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神怪報冤譚─虎追いの少女─  作者: ミナミ ミツル
第三部 長風破浪
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第二十六回 小哪吒が龍王と干戈を交えること

「ちょっと揺れるとは聞いたけど……」

「ん? なに?」

 六の腕の中で子援は口を濁らせる。

 三人の脱出は、強行軍と呼ぶのも烏滸がましい力技であった。

 六は子援を抱きかかえ、貝を背負い、屋根伝いに後宮内を走っていたのである。

「もうちょっとやりようなかったの?」

「だって子援ちゃん飛べないんでしょ」

「それは、そうだけど……」

 力なく子援はうなだれた。

 龍の力は首筋の逆鱗のある場所を根源とする。

 そこが損傷したため、子援は一時的に龍の力を失っていたのだ。

 当然龍となって空を飛ぶことはできない。

「なら、これが一番速いんだよお姫様」


 確かに二人を抱えて走っているとは思えないほど、六の足取りは確かでしかも速い、と子援は思った。

 さらに、その細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、自分を抱える六の腕は力強く、熾火のように静かな熱さを秘めている。

 ――なんて逞しくて力強い。

 六に抱かれていると、子援は自然と昂揚した。

 どれほど鍛錬を積めば、人の身でこのような鉄人になれるのだろうか。

 己が身一つで堂々と生きる六と、後宮に押し込まれ嘆いていただけの自分。

 それを考えると、恥じ入るしかない。同時に六が羨ましくもある。

 六の熱が伝染したかのように、自分もこのようになりたい、と子援は自然とそう思っていた。


 似たようなことは六に背負われている貝も感じていた。

 小さな六の背中から、まるで岩のような重厚感を感じる。

 しかしそうであっても、貝は完全に不安は拭い去ることは難しかった。

「相手がこっちの脱走に気付く前に距離を稼がないと」

「ど、どれくらいで気付かれるでしょうか」

 六の小さな背にしがみ付きながら、貝は不安そうに言った。

「さあね。一応私が気絶させた侍女は半日くらいは目覚めないはずだけど、流石にその前に誰かが見つけるでしょ」

「半日も目が覚めないの!?」

 六の言葉に子援がぎょっとした。

「ねえ六ちゃん。念を押すけどあの子本当に大丈夫なんでしょうね」

「いま他人の心配してる場合かな。アイツが目覚めきゃ時間を稼げるのに」

「それとこれとは話が別だよ!」


 そんなことを言っているうち、三人の間に後宮を囲む土塀が立ち塞がった。

 当然ながら後宮の門は門衛が見張っており、ここを抜けるには塀を超えるしかない。

 六は一旦立ち止まると、二人を下ろした。

「どうする? 跳んで超える?」

「いや、それじゃあダメだ。 見てな」

 そう言うと、六は脇差を塀に突き刺した。

 するとどうだろうか。

 塀の白い表面に、じわりと赤い血が滲む。

 子援と貝はゾッとして後ずさった。

「うわ……なに、これ」

「こういうところの壁はね、破られたり超えられたりしないように、呪符を埋め込んでおくんだよ。別に珍しくない。地上にもある」

「……六ちゃん、泥棒するの初めてじゃないね?」

「失礼な。もっと雅に梁上の君子と呼んでもらいたいな」

 六は血の滲んだ土塀を切り裂いて後宮を抜けた。


 一行はさらに進み、後宮の塀を抜けたように、水府の城壁を抜けようとしたときだった。

 六が城壁に脇差を突き刺すと、やはりさきほどと同じように城壁に血が滲む。

 しかし、城壁に浮かんだ赤は留まることを知らず、一気に城壁全てに広がり、さらに六たちを威嚇するように城壁が震え大きな唸り声を上げた。

「うわ。まずい。しくじった。急ぐよ!」

 城壁はウウウ、ウウウ……と不気味な唸り声を上げ続け、異変に気が付いた門衛たちが、わらわらと涌いて出てきた。

 さっと六の表情から余裕が消える。

「行け!」

 六は脇差を振るい、くり抜くように城壁に穴を開けると、その穴に押し込むように二人を急がせた。


「おのれ賊! 神妙にしろ!」

「やめておきな。向ってくるなら容赦しないよ」

「かっ!」

 甲殻類の如き甲冑に身を包んだ兵士の長が、眉を吊り上げて吼えた。

「みすみす逃がすと思うか! かかれ!」

 兵士長の号令を受けて、六を取り囲んだ門衛が一斉に六に向かって槍を向け突撃した。

 このとき、六は内心相手を褒めた。

 自分のような娘一人を相手に、一切の容赦がない戦法を躊躇わらず取ることができる周到さ。

 こういう者こそ、相手にとって不足はない。

「射っ!」

 六は向ってくる門衛たちに、唯一の武器である脇差を投げつけた。

 その脇差は一人に当たって落ちるのではなく、まるで見えない糸で六の手と繋がっているかのように、向ってくる相手全てを斬りつけると、再び六の手元に戻っていく。

 御剣術の一つ、御剣飛刀術である。


「うおっ……」

 六が腕を振ると、その動きに合わせて宙に浮かぶ剣が生きているかのように躍る。

 五、六の兵がなすすべなくバタバタと切り伏せられたところで、兵士たちの足が止まった。

 高速で飛来する剣の前には、槍の間合いの利が無効化されることを思い知ったのである。

 相手が怯んだと見るや、六が攻めに転じる。

 剣と共に跳躍し、剣が雑兵を蹴散らす間に、六は真っ直ぐ兵士の長へと躍りかかった。

 その動きに合わせ、兵士の長は六の頭を叩き割ろうと、矛を振り下ろす。

 矛の起こした風が六の髪を揺らした。

 しかし矛の刃が触れる刹那、六はさらなる加速をして、矛の一撃を潜り抜けると、兵士長の顎を蹴り砕く。

 ――勝負ありだ。

 六がそう確信した瞬間、兵士長が意地を見せた。

 その身が崩れ落ちる寸前で意識を取り戻した兵士長は、足を突き出して踏ん張ると、荒々しく横薙ぎに矛を振るった。

「るあああああああっ!」


 まずい。

 反射的に六はそう思った。

 相手が予想より粘ったことに焦ったのではない。視界の端に弓を構える兵が見えたのである。

 兵士長は相変わらず長物を振り回していたが、六はあえて間合いを詰めた。

 そうすることで兵士長の陰に隠れ、弓射を避けたのである。

 兵士長の相手をしつつ、六は御剣術で脇差を操り、弓兵へと剣を放つ。

 六の掌底が兵士長の胸を打つのと同時に、飛ばした脇差が弓兵の手にした弓を断った。

 今度こそ兵士長の身が崩れ落ち、地に横たわったとき、既に六は身を退いて遁走していた。


 水府の外は河の底である。

 当然ながら城壁を抜けた瞬間、膨大な水が六に襲い掛かった。

「くっ」

 予想よりキツい。

 六は内心唇を噛んだ。

 水が体を押し潰し満足に動けない。

 だが何かが六の体を左右から支え、水面へと押し運んだ。

 子援と、貝であった。

 流石の六も、泳ぎにおいては龍の公主と鮫人の侍女には及ばないらしい。

 二人の助けを借りて、地上に上がると、どっと疲れが出た。

「ありがと。助かった」

 六は肩で息をしながら二人に礼を言った。

 だが、まだまだ休んではいられない。追ってはすぐ背後に迫っているのである。

「さあ行くよ。水府を抜けたらあと少しだ」

 と、六は再び貝を背負い、子援を抱いて脇差を投げた。

「えっ六ちゃん大丈夫なの?」

「やってみるさあ、 応援してて! 子援ちゃん直伝御剣飛行術!」

 小さな体に二人を載せた六は、宙に放った脇差に飛び乗り、空を駆けた。

 陸に上がった湘塘龍王の配下の者たちは、矢のように飛び去って行く六を見て、憎々し気に地を叩いた。



「後宮の門を破られ、子援を奪われただと。汝らはそれをただ眺めていたのか」

 報告を聞いた湘塘龍王は、かっと目を怒らせて堂上から降りると、平伏しながら報告していた臣下を蹴りつけた。

「無能な者どもめが! 賊一匹に予の手を煩わせおって!」

 雷鳴のような声が響くと、湘塘龍王はその本性を現した。

 のたうつように蠢く、凄まじい巨体がその場に現出する。

 その角は鹿に似、鱗は鯉に似、腹は(みずち)に似、掌は虎に似、爪は鷹に似、(うなじ)は蛇に似、耳は牛に似、首は蛇に似、頭は(らくだ)に似、そして目は鬼に似る。

 大きさは、三十丈にも及ぶ巨龍であった。

 咆哮と共に湘塘龍王は竜宮を飛び去り、逃げ出した子援を追った。


 剣に乗って空を駆ける六は、突如聞こえた雷鳴に気が付いて振り返った。

 う、と六の心胆が冷えた。

 背後にあったのはもうもうと広がる黒雲で、それがまるで生きているかのように迫って来る。

 六は書物で見た雲従龍、風従虎という一節を思い出した。

 古来より雲は龍に従い、風は虎に従うという。

 いま迫って来るドス黒い雲の中心に、激怒した湘塘龍王がいることは疑いようもない。

 そして当然というべきか。相手は龍である。その象たる黒雲は六の御剣術などより遥かに速い。

 追い付かれるのは時間の問題だった。

 黒雲の中で雷光が閃いた。

 すると一瞬だけ明るくなった雲の中に龍の影が映る。

 ――ここまでか。

 ちっと舌を打った六は降下して高度を落とした。

「二人とも、降りる準備をして」

「六ちゃんは?」

「私はあれを食い止める」

 そういう六の腕は粟立ち、微かに震えていた。

 そのことに気付いた子援は、胸裏の内で些か驚いた。

 六ほど大胆不敵な女でも、やはり怖いものは怖いのだ。

「そんな。 六ちゃんだけ置いていくなんて……」

「言い争っている暇はない」

「でも……」

 六はぐずる子援を叱責した。

「いいから行け、子援! 永江へ帰れ! ここで行ってくれなきゃ、私が助けに来た甲斐がない!」

「……分かった」

「よし。後ろは大丈夫だから振り返らないでね」

 意を決した子援と貝は、六から降りると、自らの足で地を蹴って駆けだした。


「さあて、龍王とはどんなもんかな……」

 二人が走るのを見届けた六は、くるりと剣先を黒雲へと向けた。

 武者震いを押さえ、雲へ向かって突き進む途中、ふと六の脳裏に先ほど戦った門衛の長の顔が浮かぶ。

 ――あの男は中々の気骨を見せた。

 自分と戦った相手は大抵一撃で沈む。二撃目が必要な相手はそう多くない。

 それだけの武人が高々十数人を纏める小吏に留まっているのは、龍王に部下を見る目がないせいだろうか。

 それとも龍王に目があるからこそ、あの男は小吏に留まっていたのだろうか。

 前者なら、これから戦う相手はただの暗君である。

 だが、もし後者だとするのなら、あの程度の男など湘塘の竜宮には掃いて捨てるほどいるということになる。

 それらの上に君臨するのが龍王だとしたら、その力は如何ほどばかりか……。

 そこまで考えて、六は龍王の強さを想像することをやめた。

 いずれにせよ、答えはすぐに出る。



 六は黒雲を裂き、その中に突撃した。

 不意に目の前に巨大な龍の顔が現れた。

 でかい、と六は驚いた。

 しかし、驚きは龍王の方が大きかった。

 龍王の目には、豆粒のような六の姿などまるで映ってはいなかったということだろう。

 六は真っ向から攻めたつもりだったが、かえってそれが格好の奇襲となった。

 右の拳に力を込め、六は無防備を晒す龍の頬面を、思いきり殴りつける。

 衝突の瞬間、戛然(かつぜん)とした音が響いた。

 六は弾き飛ばされた。

 吹き飛ばされつつも拳を通じて、まるで動きそうにない巨大な質量と、極めて強固な装甲を感じる。

「後者だったか」

 そう六は独り()ちた。

 拳から感じたどうにもできそうにないこの感触、六は覚えがある。

 太號君の将、金華娘。

 あの女の体もこれと似た感触だった。

 苦い敗北の思い出。あの時は絶望し膝を屈した。

 だが、二度とあのような思いはしない!


「貴様――予を湘塘龍王と知っての狼藉か」

 龍から発せられた遠雷のような声が、大気を震わせる。

「龍王だって?」

 六は声を張り上げつつ、肩を竦めてとぼけた。

「私はまた、ミミズかと思ったわ!」

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