第三十六回 竜虎相搏つこと
三万の軍を率い、六は風箭谷に到着した。
迅速な進軍であった。
「四聴、いい仕事だったよ」
と、六は軍を先導した四聴を褒めた。
「いや、そんな」
褒められた嬉しさから、四聴は相好を崩し、頭を掻いたが六は真面目な顔で続けた。
「お世辞でも嘘でもない。見な、太號君の陣のみすぼらしさを。とても総勢五十万を数える陣容には見えない。あれでは精々が三、四万……十分の一以下。兵を集める時間がなかったんだ。四聴が早く兵を進められたお陰だよ」
兵力は五分。
相手の陣を眺めつつ、六はそう見た。
ならばあとは気力の勝負となる。
こちらには進軍してきた疲労があるが、それを打ち消すように兵士たちには戦意があった。
六の率いる兵たちは黒風を破り、金華娘に大敗した後も諦めず立ち上がった、不屈の兵が中心である。
歩んだ戦場が彼らを熟練兵に変え、陣中に鋭気が充満していた。
勝機は十二分。
六は振り返り自軍を眺めた。
左右には劉与と洪宣、そして屠虎の同志たちが、その時を今か今かと待っている。
「さあ行こうか、みんな」
永牙を掲げ、六は兵を率い陣を出た。
陣太鼓が打たれ、小哪吒軍は前進した。
ドン、とさらに太鼓の音が響き小哪吒軍の勢いが増した。
太號君軍はまだ動かない。
ドン、ドン、と太鼓が打ち鳴らされ、小哪吒軍は鬨の声を上げた。
太號君軍はまだ動かない。
――おかしい。なぜ奴らは動かん。
小哪吒軍の将にそのような疑問が生じた瞬間、戦場に旋風が巻き起こり、その風を浴びた小哪吒軍の兵がバタバタと倒れ始めた。
「なんだ!?」
異変に気付いた劉与が一瞬足を止めたが、すかさず六が叱声を上げ、進むよう促した。
「劉兄、兵を止めるな! 私が守る!」
ここで止まったら死ぬ。
一旦勢いに乗ったら、相手を叩きのめすまで止まるべきではない。
六の本能がそう言っていた。
太號君め。風を箭とするか!
風箭谷とはよくいったものだ。
六はキッと陣の向こうにいるはずの仇を睨みつけた。
龍吟雲起、虎嘯風生。
龍が吟ずれば雲が起こり、虎が嘯けば風を生ず。
雲従龍、風従虎。
雲は龍に従い、風は虎に従う。
妖虎太號君ならば、風を恐るべき不可視の矢に変えて放つくらいわけはない、ということか。
だが、いま私の手には永牙がある。
軍の先頭から、さらに抜きんでて前に躍り出た六は、永牙を一閃した。
龍王の牙が舞うと、兵を襲っていた風の矢がピタリと止む。
永牙に乗せた六の剣気が、風を斬っていた。
「ほお……我が 魔風を受け止めた者がいる」
陣の奥で太號君が唸った。
術が破られたこのとき、初めて太號君は本当の意味で六を意識したといってよい。
「面白い。わしが食ろうて倀鬼にしてくれるわ!」
太號君は舌舐めずりをして起った。
虎もまた自ら武器を取り、前線に向かった。
風の矢を断ち斬りながら、六は敵陣に切り込んだ。
六の背後にはさらに屠虎の同志、荊棘兵、そして霊狐に従ってきた古参兵が、土煙を巻きあげながら続く。
怒涛の勢いに乗って雪崩れ込んだ小哪吒軍に対し、太號君軍は完全に出鼻を挫かれる格好となった。
互いの先陣がぶつかり合うと、太號君軍は大きく乱れた。
――上手く噛み合ったか。
風の箭でこちらの勢いを殺したところを攻め潰す、というのが太號君の策だったのだろう。
しかしこちらの勢いは止まらず、相手からすれば裏目に出た格好となった。幸先がよい。
「このまま行くぞ!」
六は気炎を上げ、さらに走る速度を上げた。
客観的に見れば突出したとも言えるが、まるで無人の野を往くが如く、六の行くところ敵兵は蹴散らされた。
永牙の一振りで十体もの妖怪たちの体が引き裂かれ、二振りで二十の妖怪が挽肉と化した。
後ろには仲間がいると信じ、ちらりとも振り返らず、ひたすら前だけを見て六は進んだ。
前へ、前へ……。
六は一瞬、二年前ただ一人で妖怪の軍に向かっていった日の事を思い出した。
あの日は前後左右から追い立てられ、離れれば矢が、立ち向かえばたちまち槍衾が襲ってきた。
だが、今日は違う。
背後に敵が回ることはない。荊棘姫が守っている。
左右から攻められることはない。兄者たちが敵兵を抑えていてくれる。
私は目の前の敵を裂くだけでいい!
六の眼前に巨大な鉞を担いだ黒牛の妖怪が現れた。
ブォォォォォォォという鳴き声を上げながら、黒牛怪は大鉞を振りかぶる。
「おおお……」
六は息を吐きながら相手の鉞目掛けて永牙を振るった。
がつん、と音とともに火花が散り、黒牛怪は弾き飛ばされた。
すかさず六は追撃に入り、鉄の鎧ごと黒牛怪の体を両断する。
黒牛怪の大きな体が地に伏せると、俄かに視界が広がった。
その瞬間、六は時間が静止したように感じた。
百歩も離れていないところに、鎧に身を包んだ妖虎の姿を認めたのである。
六は、太號君を見たことがない。
これが初対面である。
しかし、虎の発する妖気に覚えがあった。
塵となり消えていく師兄の体に、こびりついた妖気と同じものあそこにいる。
六は目を見開いた。否、見開くという表現では足りない。眦を裂いた。
自分でも気付かぬうちに叫び、百歩の距離を飛び越えた。
「太號君! たいごおおおおおおくうううん!」
「呵呵呵呵呵呵! 貴様が小哪吒か! 会いたかったぞ!」
戞。
六の持つ神槍永牙と太號君の偃月刀岳崩がぶつかり合った。
激突の衝撃で天が揺れ、大地がめくりあがる。
戦場の只中で、誰もが二人に近づけず、大将同士の戦いは、完全なる一騎打ちとなった。
「ほう。岳崩を受け止める者が現れたのはいつぶりだ。どうだ、金華娘の代わりに我が爪とならぬか」
「黙れ。そのそのふざけた傲慢も今日限りだ」
「さて、傲慢かどうか試してみるがよい」
言われなくとも、そうしてやる――三昧真火。
闘志がそのまま形となったかのように、六の体から炎が迸った。
灼熱の火炎は、永牙の刃の上で一際赤々と燃える。
その状態で永牙を振るうと、六は炎の渦と化した。
熱と剣気が吹き荒れ、触れる者を焼きながら引き裂く小さな嵐である。
しかし、岳崩を握る太號君もまた、一種の天災であった。
太號君の巻き起こす風は鋭利な刃となり、岳崩の斬撃は雷を生じさせる。
六と太號君は真っ向から打ち合った。
剣気と妖気がぶつかり、炎と雷が互いを圧倒しようと競り合う。
太號君の刃を受ける度、刃を通して雷撃が奔り、六の体を痺れさせる。
腕が麻痺し永牙を落としそうになるのを、必死でこらえた。
肉の焼ける匂いがする。
私が苦しいように、太號君もまた私の炎に苦しんでいる。
これは我慢比べだ。と、そう思うと、痛みも和らいだ。
「どうした、太號君! 娘一人殺せねえか!」
「……!」
槍と偃月刀を交え打ち合う度、太號君の顔から少しづつ笑い剥がれ落ちていく。
十合打ち合ったとき、太號君の本性が剥き出しとなっていた。
もはや虎は笑っていない。
「ぬかせ」
唸るようにそう言った太號君は、一瞬身を屈めた。
虎が獲物を襲う瞬間の伏虎の構えである。
次の瞬間弾かれたように動き出した太號君は、刃を受け止めた六を受け上から突き飛ばした。
二人の間合いが離れた瞬間、太號君が岳崩を振りかぶる。
「喝っ!」
霹靂一声。
岳崩が振り下ろされると同時に、天から雷が降った。
稲光が閃き、ドォォォォォォォンという凄まじい轟音が巻き起こると、太號君の持つ恐るべき威力に戦場の兵たちが戦慄した。
岳崩の名の通り、岳を崩すほどの雷が六の体を貫いた。




