第三十一回 炎が水を呼び、天応え地が震えること
前線の崩壊、敗走、そして容赦のない追撃。
一時は霊狐の居場所が分からなくなるほど、霊狐軍は混乱した。
もはや組織は崩壊していたため、兵たちは各々の判断で動くほかなく、霊狐軍の兵は犠牲を払いながらそれぞれ近隣の砦に散った。
敗走し撤退する最中のことである。
各地で雨が降り始めた。
傷をさすり、空腹を堪え、雨に打たれながら、敗残の兵は歩いた。
剣は折れ、誇りは砕かれた。彼らの惨めさはここに極まったと言える。
せめてもの僥倖といえば、金華娘も霊狐の行方を見失い、また霊狐軍も霧散してしまったため、主たる攻撃目標がなくなり、攻め落とした陀熊山に入城したまま、一時その進軍が停止したことである。
束の間、干戈の音が止んだ。
そしてこのとき、敗残兵を収容した拠点の間を走り回る、密使の姿があった。
その使者が城門の前に現れ笠を上げて顔を見せると、門衛に就いていた者は一様に驚いた。
「李六殿……」
「任務お疲れ様です。このような苦難の時にこそ本性が現れるといいます。いまは踏ん張りましょう」
六は無名の兵士を励ましてやってから尋ねた。
「いまここを率いているのは誰ですか」
「は、劉与殿と洪宣殿です」
「おう、劉兄たちか。会わせて欲しい」
「ただちに……」
戦場であった陀熊山から南下したところにある小さな砦で、六は師兄たちと再会した。
ただし、敗戦直後の二人の表情は暗い。
「六……。龍王の用事は済んだか?」
「はい。色々あったけどこっちはもう大丈夫」
「そうか。お前が居らぬ間に、こちらでも状況が動いた。良くない方に、な」
「陀熊山の戦いは聞いているよ、洪兄」
そこで劉与が被せ気味に口を開いた。
「それだけじゃない。彭幹が死んだ」
その言葉に、六の視界が揺れた。
「彭幹さんが……」
六と彭幹の付き合いは、短い。
が、その短い付き合いの中でも、組織の運営において、彭幹には随分助けられた。
それもあからさまに助けるのではなく、嫌われ者を買って出るという形で彭幹は組織に尽くしていた。
私欲が少なく謙虚でなければ、そういう発想は出てこない。出てきたとしてもやらない。しかし、彭幹はそういう男だった。
――生きるべき人間がまた一人、太號君によって殺された。
六は唇を噛み、静かに憤った。
「最期は、どうだった?」
「陀熊山の戦いで俺たちは奇襲に失敗して、返り討ちにあった。そのときあいつが殿を請け負って――おかげで俺たちは生きている。最後まであいつらしかった。美徳を貫いたんだ」
「あの人には、もっと生きてて欲しかった」
「……ああ」
しんと一瞬場が静まり返ったとき、六は息を吸った。
「いま、私たちはどん底に居る。向こうは大軍。私たちは敗れて、散り散りになった。仲間も失ったわ。けど!」
六は言葉に力を込めた。
「陰、極まれば則ち陽に転ず! いつまでもこのままであるはずがない! 次の戦いは彭幹弔い合戦だ! 泉下の彭幹が手を拍つような、見事な戦いを! そうだろう兄者!」
六の言葉には熱がこもっていた。
そう思って二人が改めて六を見ると、その所作全てに熱がこもっていた。
敗残の身には、その熱が心地よい。
六の声が沁みると、腹の中で消えていた火が、再び灯ったような気がした。
「どうやら作戦があるようだな、六。だが、お前の言う通り向こうは大軍だ。どこでどう戦う気だ?」
劉与に問われ、六は即答した。
「兕角山にて。そこで金華娘ともう一戦する。もう霊狐公にも話を付けてあるわ。兄者たちもなるべく早く来て欲しい。作戦の仔細は後日」
それだけいうと、六はすぐ笠を被り旅装に戻った。
「どこへ行く?」
「他の砦にも伝えにいく。それじゃあ兕角山で、また!」
そうして、慌ただしく六は発った。
残された二人は肩をすくめる。
「来たと思えば出て行った。全く、嵐のような奴だな。ついて行くのも一苦労だ」
泥をはね上げ、凄い速さで山野を駆けていく六を見つめながら洪宣が呟いた。
その隣で劉与が笑う。
「はっ! お前は昔、六のことを穆王の馬の如しと言っただろうが。俺たちがそれに付いて行くなんて烏滸がましいことだ! 俺たちのような凡人はな、六の驥尾にしがみ付くのよ!」
「じゃあ今度もしがみ付くか」
「無論だ。それに金華娘や慕容及には、借りを返さんといかんからな」
劉与と洪宣は目を交わして頷き合った。
外ではまだ雨が降っていたが、いかんともしがたい敗戦の空気は、いつの間にか払拭されていた。
六が伝えたのは希望である。
その希望により、屠虎の同志に再び闘志が戻った。
さて、六が決戦の地に選んだのは兕角山、という地だった。
兕とは、犀に似た一角獣のことである。かつて黒風はこの獣に自身の車を牽かせていた。
その兕が多数生息しているのが兕角山であり、山自体も自体も兕の頭部にある角を思わせる。
周囲の山の中でも一際切り立った、高い山であった。
六は各地を趨走して、その兕角山に兵を集めた。兵力はおよそ三万ほどである。
そこには劉与や洪宣のほか、霊狐や蓮香、荊棘姫などの主だった将も、六の呼びかけに答え集合していた。
お互い生きていたことを喜びあってから、洪宣は窓から周囲の地を見つめ、首をひねった。
兕の角は濡れていた。
しとしとと降る雨は何日も止まず、長い雨となっている。
「確かにここなら大軍の運用は難しい。が……」
洪宣の言葉は最後まで続かなかった。
兕角山は周囲を小高い山で囲まれ、大軍の展開が難しい。
そこに至る道ですら、無理に山越えをする以外は、グネグネとうねる山と山の間の狭い道を通るしかなく、向こうは移動に手間取るだろう。
そういう意味では、ここで大軍を迎え撃つのは、理に適っているように思える。
しかし、通れる道が限られているということは、同時に包囲しやすい場所ということでもある。
洪宣の懸念はそこであった。
大軍を展開できないなら、恐らく金華娘はまともに戦いはするまい。包囲して飢え死にを狙うだろう。
――助けの来ない籠城に希望はない。
とすれば、六は一体どういうつもりで、ここを戦いの場に選んだのだ?
それは洪宣ばかりでなく、集まった全員に解けない謎だった。
「予め軍を分け、一部を遊軍とし、敵の背後を襲わせる、とか?」
そう蓮香が言うと荊棘姫は首を振った。
「その程度の戦術では金華娘は崩せぬ。返り討ちに合うだけだろう。李六もその程度のことは分かっているはずだ」
「勿論だよ、荊棘姫」
湿り気のある空気を吹き飛ばすような、澄んだ声が響くと、全員の視線が声の主に集まった。
「六!」
「みんな、再会できて嬉しい。さあて、虎の爪をへし折るぞ!」
「いや待て。その前に何を企んでいるか、そろそろ教えて欲しい」
六が姿を現せると、ここ数日そのことで悶々としていた劉与が尋ねた。
「陀熊山の戦いの経緯は聞いたよ。それを考えると、金華娘という女のことが少し見えてくる」
六は所見を述べた。
「以前、私が金華娘と戦った時もそうだったけど、あの女、派手な格好しているくせに、戦い方は堅実だ。奇策を用いることは少なく、常に大軍の利を活かした正攻法で向ってくる。今回のような場合まず間違いなく、私たちを包囲するはず」
では、なんとする?
全員が無言でそう尋ね、六の言葉を待った。
すると、六は唐突に話題を変えた。
「みんな、ここに来る途中で雨に打たれただろう。近頃ずっと降りっぱなしだ」
「で、金華娘はどうするんだ?」
我慢できずに劉与が尋ねると、六は声を潜めて言った。
「この雨――私が降らせてる、と言ったら信じるかい、劉兄?」
「はっ。なにを……」
劉与はかぶりを振って、六の反応を待った。
しかし、六はいたって真面目な顔をしたまま、劉与を見つめ返す。
劉与がその意味を呑みこむのに、数秒を要した。
劉与は瞠目した。
――まさか、そんな、馬鹿な!
劉与だけでなく、その場の全員がのけ反るほど驚愕した。
「ほ、本気で言っているのか、六」
「龍王の好意でね。皆、いまから暫くは、この山を出るなと部下に厳命して。出ると、死ぬからね」
さらりとそう言い放つ六に、全員が絶句し声を失っていた。
「……信じられんことをする奴だ」
荊棘姫だけが、かろうじてそう漏らした。
霊狐軍は兕角山に集合している。
その報告を受けた金華娘は、直ちに行動を開始した。
山に挟まれた隘路を、十万の大軍が往く。
だが、この進軍は難儀した。
途中で、雨が強まったのである。それでも金華娘の指揮には疎漏がない。
彼女は事前に斥候を放ち周囲を調べさせていた。部隊を分けて四方の道を封鎖させると、自身が直接指揮する中軍は、兕角山を望む小高い山中に布陣した。
これでよし。後はじっくり攻め潰すだけ。
金華娘は扇子で口元を隠しつつほくそ笑んだ。
詰みじゃ。
金華娘には確信があった。
しかし、状況はここから金華娘の予想もしなかった事態へと発展する。
雨が止まない。
それどころか、刻一刻と激しさを増していく。
それは誰も見たことがないほどの雨となった。
降り注ぐ水、水、水。
肩を叩けるほどの距離にいる相手に、声を張り上げなければ言葉が伝わらないほどの、雨音。
天の底が抜け、天の川の水が注ぎこんだのではないかと思う者すらいた。
金華娘配下の妖怪たちは知る由もないが、もしも頭上を仰ぎ見ることができたなら、雨を降らせる黒雲の中に、躍動する龍王の姿を見ることができただろう。
前代未聞の災害に、金華娘の微笑は消えた。
――なんだ、これは。何が起きている!?
金華娘の胸裏に焦りが生じたと同時に、大水によって兕角山の周囲にある山が崩れ始めた。




