遠に分からないだろう。
ただし、太號君にも、自分が死にかけていることは分かっていた。
この目の前の女を殺さねば、殺される。
己が生存のため、太號君は爪を伸ばし、触れる物全てを引き裂く一陣の旋風となって、飛翔した。
対する六は、生死をかけた戦いの最中とは思えぬほど、穏やかな表情を浮かべた。
六はずっと問い続けていた。
この世は不可解で謎に満ち、知らぬことで溢れていた。
問い、教えられ、学ぶと、また新たな疑問が生まれた。
――しかし今日は一つ、答えが見つかったぞ。太號君よ、お前を葬る方法だ。これは我一人の力に非ず。
六はその答えを破壊の化身となった太號君へとぶつけた。
心は磨かれた鏡の如く静かに、相手の殺気を映し、同時に練り上げた自身の気を三昧の炎と化す。
相手の力を、そのまま相手へと転がす。肉体の奥へと深く深く。
「――これが私の答えだ。明鏡真火転力浸透脚」
自身の力に加え、向かってくる太號君の力をも乗せた六の蹴りは、虎の頭を叩き割った。
次いで妖虎の肉体も木っ端みじんに弾け飛んだ。
六は自分が発したはぁ、はぁ、という音で肺が上下するのを感じた。胎息が行えていない。
だがもういい、今しばらくは……。
終わった。
そう思うとどっと疲労が湧いてきて、六は地面にへたり込んだ。
太號君は倒され、その軍も岩壁にぶつかった波のように砕け散った。
……終わった。
勝利の実感はまだ薄い。ただ心地よい疲労感がある。
はは、立てないや。
だがまさにこの瞬間、である。
勝利によって緊張が緩み、満身に受けた傷と疲労で小哪吒がへたり込んでしまったこの時こそ、彼女を狙う暗殺者にとって絶好の機会だった。
湘塘龍王の遺臣、南宮濤。
鰐の如き鱗を持つこの鮫人は刀を手に、潜んでいた地中よりわっと出現した。
「我が君の仇! 覚悟せよ!」
南宮濤は全身全霊で幅の広い大刀を振り下ろした。
常であれば容易く一蹴できるであろう一刀だが、六にはもはや体を動かせる気力がない。
ああ、ダメだ。
六がそう覚悟した刹那、背後からさっと飛び出す影があった。
「おっとそうはいかねえよ!」
「妹弟子に手は出させん!」
劉与と洪宣。二人の師兄である。
洪宣が大刀を受け止め、その隙に大力の劉与が拳をめり込ませる。
南宮濤が血を吐きつつ地に叩きつけられると、一斉に兵たちが群がり、起き上がる暇もなく、刺客を取り押さえた。
「最後の最後で油断するなよ、六」
「えへへ、助かったわ、劉兄、洪兄」
劉与と洪宣に助け起こされた六は、何とか右手を天に突きあげた。
万雷の勝鬨が沸き起こり、天が揺れ、地が湧く。
ついに戦いは終わった。
小哪吒は、見事太號君を打倒した。
戦いが終わり、半年後。
冬が来て、再び新緑と花の季節が巡ってきた頃。主の消えた風箭谷に、新たな統治者が現れた。
左右に人間の臣を配し、霊狐公の支援を受け即位したその者の名は、李六。人呼んで小哪吒の李六である。
彼女が生きている間、北方の妖怪は人を害することはなく、その遺風は小哪吒の死後百年経っても、なお続いていたという。
了
岡本綺堂先生の中国怪奇小説集を読んでいたときのことである。
一編の掌編が目に留まった。
あらすじはこうである。
人を食らう怪蛇に村人たちは生け贄を捧げ宥めていたが、自らを生け贄にして欲しいという少女、李寄が現れる。
その李寄はノコノコとやって来た怪蛇に、剣と蛇食いの犬と共に立ち向かい、なんと怪蛇を倒してしまうのだ。そして李寄は蛇が残した人骨の前でこう言う。
「可哀想に。あなたたちは弱いから、こうなってしまったのだ…」
李寄はやがて越王に見初められ、王の婦人となったという。
原話は1700年くらい前に書かれた掌編らしいが…ツッコミどころがありすぎる。
なんやこの女、野生のサイヤ人か?最後王様の妃になったみたいだけど、王様だって絶対飼いならすの無理だろこれ!
この剛毅な少女に相応しい物語を書きたい!と思い立ちこの作品が生まれました。
さらに余談ですが、この作品に登場する荊棘姫のモデルである荊棘花・越女も、やはり越の国の烈女であり、二人の生まれは近く、李寄と越女には何か関係があるのかもしれません。
さて、ここまで読んでくれてありがとうございました。
一言でも感想など頂ければ励みになりますので、宜しければお願いします。
ではまたどこかで会いましょう!




