第二十八回 小哪吒、知らずのうちに仇となること
湘塘龍王と戦ってから二日間、六は永雲龍王の元で静養した。
「永江の薬もよく効いたが、この薬も大したもんだね。もう治ったわ」
六がそういうと薬師は苦笑した。
「こんなに早く治るはずがないのですがね……」
六の治療にあたったのは湘塘の後宮で子援に哀れみをかけた薬師である。
その後湘塘の後宮を無事に脱出し、収まるべきところに収まったといえよう。
十分に体力を回復した六は、すぐさま永雲龍王に伺候した。
「おっ、李六か。もう体は良いのか」
六の顔を見た永雲龍王は喜悦を見せた。
「はっ。お陰様で以前より健やかになった気さえ致します」
「それは何よりだ。よくぞ子援を救い出してくれた。永江の者は決してそなたのことを忘れぬだろう」
「胸を張れるほどの功はありませんでした。龍王様が駆けつけて下されねば、果たしてどうなっていたことか」
「例え我が間に合わずとも、そなたはきっと湘塘王を打倒したであろうよ」
「そういうことにしておきましょう」
自己を誇るでもなく、卑下するでもなく、六は自然体で永雲龍王の言葉を受け入れた。
己を力ある者だと誇る人間は過剰に自己を飾り立てようとする。反対に自信がない者もまた、謙譲という衣を過剰に纏おうとする。
両者の態度は正反対だが、結局はどちらも根底の自信のなさがそうさせるのではないか。
六の態度はそれとは一線を画していたといえる。
自己を高みに置かず低みに置かず、いわば在りのまま在ることへの自信である。
永雲竜王は柔和な表情を作りながら、心の内で「惜しい」と嘆息した。
なんという沈毅な態度か。このような女は、いや男であっても滅多におるまい。
もし、小哪吒が男だったら、子援と……。そのような考えが頭を掠めたのだ。
「ところで」
と六が話を変えた。
「その後君を失った湘塘はどうなさったのですか。怒りに任せて永江に兵馬を差し向けるのでは?」
「それはあるまい。いま湘塘は混乱している。近年湘塘王が併呑した河や湖の者どもが、湘塘王の死に乗じて立ち上がったそうだ。とても我らと戦うゆとりはなかろうよ」
龍王はあごひげを撫でながら言った。
「結局、戦を好むものは戦によって滅ぶということだ。他山の石とせねばなるまい。湘塘王は戦に勝つたびに京観を築き、戦果を誇った。そのとき買った怨みが湘塘王の築いたものを滅ぼそうとしている」
「そうですか……」
京観とは、死体を積み重ねて作る戦勝碑の一種である。
歴史上では度々行われてきた風習ではあるが、その凄まじい光景から眉を顰める者も多い。
特にやられた方はたまったものではない。
いやそもそも本当に難儀なのは、王への怨みのとばっちりを食らう、王の下にいる者たちだ。そこに復讐の虚しさがある。
「ならば私の出番はここまでということですね」
「もう行くのか」
「はっ。私の戦いがありますので。足早に去ることをお許しください」
「そなたの事情は分かっている。留め置くことは出来まい。だが此度の働きまことに大儀だった。饗す時間はないが、褒美を取らせよう」
「私は龍王様に受けた恩を返したまでのこと。礼物を受けるのには及びません」
「その理屈も解るが、受け取ってもらわねば我が一族の邃宇に関わる」
邃宇とは貴族の家の奥深さのことをいう。度量と言い換えてもよい。
「安心しろ、小哪吒が金帛の類などを欲しておらぬことは、我でも知っておる」
永雲龍王が片手を上げると、子援が一着の衣服を持って現れた。
その後ろには従者の貝が、酒器のようなものを持って続く。
子援はハシャギながら服を広げる。
それは戎衣であった。つまり戦闘服である。
「雨工の毛で私が織った布から作らせた服よ。是非六ちゃんに着て欲しいな」
「雨工って……?」
「雷獣の一種だよ。雨工の織物は軽くてとても頑丈なの。火にも強いわ。きっと役に立つはず」
友からの餞別である。
受け取りを断わるなど、できようはずがない。
「ありがたく受け取るわ。ありがとう。子援ちゃん」
小声で子援に礼を言ったあと、六は背後の貝に目を向けた。
「そっちは何?」
「これは爵、です。李六さん」
爵とは古代の杯である。古代では神酒を受ける順序と量は、身分に応じて定められた。
転じて所有する爵の形は身分を表すようになり、ここから貴族の格となる爵位という言葉が生まれた。
貝が持ってきたのは勇爵である。比類なき勇者に与えられるものである。
六はちらりと永雲龍王の方を向いた。龍王もかすかに頷く。
「身に余る光栄。ありがたく頂戴します」
グイッと六は爵に入った酒を飲み干した。
ふう、と六は僅かに酒の匂いが混じった呼気を吐き出す。
――美味い。
「龍王様からの好意、神酒と共に五臓へと沁みました。龍王様のご温情は生涯忘れません。では私はこれで、失礼いたします。いつかまたお目にかかる日が来るよう……」
六は永雲龍王に揖礼しようとしたが、龍王はそれを遮るように言った。
「待て、待て小哪吒」
「はい?」
「いま餞別を贈ったのは子援と貝ではないか。我はまだそなたに何もやっておらぬぞ」
「これ以上の物を受け取るなど恐れ多く……」
「駄目だ。実はそなたに武器を贈ろうとしたのだが、まだ完成していないのだ。それは後日届けるとしても、このままそなたを地上に戻したのでは我の気が済まぬ」
「と言いますと……」
「少し、そなたの事業に手を貸そう。水府の者がみだりに地上に関与することは許されぬが、この地の上に雨を降らせることは我が権能だ」
「は、はあ」
「そなたのために雨を降らせてやろうというのだ。どれほどの雨を望むか?」
話が見えない。六は困惑した。
「雨を、と言われましても」
六は少し考えていたが、ハッとして顔を上げた。
「龍王様は、どれほどの雨を降らせることができるのでしょうか?」
「そなたが望むなら、一滴でも、堯の代の水ほどでも」
六の目が瞠目した。
直感的にこれは凄まじいことになる、と予感したのである。
「感謝いたします、永雲龍王」
六は深々と謝意を示して揖礼した。
六はこうして永江の水府を後にした。
舞台は再び地上へと戻る。
ところで、子援の救出劇と永江の朝廷で交わされたやりとりが、後に問題を引き起こすことになる。
六は湘塘龍王と戦ったが、とどめを刺したのは永雲龍王であり、六ではない。
が、その戦いを目撃したのは六と永雲龍王、そしてその配下の者たちだけだった。
湘塘の者は誰一人、自らの目でその戦いを見ていない。戦いの行方はあやふやな伝聞の中にあったのである。
そこへ永雲龍王の口から、「例え我が間に合わずとも、そなたはきっと湘塘王を打倒したであろう」という言葉が発せられた
言葉とは恐ろしいものである。
永雲龍王はただ六の奮闘を讃えただけだろうが、龍王の口から発せられた言葉は、人の口と耳を介していくごとに少しづつ歪んでいき、最後にこんなふうに姿を変えた。
「小哪吒が湘塘龍王を斃した」
そして湘塘龍王の遺臣である南宮濤という男の耳がこの言葉を拾った。
「先王が受けた雪辱を果たさぬ限り、湘塘の再興はならぬ。我、刺客となりて小哪吒を誅戮せん」
南宮濤はそう左右にこぼし、湘塘から姿を消した。
こうして仇討ちを願う六が、別の者の仇となった。
中華の古典、『荘子』にこんな話がある。
あるとき著者である荘周は山に出かけた。
すると、珍しい鳥が目の前を掠めて木に止まった。
荘周はほくそ笑んだ。
「なんという鳥だ。ここに己を狙う者がいるというのに、まるで気付いていないとは」
荘周は弾弓を取り出して、その奇妙な鳥に狙いを定めた。
だが、弓を射る前に荘周ははっと気付いた。
その鳥の先に蟷螂がいて、じっと何かを窺っている。蟷螂の先には蝉がいて木陰に満足して休んでいる。
みな己の利を貪ろうとして背後の危機に気付いていない。
いやまて。
蟷螂が蝉を狙い、鳥が蟷螂を狙い、自分は鳥を狙っている。ということは、いま自分の背後には……。
荘周は恐怖に駆られて逃げ出し、心底思った。
「ああ、万物は互いに害し合うものなのだ。利を得ようとするものは同じ思いのものを呼び合うようにできている」
これと似た話は、春秋時代の呉王、夫差の逸話としても伝わっている。
狩ろうとするものは、同時に獲物として狙われる。
まことに運命とはままならないものである。




