第二十九話 荊棘が金華の軍へ絡みつくこと
時間は少し遡り、永雲龍王の要請で六が北方妖界を離れた頃。
太號君が軍を発したことを知った荊棘姫は、直ちに黒風の領土の最北にある兕角山の城塞へと向かった。
兕角山は太號君との領土の境界にあたり、かつて荊棘姫が自ら育てた精兵、荊棘兵が詰めている場所である。
荊棘兵を率いる赫眼という男は、荊棘姫が来たことを知るや、直ちに城門を開き、荊棘姫を出迎えた。
「荊棘姫様……」
「久しぶりだな、赫眼」
「はっ」
赫眼はその名の通り赤々と燃えるような四つの目を持つ妖怪である。
身の丈は八尺にも及び、全身は黒く長い毛で覆われている。
そんな恐ろしい野獣のような男が、荊棘姫の前ではあっさりと膝を折り、恭順の意を示した。
「立てよ、赫眼。いまはお前が荊棘兵の長だろう」
「ご冗談を……。手前などただ一時の代理に過ぎません。荊棘兵の主は、今も昔も荊棘姫様をおいて他におりません」
「……」
荊棘姫は答えず、試すような目で赫眼とその背後にいる荊棘兵を眺めた。
「ところ私が放った伝書鳩は届いているか? 黒風と統旋の親子は死んだ。私は霊狐に従いて太號君と戦うことにした」
「はっ」
「が、私には戦うための剣もなく、鎧もない。新たな君のためにどうやって仕えたらいいものだろうか、悩んでいるところだ」
荊棘兵たちは高らかに声を上げた。
「豈曰無剣! 豈曰無鎧!」
「脩我矛戟! 與子偕行!」
なぜ剣が無いというのか。なぜ鎧が無いというのか。我は矛戟を脩め、あなたと共に行こう。
荊棘兵の言葉はそのような意味であった。
さらに赫眼が付け加える。
「我ら荊棘兵一同、荊棘姫様のご帰還をお待ち申しておりました! 荊棘姫、万歳!」
「荊棘姫、万歳!」
万雷の喝采を受けた荊棘姫は満足げに頷いた。
「宜しい。ではこれより私が荊棘兵の指揮を執る。赫眼は私を佐けよ」
「承知致しました!」
「最初の相手は、金華娘とやらが率いる十余万の軍だ」
荊棘姫がこともなげに言ったせいで、大したことがないように聞こえたが、赫眼は聞き逃さなかった。
「虎爪将金華娘が率いる十万……」
「楽しみだな。これを蹴散らせば我らの驍名は七代のちまで語り継がれるだろう。すぐ戦支度せよ。奴らはもうそこまで来ているぞ」
ここで一度、戦場となる北方妖界の位置関係を整理する。
太號君の根拠地となる風箭谷は、北方妖界の北東にあり、そこを中心として妖虎は巨大な帝国を築いた。
そこから南西には旧黒風の領土、さらに西には霊狐の領土が存在する。
だがその二つの領土を合わせても太號君の版図の半分にも満たない。
金華娘の率いる十二万もの軍は、馬首を霊狐の邦へ傾けながら、立ち塞がるものを踏み潰すように進んだ。
風にたなびく旒旗が林のように立ち、行進の足音が響く。
大地を揺らすほどの軍容である。その光景は戦おうとする者の心を挫く。
が、そのような軍勢を前にしても、荊棘姫は行動を躊躇わない。
「うって出るぞ」
荊棘姫は手勢を率いて出撃した。
よくよく観察すれば分かるが、あまりに巨大な軍は一丸となり固まって動くことはできない。
それは幾つかの小集団の集合体なのである。
十二万の軍は主として三軍に分かれており、核となる中軍を中心に、前軍と後軍が付随する形だ。その三軍がさらに細かく分かれているのは言うまでもない。
巨大な一個に見えるのは、それらが連携して動くため――だが、どうやってもその連携は完璧ではないことを荊棘姫は看破していた。
――彼を知り、己を知れば……。
神の如き智謀の持ち主である孫子はそう言った。
大軍にも強みと弱みがあり、寡兵にもまた弱みだけでなく、強みがあるのである。
まず、第一に地の利である。
侵略してくる金華娘の軍よりも、守るべき邦としてそこで生活していた荊棘兵の方が、道に通じ地勢に明るく、土地勘がある。
「ここは我らの庭。そうだろう、赫眼」
荊棘姫は目の前を横切る敵軍を尻目に兵を伏せながら、傍らの赫眼に笑貌を見せた。
その場所は一見何もない盆地だが、草むらに隠れる形で洞窟が口を開けており、荊棘姫はそこに兵を置いた。
その先にはやや広い永江の支流があり、敵軍の先頭は既に渡河を始めている。
前軍、中軍と河を渡り切り後軍も半ば渡った時点で、荊棘兵が動いた。
「行くぞ!」
荊棘姫を先頭に、龍馬に跨った荊棘兵が洞窟を飛び出した。
金華娘の後軍にとっては、敵兵が地から湧いたに等しい事態だった。
茨棘紋の甲を纏った兵が這い出して来る光景に、金華娘の後軍は騒然とし、ただ一度の奇襲で荊棘兵は自軍の倍近い数の兵を敗走せしめた。
そして第二に速度の理である。
「深追いするな!」
奇襲を成功させたと見るや、荊棘姫はさっと兵を退いた。
金華娘の後軍が体勢を立て直す頃には、既に荊棘兵の姿はない。
地の利と速度。
荊棘姫が行ったのは、徹底的にこの二つの利を活かす遊撃戦法である。
例え妖怪の中に千里眼の持ち主がいたとしても、戦場の全てが見通せるわけではない。
そのため、一時的に敵の小部隊が孤立するような状況が必ず起こる。
そのようことが起こったとき、局地的には僅か三千の荊棘兵が数の上で相手を圧倒できる。そこを荊棘姫は素早く狩りとる。
これが遊撃の基本となる。
無論このような戦い方では、相手を倒すまでには至らない。
この作戦の主目的は敵の移動を妨げ、霊狐の率いる主力軍に猶予を与えることと、決戦前に少しでも相手の戦力を削ることにある。
荊棘姫と荊棘兵は棘のついた蔦を伸ばし、進軍する金華娘の軍に絡みついたといえよう。
十日余りの間に、荊棘姫は七度の襲撃を行った。
あるときは山から打って出て、あるときは偵察の部隊を捕らえた。
度重なる奇襲は金華娘軍にとって、ガリガリと茨が膚を掻き、突き刺すような痛撃を与えているはずである。
が、一つの誤算があるとすれば、金華娘に全く動揺はないことである。
そのような将の態度が配下にも浸透しているのか、行軍する兵に乱れは少なく 粛々と軍を進めている。
丘の上から荊棘姫は金華娘軍の中軍を望んだ。
「……」
「荊棘姫様、明日か明後日には金華娘の軍は陀熊山へ辿り着きます。移動中に奇襲を行えるのも次が最後でしょう」
「ああ」
赫眼の言葉に、荊棘姫は生返事で返した。
いま彼女の心はこの場にない。
彼女の心は、両軍を挟んだ向こうにいる金華娘の元にある。
その意図を読み取ってやろうと、ここしばらく荊棘姫は金華娘のことをずっと考えていた。
自分の取った戦術に誤りがあったとは思えない。
だが、金華娘はこちらに見向きもせず進軍を続けた。
相手がこちらに構ってくれれば、その分進軍に遅れが生じる。こちらとしてはそちらの方が良かったのだが。
――小事のために大事を見失うようなことはない、か。
なるほど金華娘とはそういう女か。
荊棘姫は僅かな落胆を覚えながら気持ちを切り替えようとした。
向こうががこちらを無視するというのなら、こちらは奴の駒を削るだけだ。
……いや待て。
ふと、荊棘姫は自分が前のめりになりすぎていることに気が付いた。
攻めることばかりに気を取られ、攻められることを忘れている。
「赫眼、お前いまなんと言った?」
「は? 金華娘の軍はもうすぐ陀熊山の前に陣取るので、我々が行軍中に奇襲を行えるのも次が最後かと」
「裏を返せば、金華娘が我々を返り討ちにする機会もこれで最後か……」
荊棘姫は金華娘の在り様に不気味さを感じた。
常に襲撃に悩まされながらの進軍でありながら、金華娘の軍に動揺は乱れは少ない。
ここまで整然と軍を統率している者が、ただ手を拱いているだけというのは妙だ。会戦の前に我々を一掃する手を考えているはずである。
その手があるとすればここだ。
まるで不思議な力に引き込まれるように、最後の攻撃を行おうとしていた自分を荊棘姫は戒めた。
恐らく金華娘は待ち構えている。
荊棘姫の脳裏に手ぐすね引く金華娘の姿が浮かんだ。
「……」
「荊棘姫様?」
赫眼は怪訝そうに主を見た。
「赫眼、お前腹減ってないか?」
「え? ま、まあ」
「私も腹が減った。陀熊山の本陣に戻って馳走になるか」
「えっ」
またまたご冗談を。
赫眼はそう言おうとしたが、荊棘姫は本当に配下に本陣へ行くことを告げ、さっさと兵を退かせた。
その直後である。
荊棘兵たちの背後で不気味な音が響き渡った。
「オオオオオオオオォォォォォ……」
振り返った荊棘兵が見たのは、丘の上に屹立する巨大な妖怪の影であった。
その巨怪は獲物を取り逃がしたことに怒り、吠え狂っていた。
「なんと――」
赫眼はハッとした。
いつの間にか敵の別動隊が自軍の背後に回っていたのである。
もしも最後の攻撃を行っていれば、今頃挟み撃ちにあっていただろう。
赫眼は赤い目を荊棘姫に向けた。
「荊棘姫様、なぜ分かったのです?」
「たまたま狙いが当たっただけだ。私も神知を持っているわけではない」
と断ってから荊棘姫は肩を竦めた。
「あれだけの統率者が、攻撃を受けるがままというのが気持ち悪い。そこに佯りを感じた」
結果だけ見れば、荊棘兵は確実に戦果を挙げつつ、最後まで相手の裏をかき危機を脱したと言える。
だが荊棘姫の表情は硬かった。
岩のように固く重厚な用兵の術を見せつけられ、それを動かすことができなかったという思いが強い。
表層の勝敗のやり取りだけではない、将と将の見えない戦いがあった。
「容易ではない相手だ。さて、我が君はどれだけの兵をかき集めてくれたかな。せめて敵の半分ほどの兵は絶対欲しいところだ」
「半分となると五、六万でしょうか……もし霊狐公がそれだけを集めておらねば……」
「正攻法では難しくなるだろう。極めてまずい」
「噂の小哪吒も帰ってくるかもしれません、それでもでしょうか?」
「はっ。戦の正法は数よ。いくら小哪吒の武勇が優れているとはいえ、それを用いるのは正法ではなく奇法だ。ところが奇とは奇正揃って初めて奇足りえるもの。奇しかない場合は奇ではなく、ただの悪あがきという。それでは勝てぬ。やはりいまは頭数が欲しい」




