第三十四回 小哪吒が宝槍を賜ること
金華娘の軍を蹴散らした六は、霊狐の元へ復命すると、二日間斎戒沐浴し身を清めた。
空前の豪雨のため、各地の泉の水は濁っていたものの、兕角山の泉は清らかなままこんこんと湧き出ている。
そのような泉の中の一つの前で六は衣服を脱いた。
露わとなった裸体は、六のこれまで歩んできた道を雄弁に物語っていた。
脂肪をそぎ落とし、代わりに筋肉で覆った引き締まった体。
小さな傷は無数にあるが、控えめに膨れた胸、女性の象徴ともいうべき乳房の下には、特に大きな傷がある。
二年前、金華娘の毒針によってつけられた傷だった。
李のような小さな尻と、そこから伸びる大腿にも大きな傷があった。
龍王と共に地上に叩きつけられた際の傷である。
また先の戦いでも、首筋から肩甲骨をなぞるように走る、新たな傷が追加された。
その傷口に手を添えた六は、金華娘のことを思う。
三昧金剛、恐ろしい技だった。
彼女との戦いを思い返すと、六の全身の傷が熱を帯びた。
体から戦いの余熱が去っていない証拠である。
これはよくない。
と、六は泉の中に入り、頭まで水中に沈めた。
太號君との戦いを目前にして心も体も昂っている。
無理もないと言えばそれまでだが、六は厳しく己の心を律し、心頭を滅却しようとした。
仇を討つといえば聞こえは良いが、それは所詮私事、個人的な恨みにすぎない。
恨みでは、同じ思いをしたものしか動かせない。
それはそうであろう。
誰が他人の恨みのために、命を賭して戦うというのか。
大儀に、殉じる。
太號君を倒すためには、そうでなくばならない。
問題のすり替えではない。お為ごかしでもない。
私が戦うのは、太號君に傷つけられた、全ての者のため。
そして太號君に脅かされてる、全ての者のため。
章兄。王進師匠。彭幹さん。
見ていてくれ。
李六は、万民のため、これより妖虎を伐つ。
泉の中、六は人知らず厳かな誓いを立てた。
それにしても六は火行の星の下に生まれた女でありながら、水とも因縁深い女である。
六が初めて名を成したのは、里を脅かす大蛇を倒した時だった。いうまでもなく、大蛇は沢の主である。
一度金華娘に敗れた際は、六は水府にて息を吹き返し、そこで力を蓄えた。
後に六は龍王の娘を救出し、その功が遠因となって金華娘を倒した。
――どんなものでも燃え続けることはできない。
そうしようとすればいつかは燃え尽きてしまう。
長く燃えるためには、定期的に火を消す必要がある。
六が度々水と関わるのは、六という炎を絶やさぬため、天がそのように定めているかの如しだった。
泉から上がった六は一体の妖怪に呼び止められた。
「李六殿、お客人がお見えです」
「誰ですか?」
「水府のご使者だと申す方で」
永雲龍王の使いか、と呟いたあと、六は頷いた。
「分りました。すぐに会います」
客の待つ部屋に入り、その顔を見た瞬間、六はあっと叫んだ。
「ら、雷将軍。これは、これは」
と、六は少なからず驚き、使者に揖礼した。
水府の使いとしてやってきたのは雷導という男だった。
雷導は代々武官として王室に仕えてきた名門の家系の出であり、その血筋と勇武を買われて永雲龍王の近臣となった男である。
使者として趨走することはあまりない立場のはずだが……と目を細めつつ、六は逞しい武辺者を眺めた。
「先日の雨には助けられました。龍王様にはなんとお礼を言ってよいか……」
六の言葉を遮るように、雷導は掌を向けた。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。それに例の件で礼を言わねばならぬのはこちらゆえ、な。さて、俺が来た理由を不思議がっているようだな」
雷導は眉宇に柔らかさを見せて言った。
「今日は我が君から預かってきたものを届けに来たのだ。並の男では運べぬ大変な代物ゆえ、俺に白羽の矢が立ったというわけだ」
「龍王様からの届け物ですか」
「おう。それが、これだ」
雷導は細長い箱をずいと前に出した。
蓋を開けると、一振りの見事な槍が収められている。
六は目を落として、その槍を見てから再び顔を上げて雷導を見た。
「これを頂けるのですか!」
六は感激し、目上の者に接する際の外面が少し剥がれた。
内心は玩具を与えられた子供の様にはしゃいでいた。
「おう。小哪吒のために、我が君が拵えさせたものだ。何も遠慮することはない、手に取って見よ」
槍を持ち上げた瞬間、六は僅かに瞠目した。
手に吸い付くかのような、握り心地。同時にずっしりした重量感を感じる。
「柄の長さ五尺五寸、刃渡り一尺二寸。槍としてはやや小ぶりなのは、小哪吒の体躯に合わせたゆえ」
「はい。確かにこれぐらいがちょうどよいです」
「柄の材質は神氷鉄、刃に用いているのは、我が君御自らの牙! 総重量五千斤! 並の者なら振るうどころか、持ち上げることすらできまいが、流石小哪吒だな」
六をして瞠目させた秘密は、その重さにある。実に五千斤、並の者なら振るうどころか、持ち上げることすらできまい。
「なるほど、これを届ける役目が将軍でなければならない理由が分かりました。永江の水府でも、単身これを持ち上げられる剛の者は、永雲龍王を除けば雷導将軍ぐらいなものでしょう」
内心そう納得しつつ、六は笑声を放った。
「良い槍です。どんな相手でも砕けそうだ。」
「とはいえ、五千斤。果たして扱えるかどうか、試させて貰う!」
言うや否や雷導は腰の刀に手をかけ、抜刀すると同時に六に斬りかかった。一連の動作は一種の居合斬りである。
電光のように動いた雷導だったが、刀を振り切る前に首筋に刃が当てられているのに気が付き、動きを止めた。
「うっ」
不意打ちに近い一撃だったが、苦も無く抑えられたことを悟り、雷導は嘆息した。
「見事だ」
「槍のおかげもあります。いまこの槍は風すらも斬った。それゆえ剣風さえ起きない。持つと重いが振ると軽いんです。この槍の名はなんと?」
「先に申した通り、刃には我が君永雲龍王の牙を用いている。それゆえ、永牙と申す」
「無双の槍、永牙。確かに受け取り申した!」
六は雷導に深々と礼をして、永牙を押し頂いた。
雷導との面会を終えると、すぐに六は蓮香と四聴に会い、軍勢の通り道を確認した。
六が龍王に雨を振らせて貰った際、全ての地域に同じ量の雨を降らせたわけではない。
味方の拠点となっている場所には少なく、敵の支配域には多く降らせたのは勿論だが、単純にそうした場合降雨による増水のせいで、侵攻に支障が出る可能性がある。
そうならぬよう、六は軍隊の通り道を確保できるように、計算して雨を降らせたつもりである。
あらかじめ蓮香と四聴にはそのことを伝えており、斥候を放って道を確認させていた。
「普通の道は全て寸断されていますが、山の中を進む道なき道は進めることを確認しました」
四聴の報告を聞くと六は満足げに頷いた。
「では、また先導をお願いします。今度はあの時よりも大変だと思いますが」
「二度も小哪吒の露払いをしたことは、末代までの自慢になる。楽しみですよ」
と、四聴は歯を見せた。
かつてない死闘に赴く兵の様子とは、まるで思えない陽気さである。
緊張感がないわけではない。
ただ四聴は、いま自分が歴史のうねりともいうべき、何か大きな流れの中にいることを感じていた。
そしてうねりの音に四つの耳を澄ますと、中心には六という女がいる。
その先導ができるのなら、過分な名誉であると四聴は思った。
出師の準備が全て整うと、霊狐は兵を整列させ、陣頭に六を呼び自らは一歩引いた。
名を呼ばれると六は軽い驚きを見せた。
僅かな数の屠虎の同志を除けば、軍構成する大部分は霊狐の元に集まってきた妖怪であり、これまでも霊狐の軍を名乗っている。
六自身これまで霊狐を援ける、という名目で動いていた。
だが、これではまるで……。
「躊躇わずともよい。誰が太號君を討つ者か、みな、知っている。さあ」
霊狐に促され、六は前に進み出た。
雨工の戎衣を纏い、龍王の槍を手にした六が台上に姿を現すと、集まった妖怪たちはあっと息を呑んだ。
六の美貌に見惚れたわけでも、名高い武威に怯んだわけでもない。
それが何か説明する言葉を妖怪たちは持っていなかったが、一言で言えば神聖さであった。
六より立ち上る気が五色を纏っていた。その気を目で追うと自然と見上げる形となる。
万人から見上げられる者、すなわち王者の気である。
「う、お……」
台上の六からは整然と並ぶ妖怪の姿が見える。
「往古、黄帝は徳を以てこれを守り、刑を以てこれを伐つことで天下を治めた」
六は高らかに諳んじた。
「しかるに、いま黄帝の定めし道を一匹の虎が立ち塞いでいる。これを見過ごせば人も妖もなべて奴隷に落ち、命脈は尽きるだろう。我が望みは天道を正すこと――」
そこで六は一呼吸おいて一段と声を張り上げた。
「――我、諸賢ら地祇の力を借り、天の意いを叶えん! ただ今より太號君を伐つ!」
「おう!」
歓声が上がり、 六の率いる軍勢は揚々と出撃した。




