第二十七回 龍の公主が趨り、君を動かすこと
なるほど湘塘龍王はこういう男か。
王とは軽々しく動くものではない。が、湘塘龍王はただ一人で子援を追ってきた。
激情家といえばそれまでだが、六から見れば軽率である。
そのことから六はこう結論付けた。
――これは勇とは言えない。湘塘の龍、王の器に非ず。卒の類なり。
配下の者では空を飛ぶ逃亡者に手が出せないという事情があるにせよ、部下も連れずこうして自分と対峙するような状況を作った龍王は考えが浅い。
それゆえ六は龍王を蚯蚓と呼んだ
自分の仇の太號君も、このような浅さを見せてくれれば、もっと話は簡単だっただろうに。
だが、それは肉体的に弱小であることを意味しない。
むしろ六の心のある部分では、なんという凄まじさだ、と天を震わせる龍の威容に驚嘆していた。
その姿は天空にうねる河のようであった。
龍とは万物の長にして、神々の類たる神獣であり、その権能は水を司る。
湘塘龍王の纏う黒雲は大量の水分を含んでいた。
その雲の中に突入した六は、雨に打たれたかの如く、あっという間にずぶ濡れになっていた。
龍の威容と比べ、自分はなんとみすぼらしい姿だろうか。
だが、まだ六には奥の手がある。
龍に優るとも劣らない、太陽道士辛、秘伝の術……。
「――火行大経、三昧真火」
六の体の内奥で、身体を駆け巡る気が、真紅の炎へと変じた。
丹田に生じた炎は、腕を伸ばすが如く湧き立ち、六の体を包み込む。
炎が立つと、雲で濡れていた六の膚と服は瞬時にして乾燥した。
紅の炎を纏った六の姿は輝き、あたかも黒雲の中に出現した小さな太陽のようである。
「はっ!」
六が気合を発して体に力を込めると、黒雲の三分の一ほどが霧散した。
自分の姿が白日の下に晒されると、湘塘竜王はいよいよ目を吊り上げた。
しかし怒りが膨らむ一方で、龍王の心のどこかが冷えた。
先の一撃は僅かであるが自分をよろめかせた。
剣の上に立ち、予を阻むこの娘は、一体何者か、という疑問が浮かんだのだ。
「貴様、一体何者だ。妖仙の類か」
「私は小哪吒と呼ばれている。龍の悪夢だ」
「悪夢だと? おのれ、井底の蛙め! 予を愚弄するか!」
湘塘龍王は渦を巻くように身をくねらせると、六に向って鋭い爪を突き立てた。
龍が体を動かした途端、旋風が巻き起こり、その旋風は六の体を縛るように絡みつく。
「おっ……」
――動けない。
六が瞠目したとき、龍王の爪が迫っていた。
次元ごと六の体を切断するかのような一撃が振り下ろされた瞬間、空気に断層が生じ、割れた大気が轟轟と音を立てる。
「ぐあっ……」
苦悶の呻きを漏らして、龍王は腕を引っ込めた。
六の纏う三昧火に手を焼かれたのだ。
三昧火は掌底を通じて龍王の鱗を焼き、その内部まで高熱を浸透せしめていた。
六の放った技は真火浸透掌とでも呼ぶべきだろうか。
自らの気と衝撃を浸透させ、敵の内臓を損傷させる浸透掌の応用である。
ただ、一方の六も無傷ではない。
高速で機動する龍王の巨体を正面から迎撃した衝撃は想像を絶する。体中の穴という穴から血が噴き出していた。
なるほど。こんな真似を続けてたら死ぬわ。
血反吐をぺっと吐き出しながら、六の頭脳は戦術を描いた。
三昧真火に御剣術、いよいよ手品の種も尽きそうだ。しかし、どんな博打だって手持ちの牌で勝負する他ない。
今更、打牌を恐れるな。より効果的に……攻めるだけだ!
「喝!」
六の両目は龍の体を駆け巡る気の流れを捉えた。
龍体であれ人体であれ、本質的に攻めるべき個所は変わらない。気の通り道である、点穴だ。
互いにお互いを窺うよう、六と龍王は身を退く構えを見せながら、拳と牙爪を火と水をぶつけ合わせた。
牽制と誘いの駆け引きによって、共に相手の弱みを見つけ、叩こうと試みる。
状況に焦れ、最初に大きく動いたのは龍王だった。
渦巻く風、吹き荒れる雨と雹。
その中心で龍王が身をよじる。
閃光と共に雷が奔った。
雷は絶え間なく一条、二条、三条……と牙をむき出しにした猛獣のように六を襲った。
牙剥く天の鎚に恐怖を覚えつつ、六は心のどこかで龍王を嗤った。
なぜ近づかない、湘塘龍王。私がお前を恐いように、お前も私が恐いか。
――ここで踏み出せぬようでは、やはり王の器でも将の器でもない!
左右に体を傾かせ雷を避けながら、剣に乗った六は龍王の懐に飛び込んだ。
龍の首の下。力の中心にして最大の弱み、逆鱗。
六はその場所の上に渾身の力で飛び蹴りを放った。
龍鱗が砕け、さらに傷口を三昧の炎を龍の中に浸透させる。
「ぎゃああああああっ!」
龍王は咆哮し、むしゃらに体を暴れさせた。
そのどさくさで、六は龍の尾に打たれた。足場としていた剣は砕け、六自身の意識も体を離れる。
六と龍王はもつれあいながら共に落下した。
子援と貝は六に言われた通り、脇目もふらず走っていた。
肺が破けそうなほど痛んでも休まぬのは、自らの命が惜しいから、ではない。
足が折れそうなほど軋んでも止まらぬのは、全てこれ友のためだった。
子援は悟った。
自分がここで捕まれば、六の行為は無為に帰す。
そうはさせない為に、なんとしても自分は永江へと帰らなければならない。
いま自分が為すべきは六の意を酌み、走ること。一刻も早く永江へ辿り着くこと――。
が、遅い。
二人を背負っていても六の健脚は自分よりずっと速かった。それに比べ……。
子援はじれったく歯噛みした。
龍となり空を駆けることに比べ、人の姿で地を這うことのなんと遅いことか。
このままではいけない。
いかに六ちゃんが武林に名を馳せた武術家とは言え、龍王を相手取り無事に済むわけがない。
手助けが必要だ。そして小哪吒と龍王の戦いに割って入り、それができるのは父上……永雲龍王をおいてはいないだろう
一刻も早く、六ちゃんがいま湘塘の龍王と戦っていることを、父上に告げなければならない。
早く、早くしなければ、六ちゃんが殺されてしまう。
子援の目に涙が浮かぶ。
だが、その涙が瞳から零れることはなかった。
泣いている場合ではない。ついさっき、六ちゃんのようになりたいを願ったばかりではないか。
六ちゃんならきっと、このような時にも泣いたりはしないはずだ。
子援はそう自分を鼓舞して、涙を押し留めた。
これもまた戦い。それも苦しい戦いだった。
横を見ると、貝はもう限界である。
こんなとき六ちゃんなら……。
「それでもまだ諦めない」
胸の奥が熱かった。
鼓動と共に燃えているそれは、想いという名の、六から子援に渡された火であったかも知れない。
限界を打ち破れ、と六の声がした。
子援はただその衝動に従った。
胸の内の火が爆ぜた。逆鱗の傷を物ともせず、子援は龍としての本性を露わにした。
「あああああ……!」
「子援さま!」
突然呻きを上げた主を心配して、貝がそちらに目をやると、子援の体が人の形から蛇体へ、さらに巨大な龍体へと変化していく。
それはそれは美しい龍だった。
錦鯉に似た鱗で全身お鮮やかな紅で染めており、頭部には麒麟の如き一角を備え、風に棚引く鬣は絹の如し。
「貝、乗りなさい」
優しげな声で子援はそう言い、貝が乗りやすいように首を下げた。
貝は感動して声を上げた。
「驥尾に付すとはまさにこのことです!」
「さあ、父上の元へ急ぐわよ」
紅龍は流星のように空を駆けた。
あっという間に永江の竜宮に辿り着いた子援は、大急ぎで父の元へ向かった。
「おお、子援。よくぞ帰ってきた」
「父上!」
娘の帰還を知った永雲龍王は歓喜して子援に笑貌を向けたが、帰ってきた娘の只ならぬ形相に、笑いを引っ込めた。
「いまも小哪吒が湘塘龍王と戦っております! 急ぎ御助力を。さもなければ永江の龍は勇士を見捨てたという汚名を被りましょう」
子援の訴えを聞いて改めて永雲龍王は娘を観た。
彼女の着ている衣服……特に足回りは泥と塵で汚れている。友のために塵埃にまみれたのだ。ここまで至った彼女の想いの一端を見えた。
「うむ。小哪吒は我が恩人だ。死なせはせぬ……雷導、雷絆、我に続け!」
「は……」
龍王とその眷属が起つと、永江の流れが逆巻いた。
「うう、ぐう……」
地面にめり込んだ六は何とか体を起こすと、弱々しく立ち上がった。
天に登った龍を叩き落した。その一事をもっても尋常でない偉業である。
が、六はその偉業を誇る前に、毒づいた。
「くそっ」
「があああああああっっ!」
眼前には怒りの咆哮を上げ、牙を剥き出しにする龍王がいた。
足元がおぼつかない。こちらは満身創痍だ。既に体も気力も限界に近い。体に纏った三昧火がいかにも弱々しい。
だが龍王の方はまだまだ倒れなさそうだ。
湘塘龍王は爪を振るった。
六は咄嗟に肘鉄で迎撃する。
踏ん張りがきかず、六は容易く吹っ飛んだ。
まずい。予想以上に力の差がある。
もう、まともに戦っている場合ではない。勝つためには、命を賭け金にして博打を打つ必要がある。
龍王が迫る。
六の力が尽きかけていることを見切った龍王は、猛然と攻めかかった。
爪の切り裂き、牙の噛みつき、そして尾の横薙ぎが、六を襲う。
どれひとつとっても致命傷。六は攻撃を止め、ひたすら攻めを受け流すことに専心した。
まず、生き残る。勝機が生まれるまで、ひたすら粘るしかない。そうでなければ勝てない。そう思ったゆえの戦法だった。
だが致命傷を避けるだけでは、いずれ力尽きる。
ここから逆転の一手を掴むためには、なにかの偶然が必要だった。
六は来ないかもしれないその偶然を、ひたすら待った。
そしてついにその瞬間はやって来た。
何かを目撃した湘塘龍王は突如瞠目し、身をのけぞらせた。
――勝機!
龍王が怯んだ理由を確かめるより先に、六は跳躍していた。
狙いは龍王の背面、うなじに当たる部分である。
伝説の武神哪吒は、龍の背筋を引き抜いたという。六はその伝説がある程度の真実に基づいていることに賭けた。
龍の背から筋を引き抜くだけの力は残っていないが、そこにある点穴に最後の攻撃を加えれば、龍の脊髄を損傷させることできるかも知れない、と踏んだのである。
両の拳を鎚のように固め、戈にように振るう。
三昧の真火が燃える灼熱の拳は、鈍い音を立てて湘塘龍王の首を撃った。
「がっ……」
予想外の痛撃に湘塘龍王は身を硬直させる。
その刹那、空から駆け降りた永雲龍王の牙が湘塘龍王の首に突き刺さった。
「ぎゃあああああああああ!」
恐ろしい声が轟き、湘塘龍王は暴れまわった。それに併せ、風と雷と雨と雹が狂ったように渦を巻く。
暴れる湘塘龍王を抑えつけようと、首筋に噛みついたままの永雲龍王がその上にのしかかる。
空は弓なりに割れ、地は鳴動しながら砕ける、この世の終わりのような光景を六は茫然と見つけた。
やがて嵐と断末魔が止むと、湘塘龍王の首がごろん、と地に転がった。




