第三回 童女、息を正し歩を学ぶこと
李家でもてなしを受けた翌日、王進、章元、そして六の三人は朝早く、早く村を発ち、朱堂鏢局のある郡都・酉安へと向かった。
出発が早い理由は六が騒いだからである。
「よぉぉぉし! 朝がきたよぉぉぉぉぉぉ!」
鶏鳴より早く、六の声が屋敷中に響く。
王進と章元は沸騰したヤカンのように騒ぎ立てる六の声で強制的に目が覚めた。
「王師匠! 章兄! 早く早く起きて起きて! もう行くよ! 年取って死んじゃう前に!」
牀の上で章元はニッと笑う
「はっはっは! 朝から元気だなぁ、六は!」
「まだ朝ではないわ、たわけ」
と王進は不機嫌そうに言った。
「もうしばらくあの娘をおとなしゅうさせい、章元」
「はっ。私に策があります」
起き出した章元が戸を開けると、部屋の前には行李を背負った六が目をキラキラ輝かせながら立っている。
「六……」
「やっと起きたねえ章兄! さあ顔洗って出発するわよ!」
「うむ、元気があってけっこうけっこう。そんなお前にいいことを教えてやろう……全ての武術の基礎となる大事なものだ」
「えっっ! もう何か教えてくれるの? 何何?」
「胎息と言って周囲の気を取り込み、さらに取り込んだ気を体内で淀みなく循環させる呼吸法だ」
「どうやるの?」
「静かな気持ちでこう深く息を吸って……ゆっくりと長く吐く……まだだぞ、まだ吐く……吐ききったらまた息を吸う……吸う……吐いて、吐いて……」
ただ深呼吸してるだけじゃん。
と、章元の説明に、六はあからさまにがっかりした様子を見せる。
「……あの、これだけ?」
「喋るな。呼吸が乱れる。今度は私の動きを真似しろ。肺の動きに合わせて体を動かすんだ。吸って……吐いて……そうだ」
章元は深呼吸しながらゆっくりと体を動かした。まるで舞踊のような動きである。
六も何となくその動きを真似する。
「動きを覚えたら今度は体内の気の流れを意識して。気が体内の中心である丹田から経絡を巡って四肢の隅々にまで行き渡る様に」
「丹田ってどこ?」
「へその下辺りだ」
「分かった。すぅぅぅぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁぁ……」
「そうだ、いいぞその調子だ。どんな達人も呼吸を整えることから始めるんだ」
「すぅぅぅぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁぁ……」
狂った犬のように騒いでいた六だったが、章元には従順と言っていいほど素直に従った。
その様子を見て章元は内心上手くいったと微笑する。
「導引(呼吸に合わせて気を巡らす体操)のやり方は他にもあるが、これが一番基本的なものだ。まずはこれを何も考えず自然にできるようになりなさい。最終的には口や鼻でなく毛穴から呼吸できるようになる」
「何それすっげええ。あたし頑張るね章兄!」
「うん。いい返事だ。しばらくそれをやっててくれ」
章元は頷くとピシャっと戸を閉める。
こうして六が導引胎息を行っている間、幾ばくかの睡眠を得ることができた。
その後、起きだした王進と章元は朝食を摂ると、六の両親と姉たちに挨拶し、今度こそ六を連れて村を出発した。
すると、深夜の章元の策略がかえって仇となっていたことが判明した。
六は歩いている二人の周りを犬のようにグルグルと走り回り、「次は? 次は何教えてくれるの?」と何度も訊ねる。
質問はそれだけではない。
「ねえ鏢局ってどんな荷物を運ぶの?」
「鏢局に馬いるかな? あたし馬乗れるのよ!」
「章兄って彼女いるの? あっそれとも、もしかして結婚してる?」
「聞きづらいんだけど師匠と章兄って本当はどっちが強いの?」
「鏢局にはあたしと同じくらいの子いるかな?」
「あたしは焼き鳥と珍珠奶茶が好きなんだけど章兄の好きな食べ物は?」
そして最も多い質問は「どうすればもっと強くなれる?」と「もっと武術のこと教えて」だ。
出発からしばらく経ったが、六はずっと二人の周囲をグルグル回りながら何度もこの質問を繰り返す。
まさに底なしの体力だった。
堪り兼ねた王進がボソッと呟く。
「しくじったな、章元」
「ふむうこれは些か浅知恵でしたな、はっはっは!」
ただでさえ異常なほどの体力の持ち主である六は、導引胎息を行うことでさらに体が活性化し、普段に輪をかけて元気が有り余っていたのである。
日が真上に登った頃、街道の端に茶屋を見つけた三人は足を止め、そこで休憩を取ることにした。
六は饅頭を口いっぱいに頬張り、お茶をガブガブ飲みながら、まだペチャクチャ喋っていたが、一息ついた王進がそれを咎めた。
「コラッ六! お前、行儀が悪いのう。そういうところから直さんといかんな」
「分かったわ! 直すから何か教えて!」
「分かってないが……だが、そろそろいいだろう。わしゃこの半日、お前をずっと観察していた。直すべきところは山ほどある」
「あ、行儀が悪いっていうのはもう聞いたわ! お喋りだって言うのも聞いたから、それもなしね!」
六は先手を打ったつもりだったが、王進は首を振って否定した。
「いや違う。まず一番は歩き方だな。ほれ、お前の付けた足跡をよく見ろ」
と王進は六の足跡を指差した。
「何か気付かんか?」
六はしばらく自分の足跡をじっと凝視していたが、やがて首を振った。
「分かんないです」
「よく見ろ、右足で付けた足跡の方が深い。これは踏み込みの力が違うのだ。そのせいで左右の足で歩幅まで違っている。お前は左足より右足の方が強い」
「は……? 師匠それ本気で言ってる?」
六は顔をしかめた。
「……全っ然わからないわ。同じに見える」
「観察力が足りないようだな。もっとよく見よ」
王進にそう言われて、六は地べたに張り付くように足跡を見つめた。
「うーん、確かに言われてみると……そんな気もしてきた……」
「確かに一歩一歩は一厘にも満たないほんの僅かな違いだ。しかしその違いは時を経て想像もできない違いとなるだろう。やがて均衡が崩れる日が来る」
「それってつまりどうなるの?」
「壊れる。どの程度かはそれまでの経緯による」
「でも王師匠。あたし、普通の人よりも頑丈だよ!」
六は食い下がった。
自分はこれまで十度は落馬したが、擦りむいた以上の怪我はしていない、と胸を張る。
「六や」と王進は優しく言った。
「お前の力や頑丈さの源は、人よりも多く生まれ持った“気”だ。武林(武芸者の界隈)の者はそれを内功とか内力が強いと呼んでいる。しかしお前の体の方はまだ未成熟で、内力ほど強いわけではない」
「……はあ」
王進が話しはじめると途端に六は口を閉じて聞き入った。
自分を倒した武の話は六にとって興味深く面白かった。一語一句聞き逃すまいと耳を澄ます。
「だからお前の体と内力もまた、歩幅の違う左右の足のように危うい均衡の上にある。強いように見えて実は脆さを孕んでいるのだ。体と内功は同じ車の両輪ゆえ、驕って内力の強さばかりを恃みにするのはいかん」
「もしも修行怠った場合はどうなるの」
「体が内力の強さに耐えかねて、やはり壊れる」
「う……それは困る。どうすればいい?」
「お前は内力の強さに見合った強い体を造る必要がある。その強い体を造るために、均整の取れた体を造る必要がある。よって、まずは調和のとれた正しい呼吸と正しい歩行を覚えることじゃ。それから本格的な修業を始めよう。ほうれ歩いてみよ」
そう言われて六は立ち上がり、茶屋の前で歩いてみた。
その歩行を見て王進がダメ出しする
「やはり右足の方が強いな。左足の踏み込みを意識せい……ダメだ、今度は左が強くなっている。もっと自然に。胸を張ってしゃんと立て。歩くたび重心がブレているぞい。肩を揺らすな、体に一本筋が通っているように意識して……ほれ、また右足が強くなっているぞ!」
「……難しい」
六は口を真一文字に閉じて集中した。
ただ歩くことだけに、これほど意識したことはなかった。
「ハッハッハ頑張れよ、六!」
「いま話しかけないで章兄。集中してるから」
「ぶっ」
章元は思わず吹き出した。
「ハハハハハ! さっきまで話しかけまくってたのはお前だろう! なんちゅう奴だ!」
「うるさいわ、静かにして」
「よし」
やがて王進が膝を打って立ち上がった。
「だんだん良くなってきたぞ。さて、そろそろ出発するかのう。わしと章元が見てやるから、今度は六が前を歩きなさい。これが無意識でできなくちゃいかんからな。しっかり体に覚えこませるのじゃ。ほれ」
そう言って王進は六の頭の上に鶏卵を載せた。
「そのまま歩いてみよ。一つしかないから落とすなよ」
「えっ本気?」
王進と章元は揃って頷いた。
一瞬、六の気が遠くなったが、バチンと自分の顔を叩き、気合を入れる。
「よーし! やるぞ!」
午前中あれほど喋りまくっていた六は、午後の間はほとんど喋ることはなく、ひたすら集中して歩いた。
それでも何度も頭から卵が落ちそうになるし、「左右のバランスがズレてる」とか「体が揺れてる」と何度も王進に叱られた。
兄弟子である章元も「呼吸の拍子が狂ってるぞ、胎息を忘れるな」などと合の手を入れる。
運動量で言えば、午後のそれは走りまくった午前の一割にも満たないだろうが、疲労感は午後の方が十倍もあった。
ようやく宿に着いた頃、さしもの六もクタクタになっていた。
六は宿の前でだらしなくへたり込むと、呻くように言う。
「やっと、着いた……やっと」
「ヘトヘトじゃのう。しかし今日の歩行を体が覚えれば、万里歩いても疲れを知らないようになるぞ」
「頑張る!」
六は大蛇と戦った日もこれほど疲れてはいなかった。
また、これほど黙って一つのことに打ち込んだのも初めてだった。
その日の夕食の席、次々と並べられていく料理は湯気と香しい匂いを放っている。
よく蒸かされた白い包子はモチモチとして柔らかそう。
ピリリと辛い羹(スープ)に香ばしい焼き鳥……。
だがそれらに手を付ける前に六は訊ねた。
「ところでさ、鏢局の人はみんなこんなことやってるの? 歩く訓練……」
「そんなわけないじゃろ……」と王進。
「ははは。さしもの小哪吒もだいぶ堪えたみたいだな」
章元も隣でクスッと笑ってからさらに補足した。
「朱堂鏢局で抱えている鏢客は多いが、誰もが私達のように王進師匠の直弟子になるわけじゃないんだ」
「……どういうこと?」
「世に言う内弟子と外弟子という奴に近いかな。外弟子に当たる鏢客たちにも勿論武芸を教えるが、直弟子ほど細かく指導されるわけではない。最低限足手まといにならないと判断されたら、すぐに仕事に出てもらう」
「そうして仕事に出た中で働きが良く、かつ武の才能に秀でている者をわしの弟子に加えるのだ。そうすれば鏢客の中で一段高い身分となる。はっきり言ってしまえば幹部よ」
六はふうんと生返事した。
そういう立身出世にはあまり興味が湧かないのである。
「あれ、でも待ってよ。今日やった歩き方の訓練は最低限の初歩の技術じゃないの? 歩き方だけに」
「だからそんなに細かくは教えない」
「確かに初歩といえば初歩だが、そんなことから始めたんじゃ鏢客として使い物になるまで何年もかかるわい。それに厳しいことを言うが、何年かかっても出来ない奴は出来ないしのう……」
とそこまで言ってから釘をさすように王進は言った。
「ただし言っておくがな、六。無論章元はこれぐらいはできておるぞ」
「知ってる。イチャモン付けようとしてさっき章兄の歩き方見てたもん……あたしより上手くできてたわ」
「はははは! 入門二日目で兄弟子にアヤつける気だったのか、お前は!」
と章元は苦笑した。
「これでも私はお前が生まれるよりも前から修行してるからな。そう簡単に追い付かれはせんぞ!」
負けじと六は言う。
「ふふん。あたしはそう言われると、絶対追い抜きたくなっちゃうな」
「ほう。武の道は私の方が十数年も先を行っているんだぞ。それでも追い付けると思うのか?」
「当然よ!」
六は力強く言った。
「だって今日、歩き方を教わったからね。どこまでだって行けるわ」
「ふははは、こいつは一本取られたのう、章元。さて料理が冷める前に食べようか。あっ」
と王進は思い出したように声を上げた。
「六、お前右利きじゃな」
「そうだけど?」
「よし、左で箸を持て。足だけでなく腕も両方使えるようにならなきゃいかんぞ」
「ええ……それやるとダメって誰かに聞いたけど」
「普通はそうかも知れんな。だがお前が目指してる場所は普通じゃない所じゃろ。だから普通じゃないことをするんじゃ」
「な……なるほど……確かに!」
妙に納得した六は慣れない手つきで料理をつつき始めた。
もちろん油断すると左右から「ちゃんと箸を持て」という小言が飛ぶ。
「上手く食べれない……」
「安心せい。明日は右手で食わせてやる。ほら油断すると背筋が曲がっとるぞ! しゃんと座れ!」
六の最初の修行は、徹底的に呼吸、姿勢、動作を正すことから始まった。




