第三十回 勇士斃れ、兵敗走すること
霊狐軍と金華娘軍は、かつての黒風の居城、陀熊山にて相対した。
当初十二万を数えた金華娘軍は、度重なる襲撃にやや数を減らし十一万を下回る程度。
対して、集めに集めた霊狐軍の兵力は七万。これに荊棘兵を加えると七万三千となる。
帰還して霊狐に復命した荊棘姫は、思いのほか多く集合していた兵の数に驚きを見せた。
しかも寡兵だというのに兵の士気は高い。勝機が見えてきた思いだった。
「ご苦労だったな、荊棘姫」
「いえ、我が君の積み上げてきた陰徳に比べれば、大した仕事ではありません」
と、荊棘姫は霊狐を持ち上げた。
「我が声望も捨てたものではなかったな。もっともそれだけではないが」
戦いには、というより、人の営為そのものには、押しなべて流れがある。
太號君は霊狐と黒風を食い合わせ、互いに戦力を削らせようとした。
その考えは一見正しいが、物事には表と裏があり、表層だけを見てその裏側を知ろうとしなければ、時に手痛いしっぺ返しを食らう。
今回の場合、小哪吒という戦力を得た霊狐は大方の想定より遥かに迅速に黒風勢を下した。
そのため霊狐軍の傷は少なく、元来あった徳望に加え、戦いにおいても強壮であることを周囲に示し、却ってその勢いを増した。
そのせいで戦いに志願する兵の数も増えていた。
霊狐の言葉はそのことを踏まえての発言だった。
「荊棘姫、率直に申して欲しい。彼此の強弱は如何?」
「今は互角に渡り合えましょう」
荊棘姫は含みを持たせて言った。
「今は、か」
「はい。そして天秤を傾ける為に必要な労力は、我が方の方が多い。敵は少しの勝利を得ればよく、逆に我らには大勝が必要です」
「言いたいことは多いが、泣き言を言っても始まらぬ。大勝が必要なら用意する他ない、か」
霊狐は苦し気に瞑目した。
金華娘が陀熊山の前に布陣して二日。
夜明けと同時に、一台の馬車が霊狐軍の陣前ヘ現れた。
その馬車から颯爽と舞い降りたのは、太號君から兵を預かった総大将、金華娘その人である。
煌びやかな玉佩を揺らしながら、金華娘は陣へと近づいた。
門まであともう十歩ほど、というところで霊狐方の陣門を開け放たれ、荊棘姫が金華娘の前に立った。その背後には彼女の手勢、荊棘兵が続く。
両女傑は、互いに値踏みするように視線を絡ませた。
やがて金華娘は荊棘姫をふっと鼻で笑った。
「そなたは誰じゃ? 小哪吒はなぜ姿を見せぬ?」
「太號君の賤妾如きが知る必要はないだろうよ」
「……まあよい。霊狐とその配下の者たちよ。直ちに矛を収め我が君に恭順するのならば、わらわはあえてそなたらを殺すまい。疾く疾くそのようにせよ」
「ハハハハ! どこの馬の骨か知らんが、道理に合わぬことを言う! 兵も将も砦も健在の軍が、なぜ降らねばならぬ?」
尊大な金華娘の言葉を聞いて、荊棘姫は声を上げて嗤笑した。
だが金華娘は気にも留めず、ただ冷顔を向けた。
「ああ、分ったぞ。我が軍の周りをこそこそと鼠のように這いまわっていたのは、そなたか。では、望み通り敗北と死を与えようぞ。天に代わりて、弱き者に死を――殺殺殺、殺殺殺!」
その瞬間、十万の兵が一斉に動き出した。
旒旗が一斉に立ち、進軍を告げる銅鑼の音が大地を震わせる。
それはまさに山が動き、こちらを踏み潰そうとしているに等しい光景だった。
「来るぞ――!」
霊狐軍は方陣を組み、大軍の一撃を受け止めた。
衝撃を防ぐと、霊狐軍の陣は滑らかかつ素早く、機械仕掛けの歯車のように回転し、陣容を変化させ、逆に金華娘軍へと撃ちかかった。
妖と妖がぶつかり合い干戈の音を響かせる。
戦いは夜明けとともに始まり、陽が落ちかけてもなお続いていた。
北の大地とはいえ、暑い夏の日の戦いである。
吹き出した鮮血が河となり、脱落し地に伏せた兵からは腥い臭いが立ち上る。
それでも霊狐軍の士気はなお高かった。
半日戦いを続けなお互角という事実と、凄惨な戦場に立ち続けていることが、兵たちを異常な興奮状態にしていた。
――あとほんの少しで勝てる。
誰もがそう思いながら戦っていた。
「劉与殿――」
「――応!」
陽が落ちる寸前に、霊狐は劉与率いる屠虎の同志を中心とした部隊およそ千名に出撃を命じた。
死力を尽くした果て。
霊狐は最後の最後まで残していた切り札を切った。
「敵の側面を叩く!」
劉与らは戦場を大きく迂回し、林間を影のように静かに進んだ。
この一手を以て、戦いを終わらせる。
これで我々の勝ちだ。
誰もがそう信じ、暗がりの中をつき進む。
だが、林間に蠢くものは、霊狐軍だけではなかった。
「と、止まれ!」
劉与たちの進みは前触れもなく停止した。
伏兵、というよりも、偶然にも思惑がかち合い、敵もこちらと同じ行動をしていた、という方が正確だろう。
屠虎の同志たちが遭遇したのは、見上げるような巨怪の群れだった。
「おお……!」
剛腹な劉与でさえ、驚愕してのけぞった。
彼らが見たのは骨の妖怪だった。
それも何十、何百人分もの人骨が集まり一体の妖怪となった、巨大な妖怪である。そのような奇怪な巨人が見えるだけで数十体。
「な、なんだこれは!」
あまりのことに劉与が血を吐くように叫ぶと、思いがけず答える声があった。
「これを名付けて千骨と云う。我が君、太號君の妖術により作られた妖怪よ。俺のような倀鬼と同じくな」
千骨という、巨大な骨の妖怪の群れの前に、その男は一人立っていた。
巨怪を率いる男の肌は、ぞっとするほどに白い。それこそ骨のような色をしていた。
妖怪か?
いや、そうではない。
常とは異なる膚、そのことが劉与に男の正体を悟らせた。劉与の左右に居た洪宣や彭幹も、カッと目を見開く。
その男は人間だった。少なくとも、かつてはそうだった。
「お、お前はまさか……ぜ、絶人白魔、慕容及か! あの月覇門の……」
「その男は死んだ。いまここに居るのは太號君様の手足よ」
「オオオオオオォォォォ!」
千骨たちはオオカミの遠吠えのような唸り声をあげて、屠虎の同志へと襲い掛かった。
互いに混乱し、統率が乱れがちになる不意の遭遇戦は、双方示し合わせた会戦よりも、壮絶な戦になることが多い。
が、このときは慕容及の率いる千骨隊の一方的な殺戮となった。
屠虎の同志たちは速度を旨とする軽装騎兵の部隊であったが、巨人部隊である千骨隊は、一撃一撃がまるで破城槌であるかのような矛を振るう、超重装歩兵である。勝負にならない。
林ごと土ごと、屠虎の同志は粉砕され、千切れた肉片が木に掛かり、砕けた骨が地に蒔かれた。
――このままでは全滅する。
その確信が彭幹を動かした。
「劉与、洪宣! お前たちは兵を連れられるだけ連れて、退け!」
「お前はどうする気だ、死ぬぞ」
「まさか。私は太號君に勝つつもりだ。それしか考えておらぬ。そのためには、お前たち二人をここで殺すわけには行かん。それに……急に絶人白魔の首級が欲しくなった! これで私も武林に名を残せるわ!」
常に冷静さを見せる彭幹が、感情を剥き出しにして、吼えた。
「彭幹、さらばだ」
その覚悟を汲んだ劉与と洪宣は馬頭を返して退いた。
屠虎の同志として、もっとも古くから行動を共にしていた仲間との別れ。
半身を裂かれるような心の痛みを感じつつ、それでも二人は使命の方を優先させたと言える。
「おおおっ!」
絶叫しながら僅かな手勢のみで殿を務めた彭幹は、既に死兵であった。
生き残ることなど頭にない。
千骨の攻撃を巧みに躱しながら、巨大な体を駆け上ると、千骨の頭に剣を振り下ろし、両断した。
その戦働きは凄まじく、単身三体もの千骨を討ち取っていた。
そしてそれゆえに、彭幹は千骨を率いる慕容及の目に留まった。
武林にて名を馳せた豪傑が、ゆっくりと彭幹に近づく。
「知らぬ顔だが大したものだな」
「絶人白魔、来やれ――!」
「だが俺には及ばぬ」
絶人白魔、慕容及。その得意技は突きである。
中でも恐るべきは、切っ先が月に届くと謳われた必殺の突き技、人呼んで破月。
その間合いは彭幹が予想したよりも遥かに遠く、彭幹が気が付いたときには、既に刃は体を貫いていた。
一瞬の間をおいて、彭幹は自分の体が穿たれる音を聞いた。
敗れたり。
だが、不思議と彭幹に悔いはなかった。
次第に意識が遠のいていく。
「やはり我では、ここまでか……」
「恥じることはない。お前はよくやった方だ。我が君には何人も敵わぬ」
「くくく、何人も敵わぬだと? 馬鹿め。お前はあの者を知らぬ」
「あの者?」
「くくくく、ははははは!」
血を吐きながら彭幹は笑った。そしてその舌が、生き生きと動く。
あまりの気迫に、既に死人である慕容及の方が気圧された。
「匪たる君子あり――切るが如く、磋るが如く、琢つが如く、磨くが如し――! 後は、頼んだぞ!」
それだけいうと、彭幹はついに事切れた。
屠虎の同志たちの奇襲は不発に終わった。
林間から蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う霊狐軍の一隊と、それを打ち破った慕容及と千骨隊が現れると、一挙に戦況が動いた。
遁走する部隊の存在に霊狐軍は動揺し、さらに千骨隊が霊狐軍の側面を突くと、それまでピンと張っていた緊張の糸がぷっつりと切れた。
それまで互角に戦っていたのが嘘であるかのように、霊狐軍は崩れに崩れた。
「いかん、退け、退け――!」
霊狐が最後に下した命令がそれであった。
潰走が始まると、部隊も指揮系統も切断され、霊狐軍は霧散した。




